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かわいい子には旅をさせろ? 〜男尊女卑の帝国に留学した公爵令嬢、うっかり皇子様の退屈を壊してしまう〜

作者: 小春の坩堝
掲載日:2026/07/03

Kindleで出版している「破滅寸前の令嬢たちを、本の力で救い出します!〜帝国へ留学した公爵令嬢、隠れ天才の第三皇子に初恋を奪われる〜」の短編バージョンになります。

Kindleの長編とは内容が少し違っていて、長編の方がもうちょっとコミカル(お笑い要素あり)です。

気になった方はそちらもぜひチェックしてください!(アンリミ対象です)

「まりちゃん、かわいい子には旅をさせろよ!」

朝食の席に、母の明るい声が響いた。

銀のナイフを手にしていた父の動きが、ぴたりと止まる。

ルミナス王国の宰相、グレン・ヴァイオレット公爵。

外では『氷の宰相』と恐れられ、政敵を震え上がらせる父だけれど、家の中では母と私にめっぽう弱い。


「サツキ……今、なんと言った?」

「旅よ、旅。日本のことわざにもあるの。本当に可愛い子には旅をさせろってね」

母は胸を張って笑った。


母の名はサツキ。

この世界ではない、現代日本という異世界からやってきた人だ。


そんな母を、若き日の父が王族の婚約者候補から鮮やかにかっさらい、結婚した。

その結果、私は黒髪と紫の瞳を持つ、少し珍しい公爵令嬢として生まれた。


名前はマリアーナ・ヴァイオレット。

けれど、家族だけは私を「まりちゃん」と呼ぶ。

「というわけで、まりちゃん。あなた、ガルディニア帝国に留学してきなさい!」


「まあ、隣国ですね。楽しそうです!」

「楽しそう、ではない!」

父が椅子から立ち上がった。


「サツキ、ガルディニアだぞ? あの男尊女卑の塊のような古臭い帝国に、我が家の天使を送り込むだと?」

「だからこそよ。ルミナスは自由で居心地がいい。でも、世の中には違う価値観の国もあるわ。まりちゃんには、それを自分の目で見てほしいの」

母は私を見た。


「あなたなら、ただ傷ついて帰ってくるだけじゃない。きっと、何かを見つけてくるわ」

私は胸の奥が弾むのを感じた。


知らない国。

知らない価値観。

知らない人たち。

それは少し怖くて、とても楽しそうだった。


「お父様、心配してくださってありがとうございます。でも私、行ってみたいです」

「まりちゃん……!」

「私の知らない世界で、どんな出会いが待っているのか、知りたいのです」

父はハンカチを噛みしめた。

母は満足そうに頷いた。


こうして私は、男尊女卑の帝国ガルディニアへ留学することになった。


* * *


ガルディニア帝国貴族学園の入学式。

私は早々に、この国の洗礼を受けた。


「おい、そこの黒髪。そこから先はSクラスの席だぞ。女の行く場所じゃない」

声をかけてきたのは、いかにも高慢そうな男子生徒たちだった。

彼らの胸元には、AクラスやBクラスのバッジが光っている。


一方、私の胸元にはSクラスのバッジ。

事前試験で学年二位だった証だ。

「女はあっちだ。身の程をわきまえて、Cクラスにでも座っていろ」

周囲から、くすくすと笑い声が漏れる。


なるほど。

これが噂の男尊女卑。


私はにこりと微笑んだ。

「ご親切にありがとうございます。でも困りましたわ。私は成績順に従って席へ向かっていただけなのです」

「なに?」

「ガルディニア帝国では、試験の順位より性別が優先されるのですか?」

男子生徒たちの顔が赤くなる。


「まさか、皆様は私より高い点数をお取りになった方々なのでしょうか。それならぜひ、学園長に確認していただきたいですわ」


完璧な笑顔。

完璧な正論。

そして、完璧な公爵令嬢の圧。


男子生徒たちは「女のくせに」と捨て台詞を残し、逃げるように去っていった。

心の中で小さく拳を握る。

よし、一勝。


「……見事でしたわ」

横から声がした。


振り向くと、凛とした美しい令嬢が立っていた。

胸元には、私と同じSクラスのバッジ。


「ですが、少しお気をつけになった方がよろしいかと。この国の男性は、正論で負かされることを何より嫌いますの」

