record23 シャンパンタワー
今、俺はものすごい状態に立たされている気がする。
例えればバンジージャンプの前の、あの台の端の方で棒立ちでいる感じと言ったほうが分かりやすいだろうか。
一歩踏み出せばそれで済むのだがそれがなかなか踏み出せない、そんな状況だ。
他の人は大袈裟かと思うかもしれないが、敦司にとってはそれくらい嫌なのだ。
そう、あのあと佳奈に話しかけることになって本人の近くまで来たところまではいいのだが、なんて話しかければいいのかなかなか決まらないのだ。
普通なら名前を述べてから「乾杯しにきました」と一言いえば済むのだが、そんなことを言ったら「近寄らないでくれる」の一言で終わりそうな気しかしないのだ。
でもこのまま迷っていても時間が勿体ない……だけど!と渋っていると、浩介が敦司の脇をすっと通り過ぎていく。
「お、おい! ちょっとまっ……」
「ねー、佳奈ちゃん。ちょっといいかな? 敦司が乾杯したいらしいんだけど」
嫌な予感がして止めようとしたが、もうその時には浩介が佳奈に話しかけていた。
――終わった。
敦司の頭にはこの言葉しか出てこなかった。
なんて話せばいいのかも決めていない上に、『ねー、佳奈ちゃん』って……。
あれほど呼ばれるのを毛嫌いしているのに真正面からその名前で普通呼ぶだろうか。
呼ばれた佳奈は壁に背を預けたまま、首だけをこちらに向けてくる。
最初に浩介を睨めつけるが、それに対し浩介は笑顔。
一体どんな状況なのだろうか。
片方が嫌そうな表情をしていて、もう片方が笑っている。
これはまた珍しい場面だ。
すると佳奈の方が先に目をそらし、壁から離れるとテーブルの方へと歩いていく。
話すどころか自分とは目すらも合わせてくれないのかと思ったが、それは違うとすぐにわかる。
佳奈はテーブルのそばまで行くとグラスを片手にとり、わざわざ敦司のところまで戻ってきてくれたのだ。
――いや、でも……何を話せばいいんだ。
最初に思うのはやはりこれだ。
なにしろ相手は佳奈だ。
変なことを言ったら気まずい空気が流れかねない。
慎重に言葉を選んでいると、佳奈の方から話しかけてくれる。
「あんまり乾杯とかするタチじゃないけど……あいつがうるさそうだから、一応乾杯」
敦司が一生懸命考えているうちに、グラスとグラスが勝手に挨拶をさせられていた。
確かに表情を見ても言葉通り納得して乾杯をしてくれているようには見えないが、彼女なりにこれでも譲歩をしているのだ。
それが終わるとすぐに踵を返しどこかへ行ってしまう。
これが世にいう、嵐が去った後なのだろうか。
確かにいまいち何が起こったか把握できず、ただ茫然と立ち尽くすことしかできない。
すると今度は、佳奈と入れ替わるようにして浩介が視界に入ってくる。
「なんだ、お前もやればできるじゃん!」
「お、おう……なんか緊張していて特に何もしていないような気がするけどな」
「そんなことないって! ちゃんと乾杯したじゃんか!」
いや、むしろそれしかしてないだろ!と敦司はツッコミを入れそうになったが言葉を呑み込む。
これ以上何かを言うともう一度話しかけに行かなきゃいけないような気がしたからだ。
だから代わりに「ああ、お前のおかげだな」と浩介のことを軽く褒めてからとりあえず違う話題をふっておくことにする。
「それより次は誰のところに行こうか」
「ん? 誰のとこってあとは樹くんだけじゃないのか?」
「いや、そうなんだけどなんか違うような……あっ!」
「な、なんだよ急に、大声出して」
「河西さんを忘れてた!」
一番最初に乾杯の音頭をとっていたことで既に忘れつつあったが、実際には河西とは乾杯はしていなかったのだ。
「なんで一番挨拶をしに行かなきゃならない人を忘れてるんだよ」
「いや、なんかもう既にしたつもりでいた……それに俺には刺激が強すぎる出来事がありすぎたんだ」
「まあ確かにそうかもしれないけど……敦司ってなんかいつも肝心なところが抜けてるよなぁ。お前、ばあちゃんとかによく言われないか?」
「そんなこと言われたことない。今日はたまたまうっかりしてただけだ」
敦司はきっぱりと言い切ったが、一つだけ思い当たる節があった。
それはこの館に来る前、家を出る時のことだ。
たしかあの時服装のことで祖母に言われたような気がしなくもないのだ。
まあそれを浩介にいうわけがないのだが。
「まあどっちでもいいか。とりあえず河西さんのところはやめて、先に樹くんのところからいったらどうだ?」
「え? なんで河西さんのとこ、あー……」
浩介に言われて河西の方に視線を向けると、なんとなく言いたいことが伝わってくる。
――確かにあれじゃあ無理そうだな……。
河西は食堂の奥の方に空いているスペースを使って、グラスを積み上げていた。
既に初めから土台はできていて、その上にのせている感じだ。
実際には見たことはないが、おそらくあれがシャンパンタワーというものだろう。
台の上に乗りながら河西が慎重に積み上げていく。
金持ちの披露宴など、ドラマで稀に見かけるものだ。
周りでは柚唯や翔が危なっかしそうに見ていて、久遠は止めに入っていた。
「ちょっ、ユキ様! そんな高いの作ってどうするつもりなんですかぁ~。それに台から落ちたりしたら危ないですよ」
「フフフ、この芸術が久遠にはわからないみたいだね。僕にだってこれくらいは作れるんだよ」
「でも、なんか今にも倒れそうな気がしますけど……」
「そうかい? 僕にはしっかりできているように見えるけどね」
久遠の方へ顔は向けず、河西は積み上げることに集中していた。
あれが河西のプライドというものなのだろうか。
素直に、できそうもないから手伝ってくれと他の人に言えばいいものを……。
敦司はただただ茫然と河西がやっていることを眺めることしか出来なかった。




