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「ソーマ。フォンブリンに腕を下ろせ」
海水着姿の敦彦は、後頭に結い上げた黒髪の、長い枝垂り余りをまとめて小さな丸網にくるみ、水中眼鏡を指で回しながら格納庫内に搬入された五十尋の液槽の縁の上に立つ。
ソーマがひたしてゆく、指や腕の故障排除の為に取り外す外装の重量を軽減させる、透明な絶縁弗化溶液が波立ち、液面がソーマの表層の静電流を液槽の縁の避雷針へはじき返す。
液槽内を泳ぎ巡って作業を終えた敦彦は、液面の白光を目掛けて頭から浮き上がり、液槽から降り出る。
敦彦は歩きながら、南国に咲く大振りの花の花弁のように、バスタオルを羽織って柔らかにひらめかせ、弗化溶液が滴る黒髪を、こよりと小さな丸網とから解き放つ。
「家に入る?」
「藤棚のところで流すよ」
花深い藤棚が天井として渡された清水の小川の中で、弗化溶液を洗い流した敦彦は、陽光と、藤の花を冷した甘い香りの川風とで体を乾かしながら、督彦と談笑している。
「敦彦。香椎敦彦特別措置法の延長について意見聴取したいから、聴聞会に出席してって。さっき手紙が来てたよ」
「ソーマ!聞こえてるだろ!お前らが来い、って電子便で返事しといて。文句あるなら日本から先に滅ぼすって、前に言っといたのに。そっちの都合で担当者が代わったなら挨拶くらいしに来いとも。法はあってもどうでも、こっちは動けるってわからせろ」
「放って置いても、いつもどおり延長だと思うけど。敦彦は成績優秀者の生業申請で、もともと勝手に動けるんでしょ。普通の人は国か府の認可がせいぜいだけど、敦彦は国際認可だし」
「勝ち馬に乗りたいだけさ。法も認可も。向こうが勝手に認可状出したのさ。あんな紙切れは、事務局に送り返したもの」
敦彦は、髪を結い上げて、春夏用の薄手の白いサマージャンパーに着替え、ソーマの格納庫へ独歩する。
「どうするの」
「敵の宇宙拠点を片付ける。頃合だから、地球も一発で滅ぼせるやつを使う」
「昴様」
「帰ったか、スパルタカス。私の分身らしく、子馬の敦彦とソーマとを、少しはいたぶられたか?」
「はい」
「どうした。奴等に情でも移したか」
スパルタカスと同じ容貌、同じ狐色のブロンド髪の少年が、スパルタカスの顎を、曲げた人差し指の中身頃で持ち上げて引き寄せる。
「お前のことを、最も知る者は誰だ?」
「狐のように狡猾で残忍なあなたです」
「ふふ。お前は何の為に生まれてきた?」
「あなたとともに、あなたの機体を操る為です」
「結論だ。お前を誰よりも活かしてやれるのは?」
「私の分身であるあなたです」
「ははは!そうさ。お前のすべてを隅々まで理解して、擬人体のお前に生きる意義を与えられるのは私だけだ。お前が奴等にいささかの情を移したとして、そのお前に奴等と闘わせることが、私の嗜虐の喜びを湧き上がらせ、闘う力をも高めることを、最もよく知るのも、お前だ」
気持ちが白けた様に細められた目の、被虐の眼差しを受けながら、スパルタカスは本題を語り伝える。
「子馬の敦彦とソーマとが、大気圏外での戦闘準備を行っています。格納庫の外で、こちらに見せ付けるように補助推進装置を取り付けています。旧型の開発機を用いて」
「督彦は、冷却水素を持ってきて、そっちに置いて」
「こんな初期型の機体とっておいてたのー。これって一番初めに敦彦が作ったやつだよ」
「操作が簡単でいいだろ」
督彦が作業のために操縦している機体は、五年前に、督彦が扱っている様を敦彦が見て思いついた、拡大縮小製図用の写図機を応用して、巨大人型機械が操縦者の立体動作を軽易に模倣する機構を完成させた、操縦者のみで操作できる試作機である。
「慣れたら次の機体も使ってみなよ」
「えへへー。そのうちソーマも使えるようになるかも」
「そうなるといいね。今日は生体RAIDの即時同期機能を使って、ソーマの性能を限界以上に高めるから、なにかあったらよろしくね」
「またどこかに行っちゃうの」
「人のままでいられたら戻ってくるよ。あれはあれでいいんだけど、もうちょっと遊びたいから。そのために、今日は準備してるんだから」
「手伝ってるんだから、なにするのか教えてよ」
