表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

婚約破棄の晩餐で、悪役令嬢は赤い糸を切る

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/12

 肉の焼ける匂いがした。


 香草を擦り込まれた仔牛肉の表面で、脂が薄く泡立っている。白い皿の中央には厚く切られた肉、その脇には潰したフランボワーズのソースが添えられていた。


 濃い赤。


 甘酸っぱい果実の粒が残るそれは、肉汁と混じると、ひどく血に似ていた。


「ロザリア・ヴァルメイユ」


 王太子レオニスの声が、大広間に響いた。


 楽師の弓が止まる。


 給仕の足音が消え、銀器を置くかすかな音さえ途絶えた。


 今夜は王太子の二十二歳を祝う晩餐会だった。


 王族をはじめ、重臣、諸侯、神殿の高位聖職者が一堂に会している。


 その誰もが、レオニスではなく、彼に名を呼ばれた公爵令嬢へ目を向けていた。


 ロザリアはすぐには顔を上げなかった。


 ナイフを肉へ当て、いつもと同じ力で引く。


 焼き目のついた表面が切れ、まだ熱を残した薄桃色の断面から肉汁が滲んだ。フランボワーズの赤と溶け合い、皿の縁へ細い筋を描いていく。


「聞いているのか」


「はい、殿下」


「ならば、こちらを見ろ」


 命じられたので、ロザリアは顔を上げた。


 顎を引く角度は指一本分。


 背中は椅子の背につけない。


 両肩を水平に保ち、口元には歯を見せない程度の微笑を浮かべる。


 王太子の婚約者として、もっとも上品に見えるよう教え込まれた姿勢だった。


 七歳の頃から、一度も崩したことはない。


 レオニスの隣には、白いドレスを着た娘が立っていた。


 聖女ミアベル。


 半年前、神殿の礼拝中に光の祝福を受け、王宮へ迎え入れられた少女である。


 栗色の髪を緩く結い、両手を胸元で重ねている。青ざめた顔には怯えがあったが、その瞳の奥には隠しきれない期待も浮かんでいた。


 レオニスは、見せつけるように彼女の腰を抱いた。


「この場をもって、そなたとの婚約を破棄する」


 大広間のどこかで、誰かが息を呑んだ。


 ロザリアは一度だけ瞬いた。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか」


「その態度だ」


 レオニスは吐き捨てた。


「何を言われても、決められた返事しか返さない。笑えと言われれば笑い、黙れと言われれば黙る。私が別の女を連れ歩こうと、喜びも、嫉妬も、悲しみも見せない」


 ロザリアは黙って聞いた。


 人の話を遮らず、最後まで聞くよう教えられていたからだ。


「私は人形と結婚するつもりはない」


 レオニスの腕の中で、ミアベルの唇がわずかに緩んだ。


 すぐに俯いたが、ロザリアは見ていた。


 ロザリアはいつでも周囲をよく見るよう、教育されていた。


 王妃となる者は、他者の機微を見落としてはならない。


「ミアベルには心がある。私を愛し、私のために泣き、笑うことができる」


 レオニスは聖女の肩を抱き寄せた。


「そなたとは違う」


「さようでございますか」


「ほら、それだ!」


 レオニスがテーブルを叩いた。


 皿が震え、肉の上に載っていたフランボワーズが潰れた。


「なぜ怒らない。なぜ泣かない。十年も婚約していた男を奪われたのだぞ」


「殿下は、婚約者が公の場で感情を乱すことをお嫌いでしたので」


 ロザリアは静かに答えた。


「幼い頃より、何を言われても微笑んで受け入れるよう命じられてまいりました」


「命令のせいにするな」


 レオニスの眉間に皺が寄る。


「そなた自身に心がないだけだ」


 心がない。


 その言葉を聞いた瞬間、ロザリアの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。


 痛みではなかった。


 長いあいだ固く結ばれていた結び目が、わずかに緩んだ音だった。


 上座にいた王妃が、音を立てて扇を閉じた。


「ロザリア」


「はい、王妃陛下」


