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人形少女の目覚め

作者:S.U.Y
 水の中を、揺蕩っていた。闇の中にいるのは、目を閉じているからだ。ぽこ、ぽこと水の中を泡が浮かんでゆく音を、耳にしながら眠っていた。
『目を、開けなさい』
 男性の、声がした。それに逆らうことなく、自然と目は開く。透き通った壁の向こうに、白衣の男性が見えた。
『おはよう、アンナ……』
 男性の口が動き、声が呼びかけてくる。直接、頭に声は届いていた。こぽこぽと、自分の口から泡が漏れる。挨拶を返すことは、できそうには無かった。
『もうすぐ、そこから出してあげられる。そうしたら、また声を聞かせてくれるかい?』
 男性がこちらを見て、問いを投げてくる。どういう意味か、わかりかねて首を傾げた。男性は透明な壁に手をついて、ゆっくりと目を閉じる。
『ようやく、また会えた……アンナ……僕の可愛い、たったひとりの愛しい娘』
 ぽこり、と浮き上がる泡の中で、不思議な液体の中で、その声に懐かしさを感じながら、意識は再び途切れてゆく。
『おやすみ、アンナ……』
 優しい声は、ゆらゆらと揺れているようだった。目を閉じていると、やがて声もどこか遠くへと消えていった。

 朝日が昇ると同時に、ベッドに眠っていたアンナは目を開いた。ぱちり、と音が鳴りそうなほど、大きく開けた目には豪奢な彫刻を施されたベッドの天蓋が映る。
 ぐい、とアンナは身を起こす。きっかり九十度の角度で、身体の芯がぶれることは無い。
「おはようございます、お嬢様。今日も、良い朝ですね」
 側に控えていたメイドが、声をかけてくる。
「……うん。良い、朝」
 鈴を転がすような、美しい声がアンナの口からわずかに漏れ出る。感情の篭らない声はともすれば不機嫌にも聞こえるが、メイドは気にせずにアンナの足をベッドサイドに下ろし、寝間着を脱がせてゆく。ほっそりとした、なだらかな少女の曲線が露わになるが、アンナは一切の表情を浮かべずされるがままだった。
 下着を換えて、フリルのついたドレスを身に付けられてゆく。細く小さな足に、ぴったりと嵌められたのはクリスタルの靴だ。赤い宝石を削り出したような靴は、アンナの白い肌によく映えた。
「御髪を、整えましょう」
 メイドが言って、アンナの背中に回る。アンナの背後で、ベッドが柔らかく沈む。さらさらと流れるような白銀の長髪に、櫛が入ってゆく。アンナはそれでも、指一本動かさない。
「お嬢様、旦那様が、朝食を共にとの仰せです」
 結んだ髪を左右に垂らし、メイドの言葉にアンナはうなずいた。そして、立ち上がる。
「わかりました」
 一言、それだけを口にしたアンナは歩き出した。静々と、音立てず身体の線もぶれることの無い、それは完璧な歩行といえた。メイドはベッドから飛び降りると、慌ててアンナの前に立ちドアを開く。アンナはまっすぐに歩き、部屋を出た。
 食堂へ入ると、豪奢な貴族風の男が立ち上がり、アンナに向けて微笑みかけてくる。
「おはよう、アンナ。調子はどうだい?」
 その声に、アンナはスカートの裾をつまみ軽くお辞儀をする。
「おはようございます。問題ありません、トロメア様」
 無表情に、アンナは言った。男の表情に、陰りが現れる。
「……僕のことは、パパと呼ぶんだ」
 男のそれは懇願ではなく、命令だった。アンナは小さくうなずき、もう一度お辞儀をする。
「おはようございます。パパ」
 アンナの言葉に満足したのか、男はうなずきアンナの手を取って椅子に座らせる。逆らうことなく座ったアンナの正面の席へ、男も着いた。そうすると間もなく、湯気を立てた食事が運ばれてくる。
「今日はパンと鶏のスープだ。アンナ、食べなさい」
