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 聖蘭の柔道部の方は練習に戻り、私は残りの草むしりを終え水まきをする。ムワッとしていた熱気がひんやりと涼しくなっていく。

 次は部室の掃除だとドアノブを回すと……開かない。


「え」


 何度回しても開かない。鍵がかかってる!

 よくよく考えると、部室を開けっぱなしにしたりしないよね。鍵を借りてこなきゃ。

 道場には近付かないでと言われていたのでちょっと行きにくいけど、掃除が出来ないのは困る。お弁当を食べる時間が減っちゃうよ。

 道場の方へ近付くにつれ、部員さん達の声とバタンバタンと大きな音が聞こえてくた。まだ転がってるのかな? 入り口からこっそり中の様子を覗き込むと、そこは白熱した戦いの場になっていた。


「はぁあっ!!」

「せいやぁああ!!」


 柔道着の襟を持ち巧みな足技を繰り広げたり、相手の隙をみて投げ飛ばそうとしたりと、息をするのも忘れてしまうぐらい引き込まれしまう。

 すごい……これが本物の柔道。

 練習なんだろうけど誰もが真剣な目をしていて、その気迫に喉が鳴る。柔道ってカッコいい!


「篠塚?」


 食い入るように見ていたら、柔道着を乱しタオルで汗を拭く御子柴くんに声を掛けられた。

 お、おふ。なんだろう……息が上がっているからなのか、すごく色気が出ているような。高校生に全く見えないよ。


「何処に行っていた? 聖蘭が使っている道場に様子を見に行けば、お前がいなかったから心配していた」


 不慣れな私を気にかけてくれたんだ。聖蘭の人に聞いてもわからず、サボっているのではという話になったらしいけど、御子柴くんがそれを否定してくれたらしい。


「篠塚はそういう奴じゃないと言ったんだが、以前の篠塚の噂が際立ってあまり信じてはくれなかった。居づらくはないか?」

「そんな事ないです。練習風景を見れたし、お手伝いも出来てすごく楽しいです!」

「なにしてんの」


 御子柴くんと話していると、横からバインダーを持った咲山さんがいた。


「仕事サボって健人の邪魔しに来たの?」

「咲山」

「皆一生懸命やってるのに、ひとりだけサボって邪魔するなんて迷惑だから。やる気ないんだったら帰ってよ」


 私達の存在に気付いたのか、練習を中断して静まり返った道場に咲山さんの声が響く。一気に注目を浴びて突き刺さる視線が痛い。


「サボってません。洗濯と草むしり、それに水まきを終えた所です」

「そんな事してたのか!?」


 驚いた顔をした御子柴くんに不思議に思い首を傾げる。

 そんな事って、いつもマネージャーさんがやってる事だよね? それをお手伝いするのはそんなに驚くことかな?


「篠塚は柔道部のマネージャーじゃない。あくまで合宿の助っ人として手伝いを頼んだだけだ。そんな事はしなくていい」


 御子柴くんいわく、合宿の2日間だけのお手伝いだから簡単な事だけを頼むつもりだったらしい。まさか私が裏方の仕事をしていたなんて思わなかったんだって。


「咲山には事前にそう言ったはずだ。何故こんな事になった」


 厳しい目で問い詰められた咲山さんは、視線を逸らし唇を噛む。


「……篠塚さんが自分でやりたいって言ったからよ。合宿の時間だって限られてるし、仕事を教える時間が勿体ないじゃない」

「それでも、他にもビデオを撮らせるとかいくらでも仕事はあるだろ。ひとりで裏方の仕事をさせてどうする」

「だって!」

「ま、ままま待ってください!」


 なんだか喧嘩になりそうな雰囲気で、思わず間に入ってしまった。眉間に皺を寄せた咲山さんに睨まれつつも、御子柴くんに私がしたかったからと伝える。仕事を押し付けたと思われたら咲山さんが可哀想だもん。