「見苦しい真似はなりません。婚約を破棄されようとも、最後まで王家に仕える令嬢らしく振る舞いなさい」


「承知いたしました」


 ロザリアが答えた直後。


 ぷつり、と。


 小さな音がした。


 誰かが糸を一本、指先で弾いたような音だった。


 ロザリアの左手首に、赤い筋が浮かんでいた。


 皮膚の下を這っていたそれが、ゆっくりと外へ抜け出してくる。


 一本。


 続いて、その下に二本、三本と赤い筋が浮かび上がる。


 けれど皮膚の外へ抜け出し、ぴんと張ったのは最初の一本だけだった。


 糸は血に濡れてはいなかった。


 もとからそう染められていたかのように、鮮やかな赤色をしている。


 手首から伸びた糸の先は、レオニスの右手へつながっていた。


「何だ、それは」


 レオニスが半歩下がった。


 ロザリアは自分の手首を見つめた。


 赤い糸は、皮膚の奥へ深く食い込んでいた。引けば痛む。


 けれど、初めて見たものではなかった。


 幼い頃。


 銀の椅子へ縛りつけられた夜にも、同じ色の糸を見ている。


 ロザリアは肉を切るためのナイフを持ち上げた。


 同時に、レオニスの右手が跳ね上がった。


「なっ――」


 彼の手には何もない。


 それでも指は、見えない柄を握るように曲がっていた。


 ロザリアがナイフを横へ動かす。


 レオニスの腕も、まったく同じ軌道を描いた。


 張り詰めた赤い糸が彼の白い袖へ食い込み、布を裂いた。その下の皮膚にも、細い赤い線が走る。


「う、あ……!」


 レオニスは左手で傷を押さえようとした。


 しかし右腕は、ロザリアの手の動きに引かれたまま止まらない。


 ロザリアは、手首から伸びる赤い糸をナイフの刃へ載せた。


「やめろ」


 レオニスの声が掠れた。


「何をするつもりだ」


「分かりません」


 ロザリアは正直に答えた。


「自分で決めるということを、教わっておりませんので」


 彼女は刃を引いた。


 糸が一本、切れた。


 ぷつり。


 切れる寸前、赤い糸が逆向きに強く引かれた。


 レオニスの右肩が大きく跳ねる。


 関節が外れかけたような鈍い音がして、彼は悲鳴を上げた。


 切れた糸は床へ落ちなかった。


 片方の端は蛇のように身を翻し、レオニスの肩へ潜り込む。


 もう片方はロザリアの人差し指へ巻きついた。


 まるで、命令を受けた者から、命令を与えた者へ結び直されるように。


「ロザリア、やめなさい!」


 王妃が立ち上がる。


 その唇から命令が放たれた瞬間、ロザリアの右手首からも赤い糸が抜け出した。


 新たな糸は真っ直ぐ王妃へ伸び、扇を持つ指へ絡みつく。


「王妃陛下」


 ロザリアはいつもの微笑を浮かべた。


「わたくしは、王家の命令に従うよう作られております」


「作られた、ですって」


 王妃の顔から血の気が引いた。


「お忘れになりましたか」


 ロザリアが七歳の冬。


 幼いレオニスは、自分より早く古語の詩を暗唱した婚約者が気に入らなかった。


 王族の子どもたちが集う小さな宴で、彼はロザリアの足を引っかけた。


 ロザリアは転び、手にしていた果実酒を頭から被った。


 周囲の子どもたちが笑った。


 レオニスも笑っていた。


 ロザリアは立ち上がり、泣きながら彼を睨んだ。


 そして、ただ一度だけ言ったのだ。


 あなたなんか、大嫌い、と。


 未来の王妃として、あまりに不適切な言葉だった。


 三日後。


 ロザリアは王宮の地下室で、銀の椅子へ縛りつけられていた。


 魔術師たちは、彼女の手首、足首、喉、胸へ赤い糸を通した。


 針が皮膚を破るたび、幼いロザリアは泣いた。


 泣いてはなりません。


 王妃はそう言った。


 婚約者へ怒りを向けてはなりません。


 国王がそう言った。


 王太子より先に話してはなりません。


 家庭教師がそう言った。


 嫉妬してはなりません。


 醜い感情を顔へ出してはなりません。


 何をされても微笑みなさい。


 王家を愛しなさい。


 王太子の望む婚約者でありなさい。


 命令は一本ずつ糸となり、ロザリアの皮膚の下へ埋め込まれた。


 それ以来、彼女は一度もレオニスを睨まなかった。