 男の命に従い、アンナはパンを手に取り、一口齧った。固いパンに、小さな歯型がつく。
「僕の真似を、してごらん」
 男は言って、パンをスープにつけて口へと運ぶ。アンナも、そっくりそのままの動作でスープに浸したパンを口へと入れた。
「美味しいかい?」
 男の質問に、アンナは首を傾げる。
「……わかりません、パパ。必要な栄養は、摂取できているかと思います」
 アンナの答えに、男はがっくりとうなだれる。アンナも真似をして、がっくりとうなだれた。
「……真似を、しなくていい。食事を続けようか」
 アンナに微笑みかけて、男はパンを手に取る。アンナはまた、がじがじとパンを齧った。黙々と、食事の音だけが続いてゆく。サラダもミルクも、アンナは無表情のまま摂取した。
「アンナ。今日は王都へ行く。準備をしなさい」
 食事を終えて、男がアンナの口元をナプキンで拭いながら言った。
「わかりました、パパ」
 アンナは立ち上がり、食堂を後にした。部屋に戻ると、ドレッサーの側にメイドが立っていた。
「……今日は、王都に行く。準備する」
 アンナの言葉に、メイドは静々とうなずいた。
「かしこまりました、お嬢様」
 メイドの手により、アンナの顔に化粧が施されてゆく。髪もいったん解いて、綺麗な形に結い上げられた。
「旦那様と、王都へ行かれるのですね、お嬢様。楽しみですか?」
 メイドの問いに、鏡の中のアンナがきょとんとする。
「……楽しみ?」
「はい。寝込んでいらしたときに、王都の祭りを見てみたい、とおっしゃっていたでしょう? 今日は、祭りの日です。きっと王都は、賑やかですわ」
 生き生きとしたメイドに立たされ、外出用のドレスに着替えさせられる。そうしている間も、アンナはずっときょとんとしたままだった。
「そう……お祭り、楽しみ」
 無表情で、アンナは言う。ドレスの後ろでリボンを結び終えたメイドが、にっこりと微笑んで見せる。
「それは、ようございました。お嬢様、準備が整いました。とっても、お綺麗ですわ」
 称賛の声を上げるメイドと共に、アンナは部屋を出る。玄関口に停めてある馬車の前に、男が立っていた。
「よく似合っているよ、アンナ。さあ、行こうか」
 男がアンナの手を取り、一緒に馬車へと乗り込んだ。使用人たちに見送られ、馬車はゆっくりと動き出す。アンナは顔を真横へ向けて、窓の外をじっと眺めた。
「昼過ぎには、王都に着く。楽しみにしていた、祭りもやっている」
 男のかけてきた言葉に、アンナは反応を示さない。流れる景色を、ただ見つめている。
「……ねえ、アンナ」
 男の呼びかけに、アンナは顔を正面へと向けた。
「はい、何ですか、パパ?」
「ずっと、行きたいと言っていたお祭りに行けるんだ。楽しくは無いかい?」
 問いかけに、アンナは首を傾げる。
「……はい。楽しみ、です」
 何の表情も無い、人形のような顔でアンナは答えた。
「だったら、笑ってくれないか?」
 すがるような眼で、男は言う。
「笑う……」
 呟いて、アンナは口角をにいい、と吊り上げた。
「こうですか?」
 固めた笑顔のまま、アンナが問いかける。男は、首を横へ振った。
「……もういい。無理を言って、すまない。普通にしていなさい」
 男に言われ、アンナは口の形を元へと戻す。肩を落として俯いた男からは、それ以上の言葉は無かった。だからアンナは、再び窓へと顔を向ける。のどかな街道の景色が、流れてゆく。
「……楽しい」
 アンナは、口の中でその言葉を転がした。馬車の音にかき消された声は、男の耳には届かなかった。

 高い城門に囲まれた城下町には、人の波ができていた。大通りの両脇には、屋台の売り子たちの威勢の良い声が飛び交っている。
「馬車では入れない、だと? どうにか、ならないか?」
 城門の前で、男が門番に言い募っていたが、門番の対応はそっけないものだった。
