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駅からの帰り道、これからどうしようかなと考えていた。田中くん達にはすんなり信じて貰えたけど、お母さん達にはなんて説明しよう。
よし、ここはシミュレーションしてみようではないか。
「お母さん、記憶がなくなりそうなぐらい頭が痛いっ!」
「大変! 病気かもしれないから、急いで病院に行って見てもらいましょう!」
大袈裟になってしまう。別に頭が痛い訳じゃないし、これは保留で。
「ワタシハダレ、ココハドコ」
「愛花の頭がおかしくなってしまったわ! 精神科に入院させないと」
なんてことになっちゃったら大変だ。これだけは絶対に駄目。
いくら考えても良い案は思い付かず、玄関の前で項垂れる。
こんなことなら、目覚めた時に記憶喪失の振りをしておけばよかった。あの時は健康な体が嬉しくて、その後のことなんか考えてなかったもんね。うーん、困ったな。
「……退け」
「うひゃっ」
突如背後から現れた悠哉くん。いつからそこに? 相変わらず眉間に皺を寄せた不機嫌顔。もうこの顔が悠哉くんの普通の顔だと思うようにしました。
悠哉くんが家の中に入っていくので、私も後を追うように中に入ると、美味しそうな匂いが。ああ、今日のご飯はなんだろ。
リビングにはお母さんとつまみ食いをしている悠哉くん。ほのぼのとした親子。私もその中に入りたい! ええい、女は度胸だ!
「ただいまお母さん」
「あら、おかえり」
「お母さん。お話があります」
「なによ、いきなり。お金ならないわよ」
何故お金の話なるの。そんなに物欲しそうな顔をしてるんだろうか。気を締よう。これから真剣な話をしなきゃならないんだから。
「実は私……」
「記憶喪失とかくだらねぇこと言うんじゃねーだろうな」
「え」
私が言おうとしたことを悠哉くんに言われた。なんでわかったんだろう? もしかして気付いていたの? さすが姉弟! 絆を感じるな。
「そうなんです。実は私、一昨日までの記憶がないんです」
「えっ、どういうことよ?」
その時、戸惑うお母さんと私の間に何かが飛んできた。ガラスが割れた音に驚き、割れた物が何なのか確認すると、コップが壁に当たって割れたみたい。なんでコップが。
「ふざけんじゃねぇぞ」
それはまるで地を這うような声。聞いた人が震え上がるほど不機嫌で低く、体に響く声。
悠哉くんはいつも不機嫌だった。だけど、今は不機嫌なんて言葉じゃ言い表せないぐらいに怒っている。その視線だけで倒れてしまいそうなぐらい睨み付け、私は始めて悠哉くんが怖いと思ってしまった。
「周りが自分の思い通りいかなくて、立場が悪くなったら記憶をなくしてリセットか? ゲーム感覚のつもりかよ、糞女っ!」
「きゃっ!」
「悠哉っ!」
当たるかと思った。顔スレスレに投げられた机の上に置かれた食器。悠哉くんの殺意にも似た気迫に気圧され、私はその場にへたり込んでしまった。
「てめーが今まで何してきたかわかってんのか? 散々やりたい放題して俺ら家族に迷惑かけやがって。今更忘れたとは言わせねーからな!」
「わ、私は……いったい何をしたんでしょうか?」
本当に愛花ちゃんは何をしたんだろう。悠哉くんがこれだけ怒るなんて、相当酷いことをしたんだと思う。
「てめーが他所でもめ事起こす度に、俺らは頭を下げ続けてきた。てめーの弟ってだけで、中学まで周りから白い目で見られてきた! 欲しいものはなんでも欲しがって、欲しかった服が買って貰えなかっただけで、母さんを階段から突き落としただろうが!」
「えっ、そんなっ」
「まだ知らねー振り続けんのかよ。玄関の前でてめーがぶつぶつ言ってんの聞いてたんだよ、俺は! 騙されねーからなっ!」
悠哉くんの言葉が耳に入らない。まさか、そんな……大切な家族を、お母さんを階段から突き落とすなんて、なんでそんなことをしたの愛花ちゃん!
衝撃の事実に言葉を失い、恐る恐るお母さんを見上げる。心配そうに私を見て、悠哉くんを止めようとしている。
確かに時々冷たかったと思うけど、それ以上に優しかった。美味しいご飯を作ってくれて、必ず挨拶を返してくれる。お手伝いをすればありがとうって言ってくれた。酷いことをしたのに。嫌われてるはずなのに。
なんで愛花ちゃんはこんなに優しいお母さんを傷付けてしまったんだろう。
「……お母さん」
よろめきながらお母さんの下に行き、盛大な音をたて土下座した。
「ごめんなさい!」
「あ、愛花!?」
「謝って済むことじゃないけど、ごめんなさい!」
例え私が犯したことじゃなくても、私は愛花ちゃんの体を貰った。なら、愛花ちゃんの全てを背負わなきゃいけない。
どんな償いをすればいいかわからず、私はただ何度も頭を床に打ち付け謝った。
「や、やめなさい愛花。もういいわ」
「でも、一歩間違えば死んでしまったかもしれないのにっ」
「落ちたといっても、4、5段目からだったし、打撲ですんだわ」
「打撲っ!?」
「ひっ、」
いくら死んでないからといっても、お母さんに打撲をさせてしまったなんて。なんてこと!