 泣かなかった。


 怒らなかった。


 嫌いだとも言わなかった。


「王家の秘術だったはずだ」


 国王が低く言った。


「なぜ今になって糸が姿を現す」


「発動したのではございません」


 ロザリアは王妃へ伸びる糸へナイフを当てた。


「切れ始めたのです」


 刃が糸を押す。


 赤い繊維が細く軋んだ。


「王太子の婚約者として振る舞えという命令は、婚約がなければ成り立ちませんもの」


「ならば自由になっただけであろう!」


 国王が叫んだ。


「なぜ我々へ糸がつながる!」


 答えたのは、壁際に立っていた老魔術師だった。


 かつて幼いロザリアへ糸を通した男である。


 彼は杖へ縋りながら、青ざめた唇を動かした。


「操られる者が役目を失ったとき、糸は命令を与えた者へ戻ります」


「そのような話は聞いていない!」


「お伝えいたしました」


 老魔術師の声は震えていた。


「人の心を縛る術は、命令の根拠が失われれば反転すると。術を施された者を役目から捨てれば、糸は命じた者へ戻るのです」


「ならば、なぜ聖女にも糸が伸びている」


 国王がミアベルを指した。


 彼女の左手首には、いつの間にか細い赤い糸が巻きついていた。


 王族たちへ伸びるものほど太くはない。


 それでも、逃れるには十分な強さを持っている。


「術で縛られた者を人形として扱い、その役目を利用した者もまた、操り手と見なされます」


 老魔術師はミアベルから目を逸らした。


「命令を与えた者。命令を利用した者。術を施した者。糸は、そのすべてを記憶しております」


「解け!」


「もう、わたくしには」


 老人の言葉が途切れた。


 ロザリアの喉から伸びた赤い糸が、彼の首へ巻きついていた。


「あなたも、わたくしを作ったお一人でしたね」


「お嬢様、私は命じられただけで――」


「命じられたから」


 ロザリアは、その言葉をゆっくり繰り返した。


「決められたことしか、できなかったのですね」


 老魔術師は何も答えられなかった。


 ロザリアは王妃へ伸びた糸を切った。


 ぷつり。


 片方の端が王妃の手へ潜り込み、もう片方がロザリアの中指へ絡みつく。


 扇が床へ落ちた。


 王妃の右手が弾かれ、指が一本ずつ不自然な方向へ反る。細い骨が鳴るたび、彼女の喉から短い悲鳴が漏れた。


「笑いなさい」


 王妃自身の口から、言葉が零れた。


 彼女は目を見開いた。


「違う、今のは――」


「王太子妃たる者、いかなる場でも美しく微笑んでいなければならない」


 ロザリアは、かつて何百回も聞かされた教えを口にした。


「陛下も、どうぞ」


 王妃の手へ潜った糸が、皮膚の下を這い上がった。


 手首から腕へ。


 肩から首へ。


 やがて頬の内側へ入り込み、右と左から口角を引いた。


「や、やめ……」


 王妃の唇が震えた。


 しかし笑みは深くなっていく。


 歯茎が露わになり、頬の筋肉が痙攣した。目から涙が流れても、口元だけは幸福そうな弧を描いたままだった。


「笑顔が足りませんわ」


 ロザリアは首を傾けた。


「陛下はいつも、そうおっしゃいました」


 ロザリアの中指へ巻きついた糸が、さらに強く張った。


 王妃の口端が裂ける。


 赤い雫が顎を伝い、真珠の首飾りへ落ちた。


 それでも彼女は笑い続けた。


 そのとき、ロザリアの胸元から新たな赤い糸が抜け出した。


 糸は上座へ走り、国王の背へ深く食い込む。


 ロザリアはその糸へナイフを当てた。


 国王が椅子の肘掛けを握りしめる。


「待て」


 刃が引かれた。


 ぷつり。


 片方の端が国王の背へ潜り込み、もう片方がロザリアの薬指へ巻きついた。


「背筋を伸ばせ」


 国王が言った。


 自らの口から発せられた命令に、自ら目を見開く。


「王たる者、痛みや疲れを人前へ出してはならない」


 ロザリアは国王を見た。


「はい。陛下も、どうぞ」


 国王の背中が反った。


 椅子の背から身体が離れ、胸が不自然に突き出される。


 背骨が一節ずつ引き伸ばされ、乾いた木を曲げるような音が響いた。


「ぐ、う……!」


