過去のキオク 1
バケツをひっくり返したような激しい大雨が天から降り注いでいる。
メイティアの王宮の最も端にある部屋に齢6歳の少女が一人。
唯一外の景色を望むことができるはめ殺しの窓から飽きることなく庭を眺めていた。
その少女は天使のように愛らしい。
静寂を破ったのはノックの音。
「どうぞ」
入ってきたのは18歳ほどの青年。高貴な雰囲気を纏い柔らかな笑顔を浮かべている。
「はじめまして。僕はルイゼル・ジェーク・セイティア。今日から君の教育係に任じられたんだ。よろしくね」
少女は庭から目を離さずに青年に問う。
「セイティア家の方がわたくしの教育係?どういうことですか」
幼いながらも少女は恐ろしいほどに聡明であった。自分の価値がそれほど高くないことも、敬われる存在ではないことも理解している。
そんな彼女に四男ではあるが名門セイティア家直系男児のルイゼルが教育係として宛がわれるわけがないのだ。なにか、理由がない限り。
「あぁ、それはね。僕が希望したからだよ」
「・・・わたくしが誰かご存知で?」
「メイティア国第三王女のツェルリア・フォミーユ・メイティアだろう?」
「・・・そういう意味ではありません。セイティア家にとってわたくしは泥棒猫の娘でしょう?あぁ、それとも。隙をみてわたくしに危害を加えようとでも?確かにわたくしは力なき子供ですけれど、それほど甘くはありませんよ」
セイティア家は王太子であるロキルドの正妻の実家である。ツェルリアの母はロキルドを寝取ったといわれても仕方のない―――実際いわれている―――立場なのだ。
「あぁ。そういえば叔母上がそんなことを喚き散らしていたね。そうか、君の母親がルセリア殿なんだ?なるほど。会ったことはないけど娘である君がその年でそれほどまでに可愛らしいんだ。きっととても美しい方なんだろうね」
「・・・。冗談、ですよね?」
「いいや。僕そういう事情には疎くてね」
「では、なぜわたくしの教育係などに?」
「理由はいくつかあるんだけど。一番の理由は君の瞳の色が気に入ったから、かな」
「え・・・?」
そのとき初めてルイゼルに深い紫の瞳が向けられた。怪訝そうに向けられたその瞳はルイゼルを捕らえたとたんに零れ落ちそうなほど見開かれる。
「そう。その瞳だよ。それは僕の一番好きな色なんだ。やっぱり綺麗だね、姫様」
「・・・呼び方」
「ん?」
「わたくしのこと、姫様などと呼ばないでください・・・」
俯いたツェルリアの声はどこか縋っているように聞こえる。
「・・・いいよ。なんて呼べばいいの?」
「それは・・・」
幽閉されて育ったツェルリアは他人に名前を呼ばれたことがほとんどなかった。母親にさえ年に数回しか会うことができないのだ。愛称を持たないことに思い当たり、溢れそうになった涙を必死でこらえる。
泣きそうになったのは久しぶりだった。あまり重要とはいえない事柄に対して心が揺れたのは初めてかもしれない。
「ツェリ」
「え・・・?」
「ツェリっていうのはどうだろう」
「ツェ、リ?」
「そう。リルヴェアって国にしか咲かない希少な花。君の瞳と同じ深紫色をした可憐な花びらは猛毒にも妙薬にもなる。ぴったりだと思わない?」
ツェルリアはルイゼルの言葉を理解すると、頬を薄桃色に染めて微笑んだ。
それはまるで蕾が綻ぶような笑顔で。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。じゃあ次は僕のお願いを聞いてもらおうかな」
「ルイゼル様の、お願い・・・?」
「敬語禁止。敬称もなしだよ」
「・・・・・」
「わかった?」
「え、あ、はい・・・じゃなくて、えっと、うん。よろしくね、ルイ」
「ルイか。うん、合格。よろしく、ツェリ」
ツェルリアとルイゼルは顔を見合わせて笑った。
目があった瞬間に恋に落ちたの。
わたくしが一番幸せだった頃のキオク。
ルイ、あなたが好きだよ。
あなたとの思い出があるから、わたくしは生きていられるの。