「ご忠告ありがとうございます。私はマリアーナ・ヴァイオレットと申します」

私が手を差し出すと、彼女は少し驚いた顔をした。


「エレノア・フォン・アシェルですわ」

「同じクラスですし、仲良くしてくださると嬉しいです」

エレノアは一瞬だけ迷い、それから小さく笑った。


「……本当に、嵐のような方ね」

こうして私は、帝国で初めての友人を得た。


その時だった。

Sクラスの最前列。

一人の青年と、目が合った。

ホワイトブロンドの髪。

アクアマリンの瞳。

退屈そうで、けれど何もかも見透かしているような眼差し。


「あちらは?」

「第三皇子、アルヴィン殿下ですわ。今年の首席です」

首席。


つまり、この学園で唯一、私より点数が高かった人。

アルヴィン殿下は私を見ると、唇の端をわずかに上げた。

まるで、面白いものを見つけたと言いたげに。


* * *


Sクラスの席順は成績順だった。

首席であるアルヴィン殿下の隣が、次席の私の席。

ずいぶん目立つ配置だ。


席に着くと、殿下が頬杖をついたまま呟いた。

「なかなか面白いものを見せてもらった」

「入学式のことですか?」

「我が国の男どもを、あそこまで綺麗に笑顔で黙らせる令嬢は初めて見た。ルミナスの薔薇は棘が鋭いらしい」

「おかしなことを言う方には、笑顔で正論を返すのが淑女の嗜みですわ」

私がそう返すと、殿下は一瞬、本当に楽しそうに目を細めた。


「なるほど。退屈しなさそうだ」

その言葉通り、私の学園生活は退屈とは無縁だった。


エレノアはアシェル公爵家の一人娘。

けれど、この国では女性が爵位を継げない。


そのため、男子生徒たちは彼女自身ではなく、彼女の背後にある公爵家ばかりを見ていた。

「あの令嬢を射止めれば、次の公爵は自分だ」

「優秀でも女は女だ。誰かの妻になるしかない」

そんな声を聞くたび、私は胸の奥がむかむかした。


エレノアは優秀だ。

誰より努力家で、誇り高い。

なのに、この国では「女だから」という理由だけで、彼女の未来は最初から狭められている。

だから私は、彼女を中庭の昼食に誘った。


「私と、ですか?」

「はい。仲良くなりたくて、サンドイッチを作ってきたんです」

「作って……? 公爵令嬢のあなたが?」

エレノアは天変地異でも起きたような顔をした。


私はバスケットを開く。

トマトと厚切りベーコンのサンドイッチ。

母直伝のマヨネーズソース入りだ。

エレノアはおそるおそる一口食べ、次の瞬間、目を見開いた。


「……おいしい」

「本当ですか?」

「ええ。とても。こんな食事、初めてだわ」

彼女はもう一口食べ、少しだけ頬を緩めた。


その顔を見て、私は思った。

この国の令嬢たちは、きっとたくさん我慢している。

けれど、我慢することだけが美徳ではない。


おいしいものを食べて、好きなものを好きと言って、自分の足で歩いていい。

私はこの国で、それを伝えたい。

大げさな革命ではなく。

まずは、大切な友人ひとりから。


* * *


それから一ヶ月。

私とエレノアは、すっかり仲良しになった。


放課後になると、私の寮の部屋で平民風の服に着替え、こっそり街へ出る。

最初は顔を赤くしていたエレノアも、今ではこの秘密の外出を楽しみにしている。


「自分の足で街を歩くのって、こんなに楽しいのね」

「でしょう? 街の空気は、その国の今を表すんですって」

母の受け売りを語りながら、私たちは中央通りを歩いた。


目的は、平民の間で流行っているハニーベリーのパンケーキ。

その店へ向かう途中、私は路地裏で見覚えのある色を見つけた。


白金の髪。

深くかぶった帽子。

平民風の外套。


「あれ、アルヴィン殿下じゃないかしら」

「えっ?」

エレノアが声を潜める。

けれど、遅かった。


「おや。可愛い商家の娘さんたちが、僕を熱心に見つめていると思ったら」

いつの間にか、殿下が目の前に立っていた。

「ここではただのアルだよ。せっかくの変装が台無しになる」

「殿下こそ、なぜ街に?」

「退屈しのぎかな」

殿下は軽く笑った。


けれど私は、その目がただの遊び人のものではないことに気づいた。

彼は露店の店主と話し、街の男たちの噂に耳を傾け、人々の顔色を見ている。

