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「それ着ていいから」
渡された服とバスタオル。濡れた制服は洗面所に干しておくように言われた。ビショビショになってしまって、明日までに乾くだろうか。
雨の中、公園で私と会った一ノ瀬先輩は、ずぶ濡れなのにも関わらず何も聞くことのないまま、とあるマンションに連れてきてくれた。
以前一ノ瀬先輩のお兄さんが使っていた部屋で、塾の帰りが遅くなった時などに利用しているらしい。なんか一ノ瀬先輩のお家はお金持ちなんじゃと思ってしまう。
制服を脱ぎ、お風呂場でシャワーを浴びる。温かいお湯が体に染み渡り、冷たかった体と心が少しずつ暖かさを取り戻していく。すると、さっきまでのお父さんとのやり取りを思い出してしまい、涙がまた流れる。
「うっ……ひぐっ」
居たたまれなくなって飛び出してしまったものの、これからどうしたらいいかわからず、悲しみと不安で涙を止める事が出来なかった。
ずっとシャワーを浴びる訳にもいかず、先輩に借りたTシャツとジャージを借りて髪の毛を乾かす。鏡に映る私は、ちょっと大きいTシャツを着てるからかダボッとしてる。そこでふと思った。一ノ瀬先輩にものすごく迷惑を掛けていることを。
雨の中ビショビショで泣きじゃくって、シャワーを貸して貰っただけじゃなく服まで。それなのに自分のことでいっぱいで、お礼1つ言っていないなんて!
ひぃぃっ、私なんて失礼なことをっ!
慌てて洗面所から出て一ノ瀬先輩にお礼を言おうとしたら、珈琲の良い匂いがした。
「ん、上がったか。愛花は珈琲よりココアがいいだろうけど、置いてないんだ。コンポタでいいか?」
「あっ、はい」
「そこ座ってて」
指定されたソファに座り、部屋の中を見回す。簡易ベットとソファと机。それに小さな本棚。それだけしかない殺風景な部屋。生活感があまりない気がする。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
手渡されたコップには、美味しそうなコンポタージュが。ふー、ふーと熱さを冷まして一口飲む。……美味しい。
シャワーのおかげで体の外側が暖かくなり、コンポタージュのおかげで内側が暖かくなっていく。
ほっと一息つくと、隣で微笑む先輩に気付いた。
「落ち着いたみたいだな」
「あ、あの、ありがとうございます」
コップを机に置き、向き合って頭を下げる。すると頭を優しく撫でられた。
「……家の人には連絡してあるから、帰りは送っていくよ」
ドクンッと嫌な音が鳴る。確かに落ち着いたけど、このまま帰ったとしてもきっと気まずいだけ。お父さんにどんな顔で会えばいいかわからない。
返事をしないまま俯く私に、一ノ瀬先輩は何も言わず隣にいてくれる。何も聞かないのは優しさだと思ってた。だけど違う。聞いてくれた方が話しやすいから。でも、一ノ瀬先輩は私から話すのを待ってる気がする。
少しの間の沈黙。どうしたらいいかわからない私は、深呼吸1つしてポツリポツリと声を漏らした。
「……お父さんが帰ってきたんです」
「知ってる。連絡を何度か貰ったからな」
「ええっ!?」
まさかお父さんと連絡を取り合っていたなんて初耳です。そんな事一言も聞いていませんけど。
「それで?」
「え。あ、えっとそれで、お父さんが田中くんに酷いことを言ったんです。私に近付くなとか、相応しくないとか」
「言いそうだな、あの人なら」
苦笑いをする一ノ瀬先輩を見ると、お父さんとの交流が前からあったように思える。それから私が怒ってしまったこと、お父さんが私に何もしないで甘えたらいいと言ったことを伝え、
「私、嫌だって言ったんです。自分でなんでもやりたいって。苦しいことも悲しいことも全部経験したいって……」
「うん」
「そしたら、そしたら……こんなの愛花じゃないって、言われ、ちゃいました」
ジャージを握り、泣かないよう歯を食い縛る。何度思い返しても涙が出てしまうのは仕方ないとしても、誰かに、一ノ瀬先輩に聞いて欲しくて。
「わかったんです。お父さんは以前の愛花ちゃんを、私を見ていることに。当たり前ですよね? お父さんにとっての娘は以前の愛花ちゃんだけなんだから」
一ノ瀬先輩の相槌も聞くことなく、吐き出した言葉は止まらない。
「でも無理なんです! 私は愛花ちゃんにはなれない。私は私でしかなくて……そう思ったらあの家に居ちゃいけない気がして」