 すると軽くため息をつかれ、御子柴くんは首を左右に振った。


「理由はわかるが、それでは意味がない。秋にある交流会で、聖蘭の松栄は代表として出てくるだろう。顔合わせと聖蘭の事を少しでも知れるようにと思ったからだ」


 そんな理由があったなんて知らなかった。

 姉妹校との接点がない私に、交流会で見知った人が少しでもいた方が気が楽だろうと考えてくれてんだ。


「咲山には出来るだけ篠塚に聖蘭の仕事をさせてやってくれと言ったはずだ」

「……試しただけよ。男目当てで仕事されちゃ迷惑だし。お昼からは聖蘭の手伝いをしてもらうわよ。それでいいんでしょ」


 もう話は終わりだと言わんばかりに、御子柴くんの呼び止めの声を無視して道場から出て行く。部室の鍵を貰いに来たのを思い出し、慌てて後を追い掛けた。


「咲山先輩!」

「……なによ。文句でも言いに来たわけ?」


 不機嫌な顔で振り返り、近付く私から距離を取る。わかってはいたけど、かなり嫌われてるね。ちょっと話し掛けにくい。


「部室の掃除をしたいので、鍵を貸して欲しいのですが」

「……あんた何企んでるの」

「へ?」


 お日様の日差しで暑いはずなのに、咲山さんの冷たい眼差しが背筋を凍らせる。

 企むってなんの事だろう? 鍵を借りたいだけなんだけど。

 首を傾げる私に苛立ちの声が上がった。


「騙されないから。記憶喪失だなんて言って、チヤホヤされたいだけでしょ。本当に草むしりをしていたのか、今から確認に行くから」


 チヤホヤされたい訳じゃないから否定するべきなんだろうけど、記憶喪失じゃないのは本当だから何とも言えない。別に確認されるのは構わないし、ずんずんと先に進んで行く咲山さんの後を小走りで追い掛けた。

 すると、部室の周りの草むしりの山を見た咲山さんは、苦虫を潰したかのように顔を渋らせる。


「誰かに手伝って貰ったんじゃない」

「えっ、ひとりでしましたけど?」

「どうだか。これ部室の鍵。なくさないでよ。それと、部室の物を勝手に動かしたり壊したりしないで。簡単に掃除してくれたらいいから。掃除道具はロッカーに入ってるから使って」

「はい、わかりました」


 鍵を受け取ろうとした時、咲山さんの手が止まった。


「その手……」


 私の手の事を言ってるのかな? 軍手をしないで草むしりをしていたから、手のひらに小さな切り傷が出来ていた。手は洗ったけど、爪の中に入ってしまった土は取れなくて真っ黒だ。後でちゃんと洗わなきゃ。


「……………」


 咲山さんは何も言わず、眉間に皺を寄せたまま道場に戻って行った。

 さあ、早速掃除開始! ……て、あれ? ホースの横に何かある。

 水まきで使ったホースは後で返そうと、部室の前に置いておいたんだけど、隣に缶ジュースが置かれていた。缶ジュースの下には『篠塚へ』という、私へのメモ書きが。


「これはまさかっ、妖精さん!?」


 以前にも、花壇の水やりの時に妖精さんがホースを届けてくれた事があった。姿は見えなかったけど、困っていた私を助けてくれたのは妖精さんだと思う。今回も、水分補給をしていなかった私への気遣いなのかも。

 ひんやりと冷たい缶ジュースを手に取り、「妖精さんありがとー!」と感謝の言葉を叫び、部室の鍵を開けた。


「おおぉっ、広い」


 暑さでもあっとした部室は、思ってた以上に広かった。あんなに部員さんも居たんだし、広くないと大変だもんね。

 左側には個人ロッカーで、右側にはテレビと机が。ショーケースには沢山のトロフィーが飾られている。壁には歴代の先輩達の写真が飾られていて、去年の写真を見つけて思わず飛び付く。


「この端っこの人……御子柴くん?」


 今の御子柴くんより、少し幼い顔立ちの御子柴くんが写っていた。なんだか可愛い。1年で随分逞しくなるんだ。柔道恐るべし。

 写真から離れ、窓を開けて掃除を始める。掃除は上からとお母さんに教わったので、ロッカーから借りたほうきで届く範囲の埃を落としていく。

 本当は照明も拭きたいんだけど、椅子に乗っても届かなかったから断念した。御子柴くんみたいな身長があったら届くのになぁ。

 その後も窓拭きやロッカーを拭いたりして、最後に床に落ちたゴミを取って掃除は終了。窓から入ってくる風が心地良い。


「篠塚先輩」


 風の心地良さに浸っていると、弱々しい声で呼ばれ振り返る。入口に立っていたのは関さんだった。

 女の子から先輩って呼ばれちゃった! すっごく嬉しいよこれ!