 国王の顎が持ち上がる。


 視線は天井へ固定され、震える唇から唾液が流れた。


「痛みをお顔へ出しておられますわ」


 ロザリアは注意した。


「王家の威厳が損なわれます」


 国王の顔から表情が消えた。


 痛みに歪むことさえ、糸が許さなかった。


「ロザリア様」


 ミアベルが震える声で呼んだ。


「わ、私は、何も……」


 ロザリアの足首から、細い赤い糸が這い出していた。


 その先はミアベルの手首へ巻きついている。


「わたくしを、人形のようだとお笑いになりましたね」


「それは……殿下がおっしゃったから」


「はい」


 ロザリアは頷いた。


「殿下がおっしゃったから」


「ごめんなさい」


 ミアベルの瞳から涙が溢れた。


「本当に、ごめんなさい。私は、こんなことになるなんて」


「存じませんでしたのね」


「はい」


「わたくしがどのように作られたのかも」


「知りませんでした」


「それでも、わたくしの席へ座ることはお望みになった」


 ミアベルの唇が震える。


 否定の言葉は出てこなかった。


 ロザリアはミアベルへ伸びた糸を、ナイフの刃へ載せた。


「やめて」


 ミアベルが首を振る。


「お願いです」


 ロザリアは刃を引いた。


 ぷつり。


 片方の端がミアベルの手首へ潜り込み、もう片方がロザリアの小指へ巻きついた。


 ロザリアが小指を曲げる。


 ミアベルの身体がくるりと回った。


 白いドレスの裾が大きく広がる。


 もう一度。


 さらにもう一度。


「踊ってくださいませ」


「い、いや……」


「今夜、殿下はあなたを新しい婚約者として皆様へ紹介なさるのでしょう」


 ロザリアは穏やかに言った。


「ならば、場を華やがせるのも婚約者の務めです」


 ミアベルは泣きながら踊った。


 足がもつれても、床へ倒れかけても、糸は止まらない。


 回り、跳ね、頭を下げる。


 笑ってはいなかった。


 けれどロザリアが小指を持ち上げると、ミアベルの口角もまた吊り上がった。


 涙を流しながら、彼女は幸福そうに笑った。


「やめろ!」


 レオニスが叫んだ。


 ロザリアは彼へ目を向けた。


「あなたは怪物だ!」


「心のない人形ではございませんでしたか?」


 レオニスの喉が詰まる。


「あなたがそうおっしゃったのです。わたくしは決められたことしかできない。だから妻にはできない、と」


「私は、こんなことをしろとは命じていない!」


「ええ」


 ロザリアは初めて、少し考えた。


「では、これはわたくしが自分で決めたことなのでしょうか」


 その問いに答える者はいなかった。


 ロザリアの皮膚の下から、さらに赤い糸が浮かび上がった。


 手首から。


 喉から。


 胸から。


 足首から。


 十年のあいだ、彼女を正しい位置へ立たせ、正しい角度で微笑ませ、正しい言葉だけを選ばせてきた糸だった。


 糸は一本ずつ、晩餐会に列席していた者たちへ伸びていく。


 王太子より先に話すなと命じた家庭教師。


 王家のために痛みを耐えろと教えた礼法官。


 怒りは罪だと説いた聖職者。


 婚約のためならば娘の心を削ることもやむを得ないと認めた重臣たち。


 ロザリアが糸へ刃を入れるたび、ぷつり、ぷつりと小さな音が続いた。


 切れた糸の片端は、それぞれの身体へ潜り込んでいく。


 残った片端は細く枝分かれし、ロザリアの指へ、手の甲へ、腕へと巻きついた。


 誰も逃げられなかった。


 命令を与えたことを忘れていても。


 ただ教育しただけだと思っていても。


 糸はすべてを覚えていた。


 その中の一本だけが、誰の身体にも入らなかった。


 糸はロザリアの左手首から伸び、列席者の中にいたヴァルメイユ公爵の胸の前で止まった。赤い蛇のように、宙で揺れている。


 娘と王家との婚約を喜び、苛烈な王妃教育を受けさせることを認めた父へ伸びた糸だった。


 公爵は娘を見た。


 ロザリアも父を見た。


 彼女は何も言わなかった。


 その糸へナイフを入れることもなく、ただ胸の前に残した。


 そして、婚約に結びついた最後の一本は、ロザリアの胸の奥から伸び、再びレオニスの胸へつながっていた。