まるで、情報を集めているみたいに。


「パンケーキを食べに行くなら、僕も混ぜてよ」

そして、なぜか三人でカフェに入ることになった。


甘いパンケーキを前に、殿下は私をじっと見た。

「マリアーナ嬢。君の母君は、異世界から来たサツキ夫人だろう?」

「よくご存じですね」

「有名だからね。ルミナスを変えた異世界の女性。その娘が、男尊女卑の帝国にやってきた。興味を持たない方が難しい」

エレノアも目を輝かせた。


「異世界って、どんなところなの?」

私は母から聞いた日本の話をした。

女性が学校へ行き、働き、自分で人生を選ぶ国。

小さな箱で遠くの人と話せること。

料理を自分で作る楽しさ。

本を読めば、知らない世界へ行けること。

エレノアは夢を見るように聞いていた。


「女性が、自分の仕事を選べるなんて……」

その声は小さかった。

けれど、確かな憧れがあった。


私は彼女の手を握りたくなった。

いつか、彼女が本当に望む未来を聞かせてくれたらいい。

その時は、全力で応援しよう。


帰り際、殿下が言った。

「近いうちに、皇城へ来ないか」

「皇城へ?」

「皇妃様と、僕の母である側妃が、君に会いたがっている。異世界の知恵を持つ令嬢にね」

帝国の中枢。


少しだけ身構える私に、エレノアが微笑んだ。

「大丈夫。皇妃様も側妃様も、とても理知的な方よ」

私は頷いた。


「喜んでお伺いします」

殿下は満足そうに笑った。


その笑みが、なぜだか胸に残った。


* * *


皇城で会った皇妃エリザベス様と、側妃イザベラ様は、想像していたよりずっと柔らかな方々だった。

男尊女卑の帝国の頂点にいる女性たち。


けれど、お二人の瞳には諦めだけでなく、静かな知性と強さがあった。

「マリアーナ嬢。ルミナスから来たあなたにとって、この国は息苦しくはない?」

皇妃様に問われ、私は少し考えた。


「驚くことは多いです。でも、息苦しいだけではありません」

私は母から聞いた日本の歴史を話した。


表向きは男社会でも、家の中では女性が家庭を支えていたこと。

時代の価値観を、ただ悪と切り捨てるだけでは見えないものがあること。


守られたい女性もいれば、守りたい男性もいる。

大切なのは、どちらか一方を押しつけないこと。


私の話を聞いた皇妃様は、静かに目を細めた。

「あなたは本当に、サツキの娘なのね」

「母をご存じなのですか?」

「ええ。二十年前、ルミナスで会ったわ」

皇妃様は古びた毛糸のポーチを見せてくれた。


母が昔、皇妃様に渡したものだという。

中には、小さな紙片が入っていた。


そこには日本語で、こう書かれていた。

『人生一度っきり。ファイト一発』

私は額を押さえた。


お母様。

なぜよりによって、それを他国の皇妃様に。


けれど意味を伝えると、皇妃様と側妃様は声を上げて笑った。

「人生は一度きり。悔いのないように、気合いを入れて生きなさい、という意味です」


皇妃様は涙を拭いながら、ポーチを胸に抱いた。

「二十年越しに、サツキの言葉が届いたわ」

その姿を見た時、私は胸が熱くなった。


言葉は、時を越える。

誰かの心に残り、いつか力になる。


ならば。


私にも、できることがあるかもしれない。


* * *


「出版?」

後日、私は放課後の教室でアルヴィン殿下に相談した。

「はい。帝国の令嬢たちのために、秘密の恋愛小説を書きたいのです」

殿下は目を瞬いた。

「……恋愛小説?」

「ただの恋愛小説ではありません。男を立てながら、女が実権を握る、かかあ天下の物語です」

「かかあ天下」

殿下が口元を押さえる。

笑いを堪えている顔だ。


「この国で正面から女性の権利を叫んでも、反発されるだけでしょう? でも物語なら、読んだ人の心にすっと入ります」

私は身を乗り出した。

「令嬢たちが、自分の人生を考えるきっかけになるような物語を書きたいんです」

殿下はしばらく私を見ていた。


その瞳は、いつもの気怠げなものではなかった。

「君は本当に面白いな」

「褒めています?」

「かなり」

殿下は頬杖をつき、笑った。


「出版社へのルートは僕が手配しよう」

「本当ですか?」

「ああ。ただし、条件がある」