「今日は祭りでありまして、たとえ貴族様といえど、これより先は徒歩にてお進み願っております」
 馬車の中から様子を眺めていたアンナに、男が手招きをする。
「アンナ、馬車はここまでのようだ。降りて、歩いて行こう」
 アンナがうなずくと、馬車の扉が開いて男が手を差し伸べてくる。男の手を取って、アンナは馬車から降りた。
「ようこそ、王都へ。祭りを、ゆっくりと楽しんで行かれますよう」
 敬礼をする門番の間を、アンナと男は手を繋いだまま通り抜けた。
「アンナ、今日は祭りに合わせて南方王国の王子が来訪してパーティを開く。それに、出席するんだ」
 男が、アンナの耳元で言った。人の喧騒が姦しく、アンナの耳には半分も届いてはいない。
「だから、大通りはさっさと通り抜けて、貴族街へ向かう。手を離さないよう、ついてきなさい」
「……わかりました」
 男の言葉に、アンナは握る手にぎゅっと力をこめる。男はアンナにうなずきかけて、決然と前を向いて足を踏み出した。人混みをぬって、男はアンナの手を引いて歩いてゆく。そこへ、急激な波が訪れた。
「あっちの広場で、吟遊詩人がライブをするらしいぜ!」
「行かなきゃ! 急げ!」
 群衆の波が、男とアンナの繋いだ手をもみくちゃにして、引き離してしまう。
「アンナアアアアア! く、どけ、どいてくれ! 僕の、僕のアンナが!」
 手を伸ばした男の姿が、波の中で遠ざかっていった。アンナはきょとんとして、それを見つめていた。
「……ついて行く」
 アンナは呟き、男の消えた方へと歩き出す。だがそこへ、屋台の売り子から声がかかった。
「よう、嬢ちゃん! 南方の海で獲れた、イカ焼きはどうだい?」
 ぬっと突き出されてくるのは、串に刺さったイカの姿焼きだった。見たことも無いものが、香ばしい匂いを漂わせている。反射的に、アンナは口を小さく開けてそれにかぶりついた。
「おお、ノリがいいねお嬢ちゃん! 毎度! 銅貨三枚だ!」
 手を突き出してくる売り子へ、アンナは小首を傾げる。
「……銅貨、三枚?」
 イカ焼きを口に入れたまま言ったアンナに、売り子はうんうんとうなずいた。
「それの代金だ、お嬢ちゃん! さあ、払った払った!」
 もぐもぐと口を動かすアンナへ、売り子が焦れたように手を上下させる。だが、アンナは動かない。イカの頭を噛みちぎり、ごくんと飲み込んだ。
「……美味しい」
 小さな声で言うアンナに、売り子はまたうんうんとうなずく。
「だろ? ほら、銅貨三枚。きっちり払ってくれよ?」
 突き出された手に向けて、アンナはふるふると首を振った。
「……銅貨、持っていない」
 アンナの言葉に、売り子は困った顔になる。
「なんだい、金貨しか無い、ってんじゃあないだろうな? 釣り銭が、足りなくなっちまうぜ」
 売り子の言葉に、アンナはまた首を横へ振る。
「金貨じゃない? んじゃあ、銀貨か? それとも……プラチナか? 勘弁してくれ、たかがイカ焼き一枚にんなもん出された日にゃ、釣り銭どころじゃ無くなっちまう!」
 大仰に嘆いてみせる男へ、アンナはさらに首を横へ振る。
「……お金、持って無い」
 アンナの声に、売り子の動きがぴたりと止まる。
「カネが、無い……? つ、つまり、只食い……?」
 地の底から響くような声音で、売り子が言う。アンナは売り子を見やり、そして手にした串を見つめる。
「……返す?」
「いるか、んなもん! カネ払えって、言ってんだろうが! あんたに無きゃ、連れの者に払ってもらう! どこだ? まさか、一人でカネも持たずに来ましたってわけじゃねえだろう?」
 売り子の問いに、アンナはきょろきょろと視線を彷徨わせる。男の姿は、どこにも見えない。
「……パパ、いない」