「ごめんなさい!」

「え」


 いきなり謝られて固まる。喜んでいたのに謝罪。なんで?

 謝られるような事なんてされてないし、どう対応したらいいかわからず固まっていた私に、関さんが申し訳なさそうに言ってきた。


「篠塚先輩に雑用を押し付けるような事をしてしまって、本当にごめんなさい」

「なんだその事ですか。大丈夫ですよ、掃除好きなので」

「怒ってませんか?」

「はい」


 ホッとした顔を見せ、掃除を手伝うと言ってくれた。もう掃除は終わっていたんだけど、窓を閉めたり掃除道具を片付けたりするのを手伝ってくれた。良い子だなぁ、関さん。


「……先輩、この事ちゃんと御子柴先輩に相談した方がいいですよ」


 部室の鍵を閉めようとした時、俯いた関さんがボソリと呟いた。


「相談?」

「篠塚先輩は優しいから、なんでもいいよって許しちゃうと思うんですけど……そこに付け込こんで、咲山先輩はドンドン仕事とか押し付けちゃいますよきっと」

「是非お願いします!」

「は?」


 たくさん仕事が出来るのは大歓迎だ。お手伝いをさせて貰えるだけで嬉しい。何より、自分で出来る事が増えていくのが、成長している実感が出来て自分自身を誇れる。生きている中で、成長している事がわかるのがどんなに嬉しい事か……

 手のひらを見つめた。草むしりの時にできた傷。あの私が草むしりだよ? 誰かの力を借りたんじゃなくて、私が1人で全部やった。やれたんだ。

 言葉に出来ない思いが込み上げてきて、ギュッと拳を握る。そんな私を、関さんは不思議そうに見ていた。


「……篠塚先輩、本当に記憶喪失なんですね」

「関さん?」

「あ、私お昼ご飯の手伝いをしないといけないんですけど、先輩も行きますか?」


 急に話題を変えられ、すぐに返答できなかった。にっこり笑う関さんが誰かに似てるような気がして……誰に似てるんだろう?

 お昼ご飯のお手伝いはしたいけど、ホースを片付けたり用具室の鍵を返したり、むしった草を捨てに行かなきゃならない。


「全部の片付けが終わったらすぐ行きます」

「そうですか。なら、部室の鍵は私が咲山先輩に返しておきます。大事な物なんで」


 なくしたら大変だもんね。関さんに鍵を渡し、私は用具室へ。職員室にはもう須藤先生の姿はなく、鍵を戻してごみ捨て場に向かう。これがものすごく大変だった。


「お、おもいぃぃぃっ」


 草を燃えるゴミ袋に入れて持ち上げようとしたら、持ち上がらなかった。抜くときは軽々抜けたのに、纏めるとこんなに重くなるなんて! 草恐るべし。

 ずるずる引きずって持っていくしかなくて、そのうち袋が破けちゃうんじゃないかと心配になっていた時、前方から見える2人の人影。


「篠塚さん?」

「田中くん!?」


 帽子を被り、爽やかな水色のTシャツとジーパン姿のラフな格好をした田中くん。隣の人は見覚えのあって、確か何度か田中くんと一緒にいた所を見たことがあった気がする。顔よりも、彼が着ているTシャツに目がいってしまう。

【我が人生に悔いなし】

 なんて心惹かれる言葉だろう。

悔いのない人生を歩むのがどれだけ素晴らしいか。私も言えるような人生を送りたいな。


「なにしてるの?」


 引きずっているゴミ袋を見ていたので、柔道部の合宿のお手伝いをしている事を伝えた。


「でもそれ重いよね? 俺が持って行こうか?」

「えぇっ!? そんな、悪いですから。大丈夫ですよこれぐらい」

「いや、でも」

「いいじゃん持って貰えば。そのまま引きずってたら穴開きそうだし。俺先に行ってるからな」


 田中くんの友達が手を振って立ち去り、ゴミ袋を持ち一緒にゴミ捨て場へ。田中くんに会えるとは思わなかったからとっても嬉しい。ゴミ袋を引きずっていた疲れが、きれいさっぱり飛んでいってしまった気分だ。