「そんなことないだろ。彼処は愛花の家だ」
一ノ瀬先輩は知らないから。私が愛花ちゃんじゃないことを。だけどそれを伝えることは出来なくて歯痒い。
「お父さんの思いに応えられなくてもですか? 私は以前の愛花ちゃんになれないんですよ?」
「見せた方がはやいな」
そう言って、一ノ瀬先輩は1度ソファから離れ、鞄から携帯を取り出すと戻ってきた。携帯を操作して見せてくれたのは何通ものメール。全てお父さんからのものだった。
『愛花が記憶喪失になったと聞いた時は悲しみでいっぱいになったよ。出来る事なら代わってあげたい。どうか愛花の事を頼むよ』
『記憶がなくなってから、愛花があまり甘えてくれなくなって寂しいのだが、学校生活ではどうだろう? 辛い思いをしていないだろうか?』
『聞いてくれ一ノ瀬君! 愛花が僕の為にお味噌汁を作ってくれたんだよ! 出来るなら冷凍保存して残しておきたかった』
『愛花が学校で友達と仲良く話しているのを見て凄く安心したよ。授業も楽しそうだし、今の幸せそうな愛花を見ると僕も幸せな気分になるね』
『愛花はとても優しい子だ。ご近所のお婆さんの荷物を持ってあげているのを見て、僕は誇りに思ったね。今時いないよあんな天使みたいな子は。さすが僕の天使だ』
その後も続く私の事を書いたメール。それは全部、今の私の事を書いたものだった。
「お父さん……」
「確かに、記憶喪失になる前の愛花を見ているのは仕方ないだろう。それでもあの人は、今の愛花もちゃんと見ているよ。それはもうべた褒めするぐらいにな」
どこか疲れたような笑みを浮かべつつ、一ノ瀬先輩は励ましてくれる。最後にお父さんから送られたメールは、つい先程のこと。そのメールの内容に、涙した。
『愛花に酷いことを言ってしまった。僕は最低な父親だ。愛花が一番苦しんでいるのに。愛花は泣いているだろうか? 今すぐ駆け付けたいが、今は君に任せるよ。どうか愛花の事を頼む』
心配してくれてる。今も心配してくれてるんだ。私の事を。
今すぐ帰りたい衝動に駆られるけど、どうしても足が動かない。本心ではまだ怖がっているからだ。もう1度あの言葉を言われたら……そう思うだけでソファが起き上がる事が出来なかった。
「最初はお父さんも俺が愛花の傍にいる事を嫌がったんだ」
「え」
「それはそうだろう。愛花のことを溺愛しているのに見知らぬ男が、それも他の女性が好きな男が傍にいるなんて、あの人が許せるはずかない」
確かに。田中くんにすらあんな態度なのに、いくら愛花ちゃんが一ノ瀬先輩のことを好きでも一ノ瀬先輩は間宮先輩が好きなんだ。いい顔しないと思う。
「俺と愛花が出会ったのは、お父さんが海外に転勤することが決まった頃だった。あの頃の愛花は酷く不安定で、出会ったばかりの俺にかなり執着をしていたんだ。お父さんも愛花のことを心配して、どうにか転勤が白紙になるよう動いていたらしい」
お父さんが大好きだった愛花ちゃんが、お父さんが転勤してしまうのはとても辛かったんじゃないだろうか? それはお父さんも同じで。
時計の針の音が響く静かな部屋で、私は黙って一ノ瀬先輩の話を聞いていた。
「結局白紙にする事が出来ず、お父さんは海外に飛びたった。その時、愛花の様子を連絡して欲しいことと、そして愛花自身から離れようとしない限り、傍にいてやって欲しいと頼まれたんだ。いくら頼まれたからと言っても、最初は引き受けようとは思わなかった。俺の想いは変わらないし、俺の傍にいても良いことなんてないと思ったからな」
一ノ瀬先輩は膝の上に肘をつき、両手の指を絡ませその上に顎を乗せた。何処か遠くを見つめるような、そんな目をしている。
「愛花は我が強くて強引で、それなのに愛されていないと不安で堪らない。見た目とは裏腹に、酷く脆かった。演技で涙を流すことはあっても、人前で本当に泣くことはなかったと思う」
その話を聞いて、御子柴くんから聞いた愛花ちゃんの事を思い出した。仲良くしていた4人組の女の子達に、罪を擦り付けられた時の愛花ちゃんが気丈に振る舞っていた様子を。
我が儘だ、甘えただと聞いていたけれど、本当は不器用で強がりで。それでいて人一倍寂しがり屋だったんじゃないかな。
「俺しかいないと、俺の前だけでは、素直に泣いて肩を震わせる。そんな愛花を……突き放すことが出来なかった。例えそれが間違いだとはわかっていても」