「あんだって? じゃあ、誰が払ってくれるんだよ、銅貨三枚! いいか、このイカ焼きは、ただのイカ焼きじゃねえ。南方王国の王子様と一緒にここへ来た、由緒正しいイカ様よ! そいつが、無銭飲食されちまったんじゃあ、ことは俺っちの屋台だけじゃあねえ、南方王国の沽券にかかわるってもんよ!」
 男の振るう熱弁に、アンナは串をじっと見つめる。千切られたイカの姿焼きへ、おぉ、と思わず声を上げた。
「だから、銅貨三枚! きっちり払ってもらわねえと……」
 目を剥いて凄んでくる売り子の前に、ぬっと腕が突き出された。日に焼けた、細いがしっかりと筋肉のついた腕だった。
「親父、悪いな。ちょっと目を離した隙にはぐれてたんだ。ほら、代金だ」
 売り子の前で、拳が開かれる。両手を皿にした売り子の手の中に、一枚の銀貨が落ちた。
「あ、ああ、毎度。釣りを出さなきゃ……」
「釣りはいい。心づけだ。南方王国のイカ様とやらに、よろしく言ってやってくれ」
 そう言うと、腕はアンナの肩を掴んで引いた。
「ほら、行くぞ。もう離れるなよ」
 見知らぬ腕に引かれるまま、アンナは屋台から遠ざかっていった。そのまま連れて来られたのは、噴水のある広場だった。アンナの手を引いているのは、青年だった。イカ焼きを口にしながら、アンナは青年をじっと見つめる。ぼろのようなマントに、粗末な町人の衣服を身に着けていた。空よりも濃い青色の短い髪の間から、鋭い相貌がアンナに向けられていた。
「余計なお世話だったか?」
 頭ひとつぶんの高さから降りて来る声に、アンナは首を傾げた。
「……あなたは、誰?」
 問いに、青年はがりがりと頭を掻いた。
「俺は、ギー……ギー、だ」
「ギー・ギー?」
「……ギー。ひとつでいい。それよりお前、連れとはぐれたのか?」
 ギーの質問に、アンナはうなずく。
「パパと、一緒だった。パパが、どこかへ行った」
 アンナの答えに、ギーは小さく息を吐いた。
「そうか、迷子か。せっかくの祭りだってのに、ついてねえな」
「ついてない……?」
「ああ。親父さんも、心配してんじゃねえのかな」
「オヤジサン……?」
「パパのことだ。ここへは、祭り見物にでも来たのか? 随分、めかしこんで来たみたいだが」
 ギーが、アンナのドレスを指して言った。アンナは、こくりとうなずく。
「……お祭り、楽しみ。パパは、王子のパーティに行くって、言ってた」
 アンナの言葉に、ギーは顔をしかめて首を横へ振る。
「あんなもん、行かなくていいぜ。貴族様のパーティなんて、町の祭りに比べりゃちっぽけなもんだ」
「……わかりました」
 こっくりと、アンナはうなずく。
「お前、名前は?」
 問われて、アンナはきょとんとする。
「さっき、ギーが言った。でも、ギーも間違ってる。アンナモン、じゃなくて、アンナ」
 今度は、ギーがきょとんとする番だった。
「そ、そっか。悪かったな、アンナ。パーティの場所、教えてやろうか?」
 聞いてくるギーに、アンナはふるふると首を動かす。
「行かなくていい」
「そっか……色んな、事情があるんだな、お前にも」
 呟いたギーが、アンナに向けて手を差し伸べた。
「……何?」
「それなら、しばらく俺と付き合ってくれないか、アンナ? 暇つぶしに、祭り見物でもしながら親父さんを探すってのが、いいと思うんだが」
 差し伸べられた手を、アンナはそっと取った。
「わかった。しばらく付き合う。祭り、楽しみ」
 表情の変わらないアンナに、ギーはにっと笑った。
「決まりだな。カネはあるから、心配すんなよ、アンナ」
「……心配、しない」
 そうしてギーに手を引かれ、アンナは人の波の中へと再び身を投じていった。
「アンナ、苦手な食べ物とか、あるか?」
 問いかけに、アンナは首を横へ振る。そうか、とギーがうなずきを見せた次の瞬間、アンナの手元に赤く丸い果実の刺さった串が差し出されてくる。