きっと私の顔は真っ青だったに違いない。お母さんが困ったように慌てて、その後ろで悠哉くんが戸惑っている。
お母さんを傷付けてしまっていたのなら、もしかして悠哉くんにもどこか怪我をさせてしまっていたんじゃ。
「な、なんだよ」
立ち上がり、ふらふらと幽霊になったような動きで近付き、後ずさる悠哉くんに震えた声で聞いた。
「もしかして、私は悠哉くんにも怪我をさせてしまったんでしょうか? 何か酷いことをしてしまったんじゃないんですか?」
「……餓鬼の頃から弟は姉の下僕だと言って、小間使いのようにこき使い、小学校は毎朝背負って登校させて、小遣いや玩具は全部奪われた」
まさに横暴。私の中の愛花ちゃんのイメージは、自殺までしてしまう実は儚げな女の子だった。だけど悠哉くんの話を聞いていくうちに、ガラガラと音を立てて崩れていく。
「中学になる頃には俺もデカくなって言うこと聞かなくなったら、今度は周りに手を出しやがって。男のもめ事の尻拭いを押し付けては自分は好き勝手。もううんざりなんだよ!」
小さい頃からそんな扱いをされてきたのなら、疎ましく思って当然。人生は幼い頃の経験で左右されるって聞いたけど、悠哉くんはその時間を苦しんで生きてきた。愛花ちゃんはなんでそんな事をしてしまったんだろう。実の弟に。
私は、私は悠哉くんになにが出来るだろう。彼には今よりもずっとずっと笑って欲しい。今度は私がお姉ちゃんとして。私は悠哉くんのお姉ちゃんになるんだから!
「お母さん!」
「な、なによ」
「これから私のお小遣いは悠哉くんに全部あげてください」
「は?」
「え」
今の私に出来ることは少ないけど、それでもなにもしないよりいい。
「今度は私が悠哉くんを背負って学校まで送ってあげます!」
「な、ふざけんな! んな恥ずかしいこと出来るかバカ!」
「なら、自転車で送ります」
「いらねーよ、女に送ってもらうとかありえねーわ」
ぐふ。確かに女の子に送ってもらうなんて、悠哉くんの自尊心を傷付けてしまうかもしれない。困った、他に出来ることは……
「はっ! では悠哉くんがなにかに巻き込まれた時は、私が盾として守ります。私は、悠哉くんのお姉ちゃんなんですから!」
「今更姉貴面とかふざけるんじゃ、」
「それでも! 手遅れかもしれないけど、私は悠哉くんのお姉ちゃんになりたいんです!」
思いっきり自分の気持ちをぶつけ、肩で呼吸を繰り返す私に、悠哉くんはなにも言わなくなってしまった。その目には明らかに困惑めいていて、少しでも私の気持ちが嘘じゃないとわかって欲しかったから、私は悠哉くんの目から逃げなかった。
「……っ」
「取り敢えず病院に行きましょう」
「お母さん……」
ソファの上に置かれていた鞄を持ち、車の鍵を取り出す。お母さんは半信半疑だけど、信じてくれたのかもしれない。
「悠哉、気持ちはわかるけど少し落ち着きなさい。後片付けちゃんとしてね」
「………」
床に散らばった破片。まるでそれは悠哉くんの心のようで、悲しくなった。
「私が、帰ったら私が片付けます」
「愛花。割ったのは悠哉なの。悠哉、お願いね」
「………」
リビングを出る際、そっと横目で悠哉くんを見れば、俯いて握り締められた拳が震えていた。私はもうなにも言えず、お母さんと病院へと向かった。
車の中の空気は重くてとても話せない。愛花ちゃんと家族の溝の深さを改めて知ったからには、これからもっと頑張らなきゃ。
病院に着くと心療内科に連れていかれ、優しそうな先生からいくつかの質問を受けた。その後はCTや脳の写真を撮られたけど、お願いだからどうか入院だけはやめてください。
「そうですね……見たかぎり脳の異常は見当たりません。一部だけではなく、幼い頃からの記憶が全て忘れてしまう【全生活史健忘】でしょう」
「全生活史健忘……」
「外部に異常が見当たらないので、発症理由は本人に耐えられないほどのストレスによるものでしょう。記憶の手掛かりになるものと少しずつ接触させた方がいいでしょうが、大きな精神的苦痛が原因なので、うつ状態になる可能性があります。ご家族の方は注意してあげてください」
なんだろう……大事になってる気がする。記憶喪失って、そんなに大変なことだったなんて知らなかった。どうしよう、精神科に入院なんてことになったら。
「あ、あの。でも私健康なので学校に行きたいんですけど」
「ええ、構いませんよ。体に異常はありませんし、日頃の日常生活を過ごした方が記憶を取り戻せやすいでしょうから」
「やったー! 学校に行けるー!」
思わずガッツポーズをしてしまい、お母さんに叱られました。此処は病院だから静かにしないと。でも嬉しい! 田中くんと瀬田さんの言う通り、入院しなくていいんだ。
「ふふ、普通は記憶喪失になると不安で落ち込む方が多いのですが、彼女は明るくていいですね。これなら回復も早いでしょう。何かあれば、また来てください」
「ありがとうございました」
「ありがとうございましたー!」
先生にお辞儀して、待ち合い室で待っている間、ずっとにこにこ顔だった。最悪を想定していたから、嬉しくて堪らない。
「あんたそんなに学校が好きなの?」
「うん! 学校楽しかった。友達も出来たんだよ」
「友達? あんたに?」
「それも三人も! 隣の席の田中くんでしょ、環境委員の瀬田さんに副会長の御子柴くん。皆優しくていい人ばかりなんだ」
友達が出来たら、したいことがいっぱいある。一緒に登下校したり、休み時間にお喋りしたり、あだ名で呼びあっちゃったり……うきゃー、考えただけでわくわくしちゃう!