「条件?」

「完成したら、僕にも最初に読ませて」

私はぱっと笑った。

「もちろんです!」

その時、殿下の表情が一瞬だけやわらいだ。


胸の奥が、少しだけ跳ねる。

けれど私は、その感情に名前をつけることができなかった。

ただ、アルヴィン殿下の横顔を見ていると、不思議と胸が落ち着かなくなる。


今までにも、素敵な男性を見たことはある。

お父様はいつだってお母様に甘いし、我が家の騎士たちにも整った顔立ちの者は多い。母国では舞踏会に出るたび、何人もの貴公子から声をかけられた。

けれど、こういう気持ちは初めてだった。


嬉しいような。

くすぐったいような。

でも、少しだけ困ってしまうような。


「どうしたの?」

殿下がこちらを見る。


私は慌てて首を横に振った。

「いえ。何でもありません」

「そう?」

「はい。小説のことを考えていただけです」

嘘ではない。

本当に考えていた。

けれど、考えていたのは小説だけではなかった。


アルヴィン殿下は、私の言葉を深く追及しなかった。ただ、どこか面白そうに目を細める。

「それなら、続きを期待しているよ」

「はい。必ず書き上げてみせます」

そう答えた時、自分の中に小さな火が灯るのを感じた。


帝国の女の子たちは、みな慎ましくあることを求められる。

声を上げず、意見を持たず、誰かに選ばれる日を待つ。

けれど、本当にそれだけでいいのだろうか。


美しいドレスを着て、上品に微笑み、与えられた役割をこなす。

それも、ひとつの生き方だ。


でも、心の中に願いがあるなら。

本当は行きたい場所があるなら。

本当は言いたい言葉があるなら。

それを、なかったことにしなくてもいいはずだ。


私はその日の夜、寮の自室で机に向かった。

窓の外には、帝都の夜景が広がっている。

母国の王都とは違い、どこか重厚で、硬くて、冷たい街並み。

けれど、灯りは美しかった。

人が暮らしている。

笑っている人も、泣いている人も、誰かを想って眠れない人もいる。

この国も、ただ古いだけの国ではない。

変わる余地がある国なのだ。


私はペンを取った。

主人公は、伯爵家の令嬢。

名前はリリア。


彼女は可愛らしく、控えめで、誰からも「よい令嬢」と褒められている。

けれど本当は、帳簿を見るのが好きで、商会の経営に興味があり、街の流行にも詳しい。

そんな彼女が、ある日、婚約者である侯爵家の青年の領地経営をこっそり助ける。

表向きは、彼を立てる。


けれど実際には、彼女の知恵が領地を救う。

そして青年は、少しずつ気づいていく。

自分の隣にいる令嬢は、ただ守るだけの存在ではない。

共に歩ける人なのだと。


「……うん」

私は小さくうなずいた。

これなら、帝国でも受け入れられるかもしれない。


真正面から、女性も学ぶべきだ、働くべきだ、自由であるべきだと叫べば、きっと多くの人は耳をふさぐ。

けれど、甘い恋物語なら。

胸をときめかせながら読める物語なら。

その中に、少しだけ新しい考え方をしのばせることができる。


お母様なら、きっとこう言う。

「エンタメは強いのよ。正論で殴るより、面白いほうがずっと遠くまで届くんだから」

私は思わず笑ってしまった。

本当に、その通りだと思う。


それから数日、私は授業の合間も、食事の後も、眠る前も、ずっと物語のことを考えていた。

エレノア様にも、最初の数ページを読んでもらった。


彼女は最初、緊張した様子で紙束を受け取った。

「私が読んでもよろしいの?」

「もちろんです。エレノア様の感想を聞きたくて」

「でも、私などが……」

「エレノア様に読んでいただきたいんです」

そう言うと、彼女は少しだけ頬を赤らめて、うなずいた。

そして翌日。


エレノア様は、今まで見たことがないほど真剣な顔で私の席へやってきた。

「マリアーナ様」

「はい」

「続きを」

「え?」

「続きを、読ませてくださいませ」

その声があまりにも切実で、私は一瞬きょとんとしてしまった。


けれどすぐに、嬉しさが込み上げてくる。

「面白かったですか?」

「面白いどころではありませんわ」

エレノア様は、紙束を胸に抱きしめた。