「反物質惑星破壊爆弾さ。アンチ・マター・ボム(AMB)。光速度の臨界を突破して、反物質を大量生成させるから、この世のいかなる手段の防禦も消滅させて打ち勝たれるし、惑星をたやすく砕かれもする」
「光速超えられたら時間が逆に進むと思ってたけど」
「時間はひたすら前に進む。時間は物や力のそれぞれの変化のことだから。物質は光速を超える状態を内在化させた瞬間、超紐の状態がトポロジー的に反転して、時間を遡って来るとされている物質、反物質になるのさ。簡単な話だろ」
「敦彦。生体RAIDの同期準備が出来た。今なら、指に細工を施した時にスマートグリッドから伝わった、模擬人格の残影があるが。平時同期前には消す」
「戦闘開始までに、惑星外飛行しながら閲覧するよ。じゃ、督彦、行って来るよ」
「髪を地面まで伸ばす前に帰ってきてねー!」
ソーマが督彦に手を振り返しながら安全高度まで定常飛翔し、天上へと向き直ると爆炎を噴き出して加速上昇した。
「行っちゃった。スパルタカス遊びに来るかなー」
白幌で、背に取り付けた推進装置を太陽風から防護されたソーマが大気圏から出で、黒い宇宙が重なる、青白い天空線上に上昇するいとまに、敦彦は独白に変換された模擬人格スパルタカスの記憶を吟味する。
(昴崇様。あなたが生まれるより早く、あなたが成長する姿を見越して、ともに機体を操るために、あなたの十年先と同じ脳組織と容貌を機械的に備えて私は作られた。幼いころ、あなたはすべての面で私に親近感を抱き、先行して作られた私の知識や見識、経験や要領を吸収していたが、十年が経った頃、あなたは自分の成長が自分自身の自由によるものというより、機体を操るために、擬人体である私の似姿として育つように、仕向けられていたのだという疑念を抱いた。十年を境に、私はあなたの変化に追随し、私の方から同期するよう設計されてはいたが、生まれてよりの十年間を生涯私の掌中に絡めとられていると苦悩し、物心が盛るにつれ主従の観念が生じたあなたは、私の存在を激しく憎み呪いはしたが、機体を最高度に操るには依然としてあなたの分身である私が必要だった。あなたの嗜虐の喜びが、意想外の闘争の才能を開花させることになったのであれば、私を生涯憎しみ、また生涯分身として嗜虐することも、あなたの分身である私にとっては、あなたとともに機体を操ることが存在意義であることも、すべて私ともども仕組まれていたことなのかもしれません。香椎敦彦は強大な敵ですが、わずかに意図的に手緩さを残している感があります。私の素性を検めるかと思えば黙過し、ソーマに細工をするために新調した私の部品から香るガリウム砒素についても、敏しく感知はしても好意的な解釈を行いました。すぐにでも倒すとして、工作をする上では真価は見極める必要がありそうです)
「計器が増えすぎたから、計器を読む代わりに要約して喋らせはじめるようにした、ソーマの発展段階とは設計思想が違いすぎるな」
ソーマの操縦席を囲む逆斜卵型楕円球の全周画面が作動し、宇宙の景色を映し出す。画面の球形液晶素子は柔軟で衝撃耐性が高く、かつ細かな形状変化に適応させながら、三色問題配列に整置されている。
敦彦は地球と月星、操作系表示の光に照らされつつ、重力子によってソーマの操縦席の背もたれから座面にかけて僅かに発生させた人工重力に、たわむポニーテールを伸び縮みさせながら、感覚を馴染ませる。
「ソーマ!量産十号機まで、量子テレポーテーション通信開始」
敦彦が指図した膝先に、硝子水槽が浮く様な星域立体画像が幻出し、光点の数を増す。
「敦彦。敵の勢力は、予測より増している」
「UMB機が亜光速に到達するまで、敵宇宙拠点周辺星域以外の敵を、量産機で各個に沈黙させる。組織戦開始線は、小惑星帯外端。進路を開劈させろ!」
敦彦は、ソーマと量産機との記憶即時同期に加入し、幽玄に亘る気脈を通じさせて、拡張した人格と感覚と、増大した考慮との全てを脳裏に掌握する。
「いくぞソーマ!」
地球を周囲に巡らせてソーマが方向転換し、地球圏外へ機首を向けて増速する。
敦彦の体は熱を帯び、呼吸は深く静かに、気は昂ぶっている。
「さあ楽しみだな子狐狩りだ!早く顔を見せに来いよ?昴崇!はははははは!」