苦しそうに眉間に皺を寄せ、顔を伏せた一ノ瀬先輩の様子に、胸が締め付けられそうだった。
こんな一ノ瀬先輩を見るのは初めて。何でも出来て、いつも優しく微笑んで見守ってくれている。それが私の中の一ノ瀬先輩だ。でも、今の一ノ瀬先輩からは切なさしか感じられない。
私が知らない所で一ノ瀬先輩も悩ん苦しんでいた。そう思ったら、小さく見えるその姿を、抱きしめられずにはいられなかった。
「大丈夫です先輩!」
「愛花?」
「私はもう大丈夫です。もうひとりぼっちじゃない。友達たくさんいます。寂しくないです。だからもう抱え込まないでください」
頭を包み込むように抱きしめ叫ぶと、少しの間を開けて一ノ瀬先輩の肩が震える。
「これじゃ逆だな」
喉を軽く鳴らして笑う。抱きしめていた腕を離して横顔を見つめていると、あの優しい笑顔を向けられた。
「その気持ちをお父さんに伝えてやれ。最初は拒絶されるかもしれないが、思い込みが激しいだけで愛情深い人だからきっとわかってくれるさ」
「でも、私は前の愛花ちゃんになれないのに?」
それどころか私は全くの別人。拒絶されても仕方ないのに、わかって貰えるのかな。
しょんぼりと肩を落とす私に覗き込むように顔を近付け、ゆっくりと、暖かみのある声を出す。
「戻れないのなら作ればいい」
俯いた顔をゆっくり上げ、間近で一ノ瀬先輩と目が合った。普段の私なら恥ずかしくて慌てて距離を取っていたと思う。それをしなかったのは、声と同じように一ノ瀬先輩の暖かい眼差しと言葉に、光が射したからだ。
「つく、る?」
「そうだ。前に生徒会の皆で写真を撮ったことがあっただろ?」
「はい。机のコルクボードに貼ってあります。大事な思い出ですから」
初めて皆で撮った写真。忘れるはずがない。私の、私が愛花ちゃんとしての初めての形ある思い出だったから。
「それと同じように、これからお父さんと一緒に作っていけばいい。今の愛花として」
今の愛花として。
私のままで、愛花ちゃんじゃなく私のままで。
「いい、のかな」
鼻先がツンと痛くなる。声が震えか細くなっていく中、誰かに認めて欲しくて。
「私は私で、いてもいいですか?」
言ってしまった途端、ポロポロと涙がこぼれた。涙で滲んだ視界に映る先輩は、まるで泣き虫の子供をあやすような、そんな困った顔をして、
「当たり前だ。今の愛花でいていいんだ」
そう言ってくれた。
愛花ちゃんのこともお父さんことも知っている一ノ瀬先輩が此処にいてもいいって。
安心させてくれる言葉。それがどんなに嬉しいことか。
「記憶がなくなってからの愛花はひたむきに頑張っていて、その姿に惹き付けられた人はたくさんいる。俺もその一人だ。お父さんにもきっとわかってもらえるさ」
これから先、おなじようなことで落ち込むことがあると思う。その時は一ノ瀬先輩の言葉を思いだそう。
私は私のままで。挫けたって凹んだって、何度だって起き上がればいい。そこが終わりじゃない、この先も未来はあるんだから。生きているんだから。
「ふぅぅっ!」
お腹に力を入れて思いきり頬っぺたを叩いた。ヒリヒリと痛むけど気合いが入る。
「なっ、愛花?」
いきなりの行動に驚く一ノ瀬先輩に、両手でガッツポーズして満面の笑顔を向けた。
「私頑張ります。先輩、ありがとうございます!」
「……っ、ん、元気になったならよかった。家まで送っていくから仕度してくれ」
一瞬視線を逸らされたと思ったら、再びいつもの笑顔。悪いので送ってくれるのを断ったけど、もう遅いからと言って譲ってくれなかった。
うう……何から何まで申し訳ないな。
濡れた制服は乾かなくて半乾き状態。家に帰ったら干しておかなきゃ。ビニール袋に入れてリビングに戻ると、一ノ瀬先輩は電話していた。
「わかった、明日持っていく。わかってるって……ん、愛花用意出来たのか」
「はい」
「送っていく。ん、どうした? そうか。じゃあな、忘れんなよ」
電話相手ての会話を終え、一ノ瀬先輩に送られ早自宅の前。体全部が心臓になったかのように、ドクドク脈をうっている。
「大丈夫か?」
余程顔色が悪かったのか、心配そうに見られた。怖くないと言ったら嘘だけど、此処で逃げちゃダメ。足を1歩踏み出すんだ。
大きく頷いた後、勢いよく呼び鈴のボタンを押した。
あけましておめでとうございます。今年も投稿を頑張っていきますので、どうぞ宜しくお願い致します。