「リリアが、自分の考えを口にする場面が……とても好きです。言い争うわけではないのに、ちゃんと自分の意思があるのだと伝わって」


「はい」

「それに、婚約者の方が彼女を見直す場面も、とても……」

そこでエレノア様は言葉を切った。

少し恥ずかしそうに、視線を落とす。

「とても、素敵でした」

私は胸がいっぱいになった。


たったひとりでも。

誰かに届いた。

その事実が、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。


「ありがとうございます。今日の夜、続きを書きますね」

「待っています」

エレノア様はそう言って、やわらかく笑った。


その笑顔は、私が帝国に来てから見た彼女の笑顔の中で、一番自然なものだった。

それから、小さな変化が起きた。


エレノア様が、昼休みに私の隣へ座るようになったのだ。

最初は遠慮がちに。

次第に、少しずつ当たり前のように。

そして、彼女の友人がひとり、またひとりと加わった。


「エレノア様が読んでいらしたお話、私も少しだけ拝見してもよろしいでしょうか」

「私も……あの、無理にとは申しませんけれど」

「主人公のリリア様は、この後どうなるのですか?」

気づけば、私の周りには小さな読書会のようなものができていた。


もちろん、大っぴらにはできない。

帝国の学園で、令嬢たちが集まって恋愛小説を回し読みしているなどと知られれば、教師たちは眉をひそめるだろう。

しかも、その中身がただの恋物語ではないと気づかれれば、なおさらだ。


だから私たちは、刺繍の図案を見るふりをした。

詩集を読んでいるふりもした。

時には、授業の復習をしている顔で、物語の続きを回した。


「ここ、好きですわ」

「私はこの台詞が」

「でも、リリア様はもっと怒ってもよろしいのでは?」

「いいえ、そこで怒らないからこそ、後の場面が効くのですわ」

令嬢たちは、思っていたよりずっとよく読んだ。


ただ甘い展開に頬を染めるだけではない。

主人公の選択に悩み、婚約者の態度に怒り、侍女の言葉に笑い、時には自分のことのように考え込む。

その姿を見て、私は確信した。


彼女たちは何も考えていないわけではない。

ただ、考えを口にする場所がなかっただけなのだ。


ある日の放課後。

私は中庭の東屋で、書き上げたばかりの原稿を整えていた。


そこへ、アルヴィン殿下がやってきた。

「盛況のようだね」

私は思わず原稿を隠しそうになったが、すぐに思い直した。

この方は、共犯者だった。


「おかげさまで」

「僕はまだ読ませてもらっていないけれど」

「完成したら最初に、というお約束ですから」

「なるほど。まだ完成していないから、令嬢たちが先に読んでいるわけだ」

「試読です」

私がまじめな顔で答えると、殿下は小さく笑った。

「便利な言葉だ」


「読者の反応を見るのは大切ですから」

「君は本当に、面白いことを考える」

殿下は東屋の柱にもたれ、私の手元を見た。

「彼女たちは、変わりそう?」

その問いは、とても静かだった。

けれど、軽い興味だけではないものが含まれていた。


私は少し考えてから答えた。

「すぐに何かが変わるわけではないと思います」

「うん」

「明日から急に、帝国の令嬢たちが声高に権利を主張することもありません」

「それは困る大人が多そうだ」

「でも」

私は原稿に視線を落とした。


そこには、リリアが初めて婚約者に自分の意見を伝える場面が書かれている。

震えながらも、背筋を伸ばして。

嫌われるかもしれないと怖がりながら、それでも口を開く場面。


「一度、自分にも願いがあるのだと気づいたら、もう気づく前には戻れません」

アルヴィン殿下は、しばらく何も言わなかった。


風が、東屋の白いカーテンを揺らす。


やがて殿下は、低くつぶやいた。

「それは、革命に近いね」

「そんな大げさなものではありません」

「いや。革命は、必ずしも剣や血で始まるものじゃない」

殿下の瞳が、まっすぐ私を見た。


「誰かが、自分の人生を自分のものだと気づく。案外、そこから始まるのかもしれない」

その言葉に、私は少しだけ息をのんだ。

この人は、やはり帝国の皇子なのだと思った。