 王太子を愛しなさい。


 王太子の望む婚約者でありなさい。


 十年のあいだ、ロザリアを彼の傍らへ縛りつけていた糸だった。


「婚約破棄を完成させましょう」


 赤い糸がレオニスの顎を引いた。


 彼の膝が床へ落ちる。


 硬い石へ骨が当たり、鈍い音がした。


「言ってくださいませ」


「何を……」


「ご自分のお言葉で」


 糸がレオニスの唇へ食い込んだ。


 口がゆっくり開く。


「私は」


 掠れた声が漏れた。


「命じられたことしかできない、人形です」


「違う……!」


 首を振ろうとするが、糸は許さない。


「心もなく、ただ王家の期待どおりに振る舞ってまいりました」


 大広間に集った貴族たちは、誰一人として動けなかった。


 肉の焼ける匂いが、濃くなっていた。


 香草。


 焦げた脂。


 甘酸っぱい果実。


 そしてその奥に、熱された皮膚のような臭いが混じり始めている。


 誰の身体から漂っているのかは分からなかった。


 皿の肉を見れば、ただの仔牛肉だった。


 王族を見れば、誰も火へ触れてはいない。


 それでも、大広間は確かに焼けた肉の匂いで満たされていた。


「ゆえに」


 レオニスの目から涙が流れた。


「ロザリア・ヴァルメイユ様の婚約者には、ふさわしくありません」


 ロザリアは跪く男を見下ろした。


 これまで何千回も練習させられた微笑ではなく。


 口角の角度も。


 目を細める幅も。


 頬へ入れる力も。


 何一つ決められていない顔で。


 初めて笑った。


「婚約破棄を承ります」


 彼女は最後に残った赤い糸を、白い皿の上へ置いた。


 フランボワーズソースの中へ、細い糸が沈む。


 赤と赤が重なり、境目が見えなくなった。


 ロザリアはナイフを当てた。


「やめろ」


 レオニスが懇願した。


「それを切るな」


 ロザリアは刃を引いた。


 ぷつり。


 最後の糸が切れた。


 片方の端は血のようなソースの中で身を震わせ、レオニスの胸へ潜り込んだ。


 もう片方はロザリアの親指へ巻きついた。


 ロザリアの胸の奥を締めつけていたものが、消えた。


 息を吸う。


 誰にも命じられていない。


 指を動かす。


 誰にも許可を求めていない。


 椅子から立ち上がる。


 正しい姿勢である必要はなかった。


 ロザリアを王太子の婚約者として縛っていた赤い糸は、すべてなくなった。


 それなのに、王太子たちの身体へ入り込んだ糸は残っていた。


「なぜだ」


 レオニスが震える。


「婚約は破棄された。そなたは自由になったのだろう」


「はい」


「ならば、私たちも解放しろ」


 ロザリアは不思議そうに首を傾けた。


「人形が、操り手を選べるとお思いですか?」


 糸が選んだのだ。


 命令を与えた者を。


 命令を利用した者を。


 人の心へ糸を通した者を。


 ロザリアは指を持ち上げた。


 レオニスの身体が立ち上がる。


 王妃が笑う。


 国王が背筋を伸ばす。


 ミアベルが裾を広げ、また踊り始める。


 老魔術師は首を絞める糸へ両手を添え、無言のまま頭を下げた。


「わたくしは、王家へ仕えるよう教えられました」


 ロザリアは指を一本ずつ動かした。


「ですから、これからも皆様が正しく王家らしく振る舞えるよう、お手伝いいたしますわ」


 その夜、大広間にいた者たちは全員、晩餐会で目にしたものを許可なく口外しないという誓約書へ署名した。


 糸を結ばれた者は、異を唱えようと口を開くたび、喉を締め上げられた。


 糸を結ばれていない者たちも、笑顔のまま署名する王族を前に、拒むことはできなかった。


 そのうえで、王家とヴァルメイユ公爵家の名により、いくつかの決定が文書に記された。


 王太子の婚約破棄は、双方の合意によるもの。


 王家は聖女との新たな婚約を白紙に戻す。


 国王夫妻と王太子は、心身の療養のため公務を縮小する。


 ヴァルメイユ公爵令嬢ロザリアは、王家の療養と公務を補佐する特別な役目を担う。


 王家の者たちは、一糸乱れぬ美しい姿勢を保っていた。