「そう……友達が出来たの」
振り向くと、茫然とした感じでお母さんが呟いた。愛花ちゃん友達いないって聞いてたから、意外だったのかもしれない。
それから車の中で今日一日の出来事を話した。食堂のご飯が美味しかったことや、花壇のお手伝いをしたって言ったらビックリされた。愛花ちゃん虫嫌いだったんだって。可愛いのに。
家に帰ると、リビングは綺麗に掃除されていたけど悠哉くんの姿は見当たらない。自分の部屋にいるから大丈夫よってお母さんは言ったけど、不安だった。もし、顔も見せてもらえなくなったらと思うと怖い。
その不安は夕御飯の時に吹き飛んだ。自分の部屋から下りてきて、一緒にご飯を食べてくれたから。無言だったけど。
「回覧板回してくるから、先にお風呂入ってて頂戴」
「はい。いってらっしゃい」
ふあぁぁぁ。お風呂って気持ちいいな、最高だよ。寝たきりの時はタオルで拭いてもらったりしただけで、お湯に浸かれる機会があんまりなかったから。幸せだ。
湯船に浸かり、至福の時を過ごしていると、大きな物音と一緒に悠哉くんの声が聞こえた。
「うわっ!」
「え、なに!?」
もしかして、泥棒!? お母さんがいない隙を狙って泥棒が入ったんじゃ。それで悠哉くんと鉢合わせして、襲われたんじゃ……助けなきゃ!
慌てて湯船から飛び出し、お風呂場から出ると、廊下にダンボールや荷物が散らばっていて悠哉くんが座り込んでいた。どうやらクローゼットの荷物が落ちてきたみたい。よかった、泥棒じゃなかった。
だけど落ちてきたダンボールの大きさを見て慌てた。だってこんな大きな物が頭に当たったら、悠哉くんが記憶喪失になっちゃうよ!
「大丈夫ですか、悠哉くん!」
「あ?……って、なっ!?」
「どこか怪我はしていませんか?」
頭を打っていない心配で、コブがないか確かめたけどなかった。よかった、本当に。
あれ、なんか悠哉くんが固まってる。顔が赤い。
「…………ざけんなっ! とっとと風呂場に戻れ!」
肩を押されよろめき、訳がわからず首を傾げる。え、なんで怒られてるの?
「悠哉くんに怪我がないか心配になってしまって、迷惑でしたか?」
「そういう問題じゃねー! てめーなんつー格好してんだよ、早く行け!」
私の今の格好。お風呂から慌てて出てきたので裸です。それで怒っているの? なんで?
「えっと……裸が嫌いなんですか?」
「なっ、てめーは記憶と一緒に恥じらいも忘れたのかよ!」
あまりに顔を真っ赤にさせるので、お風呂場に戻った。
「マジか……記憶がねぇて、マジか……」
私は幼い頃から先生達に診察で裸を見られてきたので、特に裸を見られることに何の問題もないし、恥ずかしいとも思わない。
だけど、今は愛花ちゃんなんだ。見れるのは私の体じゃなく、プロポーション抜群の愛花ちゃんの体。うん、無闇に見せちゃ駄目だよね。気をつけよう。家族にも見せちゃいけないのは不思議だけど。
お母さんが帰って来て、悠哉くんが廊下の掃除をしていたのに驚き、私に何があったのか聞いてきたので、あったことを話したら、
「なに考えてるのよ! 年頃の女の子でしょ!? もっと慎みを持ちなさい!」
「はーい……」
たっぷり叱られました。難しいな、年頃の女の子って。