1.主人公はアンドレ=オスカー四世であるッ!
その日、ボクは悲しい夢を見てしまった。
母親が、父親を殺そうとしている夢だ。
夫婦の寝室で、誰よりも優しかった母が、その日いきなり、父にナイフを突き刺した。
血を流して倒れる父を見下して、高笑いをあげる母。
偶然その姿を見たボクは枕を抱いたまま、何も言うことが出来ずに、柱の影に隠れるしかできなかった。ただ、夜が眠れなくて、一緒に寝てもらおうと思ったのだ。そうやって訪れれば、いつも両親は「仕方ないなぁ」と笑って、二人の間にボクを入れてくれた。「まだまだアンドレは子供だな」と呆れて言われても、ボクもまだ八歳。少し恥ずかしいながらも、嬉しかったことをよく覚えている。
そう――これは夢だ。だけど、現実に確かにあった過去なのだ。
何度も何度も父親を刺し、うめく父親の声が生々しい。母親の耳をつんざく奇怪な笑い声が、耳を塞いでも聴こえてくる。
ボクが震えていると、異常に気付いた衛兵が部屋に駆け込んできた。力づくで押さえ込まれる母。応急処置で取り囲まれる父。ボクにも「怪我はありませんか?」と衛兵が近づいてくるものの、ボクは震えを抑えることはできない。
結果として、父は九死に一生を得た。母は追放。今も領土の隅にある孤島で一人、人が変わったように何も話さなくなった母は、部屋から一歩も出ないまま、空虚な日々を過ごしているのだという。
そして、父も変わってしまった。誰よりも平和を愛していた心優しい父は、少しでも亀裂があればすぐに戦争を始めるようになってしまった。治安だけでなく、戦の才覚もあった父は、どんどんその成果を伸ばしていく。どんどん領土を広げていく。敵将と相打ちになって死ぬその時まで、誰よりも勇敢に戦った父は、今では英雄と崇められるまでになった。
そんな母に、ボクは会いに行くこともできない。
そんな父を、ボクは称えることもできない。
なぜ、母があのような奇行をしてしまったのか。なぜ、父が急に戦を好むようになってしまったのか。
ボクはそれを聴くことも、知ることもできない。何度同じ夢を見ても、ボクは何も成長しない。
また、ボクは見ているだけ。
また、ボクは震えているだけ。
そんなボクは、夢から覚める。
また、何もできないまま夢が醒める。
あの時、何もできなかったボクに、いったい何ができるだろう。
狂ったように笑う母を止めることも、苦しんで泣く父に駆け寄ることも出来なかったボクに、いったい何ができるだろう。
それでも、ボクは夢から目覚める。
なぜなら――――
ボクの名前はアンドレ=オスカー四世。オスカー王国の国王であるッ!
かつて、奴隷排出国を救った英雄アンドレ=オスカー一世の子孫であり、彼の容姿をより強く引き継いでいると言われるのがボクの自慢の一つなのさッ。美形だから、というわけではない。その偉業を成した先代と似ているといわれて、ボクもいつか、同じようなことが出来るのではないかと張り切っているにすぎないのだけどね。
「あぁ、ひいひいお爺様ぁ。どうしてこうなってしまったのだ?」
だけど、そんなボクは我が家でもあるオスカー城の中庭にあるひいひいおじいさまの石像に縋りついていた。
石像だからその色が灰色なのが悩ましいが、ひいひいお爺様もボクと同じ金髪碧眼の色男だったらしい。少したれ目の甘い顔つきに、それに恥じない艶っぽい声音で数多くの女性を虜にしていたのだという。
だけど、ボクはそんなものに興味はない。成人したばかりの二十歳という若さにも関わらず、国王という大役を担ってしまったのだ。ボクは生活、人生のすべてを国のため、民衆のために捧げると、この輝かしい黄金の空に誓ったのだ。
それなのに、世界はとても非情だ。
「ボクはまだ女性には興味がないとあれほど言っているのに、やれ見合いだ婚約だ……ボクだって、いつかは国の繁栄のために伴侶を迎えないといけないというのは分かっているのだぞ? だけど、今はもっと他にやるべきことがあるのではないか……?」
そんなボクの尊敬すべきアンドレ=オスカーは、ボクより三つ上の二十三歳の時に、長年思いを寄せていた女性と結婚したのだという。色々と格差のある結婚だったようだが、軋轢から想い人を守り切り、生涯幸せに暮らしたらしい。
素晴らしいッ! なんて素晴らしいロマンスなんだと、その話を聞くたびにボクは何度も涙を流しているのだが、だからと言って、ボクが同じことをするのは、まだまだ先のことさ。ボクだって、自分の国王としての至らなさは理解しているつもりだ。そんな未熟なボクに、浮いたイベントなんて不釣り合いだと思わないかい? ひいひいお爺様よッ!