「甘いのは、どうだ?」
「……美味しい」
 一口齧り、アンナは言う。透明なシロップのかかった果実が、口の中でしゃくりと砕ける。食べながら、手を引かれて歩く。
「こっちはどうだ?」
 ギーが言って、繋いだ手の反対側から黄色い棒のようなものを口元へと差し出してくる。果実から口を離し、アンナはそちらに齧りつく。
「……これも、美味しい」
 つぶつぶとした食感と、タレの焦げた香ばしい匂いが鼻に抜けてゆく感覚に、アンナは手に持った果実の串をギーへと突き出す。
「ん? どうした」
「……交換」
 ギーがうなずき、黄色い棒のようなものと果実の串を交換した。ギーが果実にかぶりつくと、アンナのものよりも大きな歯形がついた。
「うん、うめえ」
 しゃぐしゃぐと口を動かすギーを、アンナがじっと見つめる。
「どうした、食わないのか?」
 ギーの言葉に、アンナは黄色い棒をもう一齧りしてから差し出した。
「……食べて」
「ああ。んじゃ、こっちはお前が食え」
 再び交換した串の果実に、アンナはまたかぶりつく。そうして新たにできた歯型と、ギーの齧ったあとを見比べる。
「何してんだ?」
「……ギーのほうが、大きい」
 もぐもぐと口を動かしつつ、アンナが答えた。
「そりゃ、鍛え方が違うからな。固いもんとか、毎日食ってりゃお前もこうなる」
 黄色い棒に歯を当てて、削るように食べながらギーは言った。
「……固いもの。ギーは、普段固いものを食べてる?」
 しゃくしゃくと果実を食べ進めながら、アンナが問う。
「ああ。さっき食ってたイカ焼きとか……時には、あのイカを生で食ったりもするんだぜ」
 にっ、とギーが笑顔で言った。その頬に、黄色い棒の実のカケラがくっついている。アンナは手を伸ばし、それを摘まんで自分の口へと入れた。
「……美味しい」
「そりゃ、光栄だ」
 芯だけになった棒を片手に、ギーがアンナの頭へ手を伸ばす。アンナはさっと身をよけて、果実を口へと運んだ。
「……ギー、手、べとべと」
 アンナの指摘に、ギーは棒をくず箱へ捨ててマントで手を拭いた。
「そういうとこは、気にするんだな、お前」
 言いながら伸ばされる手を、今度は避けずに受ける。ぽんぽん、と優しく撫でる手は、大きく力強いものだった。
「食い終わったら、あちこち見て回るぞ」
 ギーが言って、アンナの手を引く。そうしてアンナは、祭りの隅々まで歩き回った。大道芸人の路上パフォーマンスに目を丸くして、ギターを弾く吟遊詩人に見惚れつつ、空が夕焼けになるまでふたりは祭りの喧騒に包まれていた。
 夕方になると、人の気配が少しずつ減っていった。大通りに軒を連ねる屋台の数も、ひとつ、またひとつと消えてゆく。
 アンナとギーは、一つの屋台の前にいた。しゃがみこんで陳列された小物を見つめるアンナを、傍らに立ったギーが見守っている。
「……綺麗」
 アンナが見つめているのは、水晶細工の彫刻だった。手のひらに収まるくらいの、魚を形どったものだ。彫刻の背びれの部分には、紐が通してある。首から下げることが、できるものだった。
「そいつは、海の守り神って言われるやつだな。難破した船から、人を助けたって伝説があるんだ」
 ギーの解説を聞きながら、アンナは紐を持って彫刻を持ち上げる。夕日にきらめいて、虹色の光がアンナの瞳に差し込むようだった。
「……ねえさん、これ、いくらだ?」
 売り子の女へ、ギーが声をかける。
「はい。銀貨十枚です」
 ギーは黙って、十枚の銀貨を女へ手渡した。
「ありがとうございます……恋人さんですか? お綺麗な方ですね」
 ドレス姿のアンナと、町民服のギーを見比べて女が言う。
「まあ、そんなもんだ。ほら、行くぞ」