 王妃は笑っていた。


 王太子も笑っていた。


 国王は背筋を真っ直ぐに伸ばし、威厳ある顔で文書を承認した。


 三年後。


 王都では、近頃の王家は以前にも増して気品に溢れていると評判だった。


 国王は決して背を曲げない。


 王妃はどのような場でも微笑みを絶やさない。


 王太子は国王の半歩後ろを歩き、余計な言葉を口にしなくなった。


 国民へ手を振る角度も、頭を下げる深さも、三人は寸分違わない。


 他国から訪れた使節は、その姿を見て感嘆した。


「まるで長年稽古を重ねた人形劇のように、見事な統率ですな」


 褒め言葉だった。


 王妃は美しく笑った。


 王太子も笑った。


 国王だけは無表情だったが、背筋はどの若者よりも真っ直ぐだった。


 その夜。


 王宮の奥にある、私的な晩餐室。


 長いテーブルには銀の燭台が並び、炎が静かに揺れていた。


 白い皿。


 香草を擦り込んで焼いた肉。


 銀の器に盛られたフランボワーズ。


 ロザリアは肉をひと切れ、口へ運んだ。


 向かいに座る男が、ぎこちなく顔を上げる。


 今も王太子レオニスと呼ばれている男だった。


 宝石を嵌めた小冠を被り、豪奢な服を着ている。


 肌は乾き、頬は痩せていた。


 それでも姿勢だけは完璧に美しい。


 ロザリアが指をわずかに動かすたび、彼の肩や肘から、乾いた木材を擦り合わせるような音がした。


 長年、同じ角度まで腕を上げ、同じ姿勢で食事を続けてきた関節は、すでに滑らかには動かない。


 それでも糸は、彼の背を一寸も曲げることを許さなかった。


「今夜のお肉は、少し焼きすぎましたわね」


 ロザリアの親指へ巻きついた赤い糸が、レオニスの口角を引いた。


「いいえ」


 声を発するたび、喉の奥から細い笛のような音が混じった。


「ロザリア様がお好きな焼き加減こそ、正しい焼き加減でございます」


「まあ」


 ロザリアはフランボワーズを肉の上へ載せた。


 果実が潰れる。


「ようやく、上手に答えられるようになりましたこと」


 隣では、今も王妃と呼ばれている女が、今夜も美しく笑っていた。


 三年前から吊り上げられ続けた口角は、もう糸が緩んでも元へ戻らない。


 頬の筋肉は絶えず小刻みに引き攣り、古い傷が開くたび、唇の端から細く血が滲んだ。


 笑顔を保つことに疲れたのか、目だけはずっと閉じられている。


 けれどロザリアが中指を動かすと、瞼も開いた。


 濁った瞳が、正面を向く。


 国王と呼ばれている男は、背筋を伸ばしたまま椅子へ固定されていた。


 骨は何度も折れ、何度も治療された。


 今では背中の骨が固まり、横になることさえできない。


 眠るときも、王たる者にふさわしく、真っ直ぐ座っている。


 テーブルの周囲を、白い服を着た女が歩いていた。


 ミアベルだった。


 彼女は銀の器を両手で持ち、客の皿へフランボワーズを取り分けていく。


 一歩。


 回転。


 二歩。


 一礼。


 給仕をするときでさえ、その足運びは三年前の舞踏のままだった。


 足首は何度も腫れ、靴の内側には血が滲んでいる。


 それでも糸が彼女を歩かせる。


 今夜、ミアベルは笑っていなかった。


 笑えと命じられていないからだった。


「次は王妃陛下のお皿へ」


 ロザリアが告げる。


「はい、ロザリア様」


 ミアベルは答えた。


 すでに泣くこともなかった。


 涙を流せと命じられない限り、彼女の目は乾いたままだった。


 晩餐室の壁際には、かつて王家に仕え、ロザリアへ命令を与えた者たちが並んでいた。


 家庭教師。


 礼法官。


 聖職者。


 王家の秘術を施した老魔術師。


 全員が壁へ背をつけることなく、正しい姿勢を保っている。


 誰も口を開かない。


 話せと命じられていないからだった。


 晩餐室の扉の外には、ヴァルメイユ公爵が立っていた。


 娘の父であり、現在は病に伏した国王に代わって政務を取り仕切る宰相でもある。


 公爵は三年前、娘の左手首から伸びる糸が自分の胸の前で止まるのを見た。


 王家との婚約を喜び、娘へ王妃教育を受けさせた者の一人だったからだ。