「田中くんはどうして学校に?」

「聖蘭の柔道部の人にサッカー部の事を聞こうと思って。聖蘭は強豪で、毎年国立競技場に行ってるから、少しでも情報収集しないと」


 サッカー部にとっての甲子園みたいな感じらしい。そこに毎年出場しているということは、かなり強い部なんだ。さすがスポーツ重視の学校。

 ゴミ捨ても終わり、聖蘭の柔道部の人が使っている道場に行くと、入口付近が賑わっていた。


「どうかしたんですか?」

「お、篠塚ちゃん。午後の練習試合で誰が誰とやるかで揉めてんだよ。今日は同じ学年同士で当たらせるんだけど、2年の御子柴は俺がって言う奴が多くてね」


 聖琳の人は御子柴くんの強さを知っているから、体育祭の競技の前から諦めムードだった。なのに、聖蘭の人はその御子柴くんと闘いたくて争っているなんて。

 これが熱血! 強い人と闘いたいと熱く語る柔道部の人に胸が熱くなる。青春です!


「すごっ……あの御子柴と闘いとか」

「でも田中くんだって、騎馬戦で御子柴くんのハチマキ取ったじゃないですか」

「え、マジで!?」


 一気に注目の的となった田中くんは、群がるように柔道部の人に囲まれ狼狽えている。ガタイのいい人達に囲まれるとちょっと怖い。


「この細腕で?」

「あの御子柴に騎馬戦で勝てるって事は、見掛けによらず結構強いのか?」


 ジロジロと頭からつま先まで見られたり、腕を掴まれたりと、田中くんが揉みくちゃにされそうで血の気が下がっていく。まずい事を言ってしまったんじゃ……


「柔道はやってないのか?」

「え、やってないですしやった事もないです」


 松栄さんが気押され1歩下がる。なんだか田中くんの表情が堅い。


「柔道に興味はないか? 御子柴に挑む勇気は見所があるぞ」

「いや、ないですから! サッカー一筋なんで」

「ふむ。残念だな。しかし柔道の面白さを知ってからでも、結論を出すのは遅くはないだろう。今から俺と組み手をしないか?」

「ええっ!?」


 そんな無茶な。

 言葉には出てこなかったけど、田中くんの気持ちがすごくわかる。全国大会で優勝する人といきなり対戦とか、無茶過ぎる。しかも田中くんは素人なのに。

 焦り慌てふためく田中くんが何度も断っているのに、松栄さんは一考に諦める素振りを見せない。

 田中くんが困ってる。助けなきゃ!


「わ、私っ! 私柔道に興味があります。私でも柔道出来ますか?」


 柔道の話題を出して気を引こうとした私の咄嗟の作戦は、予想以上に上手くいった。


「えっ、篠塚さんが柔道!? 危ないですよ」

「そうだなぁ……まずは走り込みから入って基礎体力を上げるべきだろ」

「下手したら、投げられた瞬間意識が飛ぶんじゃないか?」


 なにそれ怖い。

 私が柔道をしたいと言ったら、皆真剣に考えてくれる。悪い人達じゃない。ただ真っ直ぐで押しが強いだけ。……ちょっと強すぎる感じがするけど。


「うむ。柔道に興味を持って貰えるの嬉しい事だ。大丈夫だ篠塚。柔道の極意は【柔よく剛を制す】だ」

「柔よく剛を制す?」

「そうだ。一見穏やかな奴でも、いざ闘いになれば自分より大きな奴を倒せる。それが柔道の面白い所の1つだ。老若男女問わず、誰にでも出来る。当然篠塚にもな」

「いや、さすがに婆ちゃんは無理だろ。あの世に逝っちまうよ」


 柔道にそんな言葉が。柔よく剛を制す。なんて素敵な言葉なんだろう。私でも頑張れば、皆みたいな試合が出来るようになるのかも。あの真剣な眼差しで練習していた皆のように。