 彫刻に夕日を透かして見つめるアンナの肩を、ギーが抱いた。歩き出しながら、アンナは紐を首へかけて留め金をつけようとしたが、なかなかうまくいかない。じっと、ギーを見上げる。
「……ギー」
「ああ、わかった。こっち向け」
 アンナの視界いっぱいに、ギーの胸が映った。首の後ろで、ギーがかちゃりと紐を留める。そうすると、彫刻はアンナの胸元に収まった。
「……ありがとう、ギー」
 囁くような声で、アンナが言う。
「これくらい、何でも……」
 言いかけたギーが、はっと息を呑んだ。顔を上げるアンナの上で、ギーは通りの向こうを見て険しい顔をしていた。
「アンナアアアアア!」
 雄叫びとともに、男が近づいてくる。男の背後には、王都の警備兵も一緒に駆けていた。
「アレ、お前の親父さんか?」
 ギーの問いに振り向いたアンナが、こくんとうなずく。
「そうか。親父さん、見つかってよかったな。余計なのを、連れてこなきゃもっとよかったけど」
 言いながら、ギーがアンナの肩をとんと押した。
「ギー?」
 振り返り、アンナは首を傾げる。
「行ってやれよ。必死じゃねえか、親父さん。今日は、付き合ってくれてありがとな。祭り、楽しかったか?」
 質問に、アンナは少し考えて、小さくうなずく。
「……うん。楽し、かった。ギーは?」
 問い返すと、ギーは舌を出して見せた。
「楽しいわけないだろ、ばーか」
 言葉を受けて、アンナは目を見開く。ギーの手が伸びて、アンナの頭をくしゃりとひと撫でする。
「冗談だよ。俺も楽しかった。だから、そんな顔すんな。それじゃ、また会おうぜ、アンナ!」
 言うだけ言って、ギーはさっと身を翻す。夕闇の中に、ギーの背中が消えるのは一瞬のことだった。
「アンナ! ああ、アンナ! 無事でよかった! 僕は、僕は心配で……!」
 ぎゅっと、背後からアンナの身体が抱きしめられた。
「……パパ」
 苦しげにアンナが声を上げると、拘束が緩まった。
「ああ、すまないアンナ。それにしても、さっきの男は一体誰だ……? 何だか、抱き合っていたように見えたけれど……」
 アンナを振り向かせ、男はアンナの全身に手を這わせて無事を確かめる。その手が、胸元の彫刻で止まる。アンナはさっと両手を前に、それを隠した。
「……アンナ、それは何だい?」
 問いかけに、アンナは首をふるふると振った。
「……ギーに貰った、大切なものです。パパは、触らないでください」
 じっと上目遣いに見つめて言うと、男は愕然とした表情になり、そして頭を抱えて身をのけぞらせた。
「アンナアアアアア! どうして、どうして僕にそんなことを!」
 往来するまばらな通行人が、男とアンナを見て痛々しい表情を浮かべる。そこへ、警備兵たちが駆け付けてきた。
「トロメア公爵様、どうされたのですか? ご息女は、ご無事ですよね?」
 きょとん、として立ち尽くすアンナを見やり、警備兵は頭を抱えてのけぞったままの男へ声をかける。
「ああ、もしかしてコレが……反抗期、というものなのか……どこまで、どこまで僕に痛みを与えてくれるんだ、アンナ……」
 泣き笑いを浮かべ、ぶつぶつと男が言う。大量の警備兵に囲まれて、アンナと男は貴族街の屋敷へと連れて行かれた。アンナは黙って、男の手を引いて歩いた。そうしてやると、男は大人しくなった。

 屋敷の大広間は、夜を迎えてなお昼間のように明るく照らし出されていた。広間の奥では楽団が、美しい旋律を奏でている。
 テーブルに盛られた料理も、一流の料理人が腕によりをかけて盛り付けた、見た目にも美しいものだった。
 ワイングラスを片手に男が会話しているのを、アンナは側に立って黙って聞いていた。料理を口へと運ぶのに忙しく、御喋りに加わる暇はない。
「すっかり、ご息女様も元気になられたようですな、公爵様。死病に侵されたという噂でしたが、いやはや、人の噂など、あてにならぬもので」