軽やかに笑い、少し皮肉っぽく言葉を選びながら、その奥ではずっと国のことを見ている。

古く、重く、変わりにくいこの国を。

諦めきれずに、見ている。


「殿下は、この国を変えたいのですか?」

気づけば、私はそう尋ねていた。

殿下はすぐには答えなかった。


視線を空へ向ける。

「変えたい、というより」

少しだけ間を置いて、彼は言った。


「このままでは、いずれ壊れると思っている」

その声は穏やかだった。

けれど、冗談ではなかった。


「強い者が弱い者を押さえつける仕組みは、長く続くように見えて、実は脆い。押さえつけられた人間の不満は消えない。ただ、見えない場所に溜まっていくだけだ」

「はい」

「女性を家の飾りにしておくことも、才能の半分を眠らせることと同じだ。国にとって、あまりにも損が大きい」

私は目を瞬いた。


「そのようにお考えだったのですね」

「兄上ほど立派な理想ではないよ。僕はただ、退屈な国が嫌いなだけだ」

そう言って、殿下はいつものように肩をすくめた。


けれど私は、もうその言葉をそのまま受け取ることはできなかった。


退屈。


彼はよく、その言葉を使う。

でもきっと、それは諦めに似た怒りなのだ。

変わらないものを見続けてきた人の、静かな反抗なのだと思った。


「殿下」

「何?」


「小説が完成したら、必ず一番にお見せします」

「うん」

「そして、出版社への道をお願いします」

「ああ」

「でも、それだけではなく」

私は原稿を胸に抱いた。


「この物語が帝国の誰かに届くように、力を貸してください」

アルヴィン殿下は、少し驚いたように目を見開いた。


それから、ゆっくりと笑った。

今度の笑みは、いつもの気だるげなものではなかった。

年相応の少年のような、どこか楽しそうな笑みだった。


「もちろん。共犯者だからね」

その言葉に、また胸の奥が跳ねた。

私はやっぱり、その感情に名前をつけられない。


けれど今は、それでいいと思った。

恋よりも先に、書きたい物語がある。


伝えたいことがある。

変えたい未来がある。

それでも、いつかこの気持ちに名前をつける日が来るのなら。


その時、隣にこの人がいたらいい。

そんなことを思って、私は少しだけ頬が熱くなった。


「では、今夜も続きを書かなくては」

「無理はしないように」

「はい。でも、読者が待っていますから」

「僕も待っている」

何気ない一言だった。


けれど私の手から、危うく原稿が滑り落ちそうになった。

アルヴィン殿下は、それに気づいたのか気づいていないのか、涼しい顔で続ける。


「楽しみにしているよ、マリアーナ嬢」

名前を呼ばれただけ。

ただ、それだけなのに。


私はなぜか、返事をするまでに少し時間がかかった。

「……はい、殿下」


その日の夜。

私は、これまでで一番長く机に向かった。

ランプの灯りの下で、ペン先が紙を走る。


リリアはもう、ただ待つだけの令嬢ではなかった。

自分の知恵を信じ、誰かと手を取り、自分の未来を選ぼうとしている。

そしてその姿は、少しだけエレノア様に似ていた。


少しだけ、帝国の令嬢たちに似ていた。

そして、ほんの少しだけ。

私自身にも似ている気がした。

物語は、誰かを変える。


けれど、書いている私自身もまた、少しずつ変わっているのかもしれない。

帝国に来る前の私は、母に背中を押されて旅立った娘だった。

今の私は、自分の足でこの国に立ち、ペン一本で何かを始めようとしている。


それがどれほど小さな一歩でも。

誰かに笑われるような夢でも。

私にとっては、確かな始まりだった。


窓の外で、夜風が揺れる。

遠くに見える皇城の灯りを眺めながら、私は新しい紙を一枚取り出した。

そして、物語の続きを書き始めた。


これは、恋を知らない令嬢が、自分の願いを見つける物語。

これは、古い国で、少女たちが少しずつ顔を上げる物語。


そしてたぶん。

これは、私とアルヴィン殿下が、まだ名前のない感情を抱えたまま、同じ未来を見ようとする物語でもある。


私はペンを握り直し、小さく笑った。


さて。


続きを書こう。


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