ボクがそうひいひいお爺様に訴えても、ひいひいお爺様は何も答えない。ただ、悠然と若かりし姿のまま立っているだけだ。
ちなみに、西の庭園にはひいひいお婆様の石像が建っている。本当は二人そろった石像を建築する予定だったのだが、お婆様が恥ずかしがったことから、東と西、それぞれの庭園に建てることになったらしい。
「大臣たちがいくら探したところで、そんな奥ゆかしい奥方がいるとはとても……」
その時だった。
庭園でのんびりポッポッと歩いていた白い鳥たちが一斉に飛び立つ。黄金の空は、よく見えれば様々な色放っている。その光を反射して緑やピンクにも煌かせた羽根が、とても雄大で美しかった。
だが、次に聴こえた声に、ボクは唖然とするしかない。
「アンドレ国王ッ! 念願叶いまして、婚約者の召喚に成功しましたぞおおおおお」
この荘厳で美しい空に誓おう。
ボクは断じて、そんなものを願った覚えはない。
呼びに来た宰相は、先代の頃から補助してくれる老紳士である。白いひげが見事であるものの、いまだに背筋が曲がっておらず、誰も彼の年齢は知らない。それは、このオスカー王国の国王であるアンドレ=オスカー四世もまたしかりだ。噂によれば、アンドレ=オスカー一世の頃から仕えているという話すらある。
「ろ、ロクロウ。婚約者を召喚したとは……誠であるのか?」
「もちろんでございます。アンドレ様。このロクロウ、人生で一度も嘘は吐いたことがございません!」
「まぁ、確かに嘘を吐かれたことはないが、ボクは『婚約者を召喚せよ』なんて命じてはおらんぞ?」
ボクは疑問と共に首を傾げてみると、ロクロウはひげを撫でながら「ほっほっほっ」と笑う。
「わたくしめが用意しました世界各国の美女では満足できなかったアンドレ様がおっしゃったのではございませんか。この世界の誰とも結婚するつもりはないと。だから、このロクロウ。別の世界から婚約者を呼び寄せることにしたのでございますっ!」
「……そんな減らず口で本当にやったのか?」
「もう一度言いましょう。このロクロウ、長い人生で未だに嘘を吐いたことはございませぬ!」
ひげに似つかない厚みのある胸板を逸らして、自慢げに言うロクロウに、ボクはため息しか返せなかった。
だが、そんなことを言われては着いていかない訳にはいかない。トボトボと赤い絨毯のひかれた通路を歩き、魔法研究棟の扉を開く。
「オスカー王国国王アンドレ=オスカー四世ッ。ただいま参ったぁー!」
威勢よく押し入ると、黒いローブを纏った魔導士たちの真ん中で、一人踊っているハダカの少女がいた。
「スマホ、スマホを返してー!」
年端は十歳に満たないくらいだろうか。長い黒髪が神秘的な、肌の白い美しい幼女である。年齢的に当たり前であるが、女性特有の身体の丸みは不足しているものの、健康には問題のない血色の良さが、赤らんだ頬とぷっくりした唇から見て取れた。踊っているように見えたのは、彼女は何かを求めてつま先立ちで、懸命に手を伸ばしているからだ。