 ロザリアは、父へ伸びたその一本だけは、まだ切っていない。


 公爵も、なぜ切らないのか尋ねたことはなかった。


 扉の向こうで肉を切る音がするたび、彼は背筋を伸ばした。


 命じられてはいない。


 まだ。


「お父様」


 扉越しに、ロザリアの声がした。


 公爵の肩が跳ねる。


「入っていらして」


「……承知した」


 扉が開く。


 公爵は晩餐室へ入り、娘の隣に用意された席へ着いた。


 その椅子には、ロザリアの左手首から伸びる赤い糸が一本だけ置かれていた。


 公爵が腰を下ろすと、赤い糸がするりと持ち上がり、彼の胸の前で揺れた。


 公爵は何も言わなかった。


 ロザリアも何も命じなかった。


 給仕役のミアベルが、彼の前へ皿を置く。


 香草を擦り込んだ焼いた肉。


 その脇に、潰したフランボワーズ。


 公爵はナイフを取った。


 手が震えていた。


「冷めてしまいますわ」


 ロザリアが微笑む。


「はい」


 父は肉を切った。


 ナイフの刃が皿へ触れ、硬い音を立てる。


 暖炉の火が爆ぜた。


 晩餐室にいる者たちが、同じ瞬間に顔を上げた。


 王妃と呼ばれている女も。


 国王と呼ばれている男も。


 王太子と呼ばれている男も。


 聖女だった女も。


 壁際に並ぶ、王家に仕え、ロザリアへ命令を与えた者たちも。


 全員が、完璧な姿勢を保っている。


 誰も席を立たない。


 誰も泣かない。


 誰も怒らない。


 命じられていないからだ。


 王家にふさわしい、静かで美しい晩餐だった。


 テーブルの下には、何百本もの赤い糸が張り巡らされている。


 糸は王族たちや壁際に並ぶ者たちの手首、足首、喉、頬、背骨へ入り込み、そのすべてがロザリアの指先へつながっていた。


 その中に一本だけ、いまだロザリアの左手首から伸び、誰の身体にも結ばれないまま、公爵の胸の前で揺れている糸がある。


 ロザリアは右手のナイフを、いったん皿の脇へ置いた。


 そして、左手首から伸びる糸を右手で取り上げる。


 父が息を呑む。


 赤い糸が、白い皿の上へ下ろされた。


 潰れたフランボワーズの中へ沈み、血のような赤へ紛れていく。


 ロザリアは再びナイフを取った。


 糸へ刃を当てる。


 けれど、まだ引かなかった。


 彼女は、命じられていない笑みを浮かべた。


 心のない人形は、もう彼女ではなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


こちらは、今朝お出ししたコメディ作品『婚約破棄の晩餐で、悪役令嬢は焼いた肉を操る』と同じく、


「焼いた肉」

「マリオネット」

「フランボワーズ」


という三つのワードから生まれたお話です。


Adoさんの『アイアイア』を聴きながら料理番組を流し見していたところ、この三つの言葉がふと浮かびました。


そこへ婚約破棄を加えた結果、片方では仔牛肉が立ち上がり、礼儀正しく一礼してから王太子の頬を叩き、こちらでは悪役令嬢が自らを縛る赤い糸を切ることになりました。


同じ材料でも、焼き方ひとつでずいぶん違う味になるものですね。


今朝お出しした一皿とは、随分と違う仕上がりになりました。こちらは少し、火が通り過ぎてしまったようです。


完璧な人形であることを求められ続けた令嬢と、最後まで美しく振る舞うことになった王家の姿を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
迷いこんだ宮殿の奥の晩餐室。 令嬢の心を縛って操る糸が10年、呪いと共に焼かれた結果…この光景が産まれた。 (王家の人間をはじめ沢山の人間が、この禁呪を良しとしてしまったのが前作と異なる闇をつくり出し…
呪い(術式)返しからの術式反転。 人を呪わば穴二つ、ですので正しくそうなったお話ですね。 ロザリアが父親にだけ糸を繋がない理由は何でしょうね。お話上、ロザリアが“王家の操り人形”になった根本の原因で…
父親の糸だけ切らない事が怖さを強めていますね。こういう怖さ大好きです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