 肥った貴族が、男に言う。男は笑顔で、貴族に向けてグラスを掲げて見せた。
「まだまだ、本調子ではないのですがね。生前……ゴホン、病床で、娘がパーティに出たい、と言っていたものですから、病み上がりの身体をおしてここまでやってきたのですよ」
 貴族は男と杯を交わし合い、そして会場の中へと消えてゆく。人の途切れた隙をついて、男がアンナの耳元に口を寄せた。
「どうだい、アンナ。これが貴族の、祭りというものだ。楽しいだろう?」
 質問に、アンナは口の中にあった料理をごくんと飲み込んだ。男が、アンナの口元を拭く。じっと男を見上げて、アンナは口を開いた。
「……楽しいわけないだろ、ばーか」
 アンナの言葉に、男は一瞬言葉を失い、そして膝から崩れ落ちる。くしゃり、と男の顔が、情けなく歪んだ。アンナは手を伸ばし、男の頭を軽く撫でる。アンナは、お腹の底に熱のようなものを感じ、表情を変えた。
「……冗談です、パパ」
 アンナの声に顔を上げて、男は泣き顔を硬直させた。
「あ、アンナ……そ、その、顔……」
 男の言葉に、アンナは自分の顔にぺたぺたと指を這わせる。
「……どうかされましたか、パパ?」
 質問に返されたのは、抱擁だった。
「アンナが、アンナが笑った! ははは! アンナ、面白かったのかい? あはははは!」
 大声を上げて、男が泣き笑いにアンナの身体を抱きしめる。アンナはきょとんとした顔で、男の背中を叩いた。
「パパ、痛いです」
「アンナ、ああ、アンナ!」
 だが、男は聞き入れず、さらに力を強めるばかりだ。そこへ、楽団の奏でる曲が優雅なワルツへと変わる。使用人たちの手によって、広間の中央にダンスのスペースが作られる。
「南方王国、第一王子ギースクリフ様の御成り!」
 広間の入口から、華やいだ悲鳴のような声が聞こえた。男に抱きつかれたまま、アンナはそちらへ首を向ける。人の波を割って、王子は真っすぐにアンナの元へと歩み寄ってきた。人のざわめきに、ようやく男がアンナを解放し、微笑みをもって王子を迎えた。
「これはこれは、ギースクリフ王子。息災なようで、何よりです……」
 男の差し出した手を、王子は軽く握り返しつつ、長い口上を遮るようにアンナの前に跪いた。
「よう、また、会ったな」
 見目麗しく豪奢な衣装を身につけた王子の口からは、なんとも社交的でない挨拶が飛び出していた。
「……ギー。どうして、ここにいるの? パーティは、退屈って言った」
 問いかけるアンナの前で、王子はにこりと微笑んだ。
「驚かないんだな、お前。町で会った時とは、こんなにもナリが違うってのに」
「ギーは、ギーだから」
 そう言って、アンナは王子の前に手を差し伸べた。
「踊って、ギー」
 差し出された手にキスを落としながら、ギーはうなずいて立ち上がる。
「ああ、いいぜ……それ、似合ってるな」
 王子が、アンナの胸元で光る彫刻を見やりつつ言った。
「……ギーが、買ってくれたものだから」
 軽い足取りで、ふたりは広間の中央へと足を運んでゆく。人々の見守る中、くるくるとふたりはステップを踏んで回り続けた。成り行きを知らない者たちは戸惑いを見せていたが、やがてその表情は称賛と祝福へと変わってゆく……ただ一人を、除いて。
「……親父さん、すげえ眼でこっち見てるな。ハンカチ噛む奴なんざ、初めて見たぜ」
 アンナの耳元へ顔を寄せて、王子が言った。
「……本当、楽しい」
 呟いて、アンナは頬を緩ませる。それは美しく、そして誰よりも生き生きとした笑顔だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
楽しんでいただけましたら、幸いです。

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