 グッと拳を握り、宣言するかのように手を上げた。


「私、柔道やってみたいです! 皆さんみたいに熱血した青春を送りたいです」

「柔道の道は険しく厳しいぞ」

「望む所です。いきなり御子柴くんや松栄さんと試合なんて事は無理ですけど、1歩1歩強くなりたいです」

「その心意気、気に入った! 合宿の間は俺が面倒をみよう」


 松栄さん直々に鍛えてくれるそうで、お礼を言うと周りから反対の声が飛び交う。


「松栄が鍛えたらマッチョになっちまうよ!」

「これ以上被害を出すのはやめてくれ!」

「折角合宿で、可愛い子にサポートして貰えラッキーって思ってたのに! 松栄さんの扱きは女の子にはキツすぎるからマジでやめてくださいっっ!!」


 いったい過去に何があったんだろう?

 柔道部の人達だけではなく、田中くんも一緒になって止めるので松栄さんに柔道を習うのは諦めました。残念。


 お昼ご飯の準備が出来たと、咲山さんと御子柴くんが知らせに来てくれたので、聖蘭の人達は食堂に向かった。

 田中くんは友達と帰ってしまうらしく、またねと言って手を振る。立ち去る後ろ姿に寂しいよな、悲しいような、そんな感情で胸が苦しなってしまって……咄嗟に田中くんのTシャツを掴んでしまった。


「えっ?」

「あっ、……ごめんなさい」


 なにやってるんだろ、私。引き留めるような事をしちゃって、田中くんが戸惑ってるよ。

 でも、手を伸ばさずにはいられなかった。悠哉くんの時は、一緒にご飯が食べられなくて残念だなって思っても、こんなに寂しいとは思わなかったのに。


「えっと……どうかしたの?」


 俯く私に気まずさを感じ、田中くんは困ったように聞く。

 本当にどうしちゃったんだろう。放さなきゃいけないのに。いつもならさよならって、またねって笑って挨拶出来たのに。

 掴んだTシャツを放したくない。


「あーそういえば、お使い頼まれてたんだったー。じゃあな、聡。俺家に帰るから後で来いよ。来なくてもいいけどなー。爆発しとけ」

「はっ!? ちょ、なんだよいきなり?」


 田中くんの友達が棒読みのような声で話し、慌てる田中くんを置いて1人で帰ってしまった。


「なんだよあいつ……」


 置き去りにされた田中くんは後ろ首を掻き、チラリと私に視線を向ける。視線が合えば、なぜかすぐに逸らされてはまたチラリと見てくるの繰り返し。


「篠塚さんはお昼ご飯、食堂?」

「お弁当がありますが、食堂で食べるつもりです」


 悠哉くんが持って来てくれたお弁当。食堂で皆と食べたら楽しいだろうな。


「ならさ、俺と食べない? 俺コンビニで適当に買ってくるから、よかったら一緒に「食べたいです」」


 最後まで聞かず反射的に言葉が出てしまった。


「えっ、あ、うん。じゃあすぐ買ってくるよ!」


 駆け足で校門に向かった田中くんの背中を見送りながら、胸の辺りが暖かくなっていくのを感じる。

 そよ風になびく木々の音。お弁当を片手に木の下で待っていると、本当に急いで買ってきてくれたのか、遠くの方から走ってくる田中くんが。木洩れ日に照らされながら息を乱し笑顔で、


「おまたせ」


 一瞬、呼吸が止まりそうになった。

 待たせないように急いで帰って来てくれた事が嬉しいのもあるけど。なにより、田中くんの笑顔に胸が締め付けられるような……。苦しいとか辛いとかそんなのじゃなくて、なんて言葉にしたらいいのかわからない。

 だけど、これだけは確かにわかる。


 今、田中くんを抱きしめたい。傍にいたい。


 そんな事をしたら驚かせたり、嫌がられてしまうかもしれない。それだけ絶対に嫌。

 抱きしめたい気持ちをぐっと押し留め、額に汗を滲ませた田中くんの下に駆け寄った。






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