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香見  作者: 悠
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残り香

この作品は、匂いから記憶や感情を読み取る少女の物語です。


江戸のような時代を舞台に、

静かな怪異と、人の執着を描いています。


少し不気味な雰囲気の話ですが、

楽しんでいただけたら嬉しいです。


# 残り香


## プロローグ


夢を、見ていた。


あの人の気配。

あの人の温度。

あの人の空気。

あの人の香り。


——それだけが、わたしの世界だった。


夢を、見ていた。


すべてが、ほどけていく夢。


愛しい感情が、ぐちゃぐちゃになって、

真っ黒になって、

腐りゆく匂いを放ちながら、形を失っていく。


それでも、まだ。


消えないものがある。


——なぜ。


わたしには、あの人しかなかったのに。


……ありがとう。


そして、


さようなら。


---


## 第一話「残り香」


朝の空気は、まだ冷えていた。


澄は足を止める。


人影の少ない路地。

夜の気配が、わずかに残っている。


「……まだ、いる」


誰に向けるでもなく、そう呟いた。


そこには何もない。

だが確かに、あった。


ほどけかけた感情の匂い。

形を失いかけた、誰かの残り香。


澄は目を閉じる。


冷えた空気の中に混じるものを、そっと拾い上げる。


——消えかけている。


そのはずだった。


ふと、異なる匂いが混ざる。


ここにあるはずのない、

濃く、重く、消えない気配。


澄の足が、勝手に動いた。


「おい」


律が声をかける。


「どこへ行く気だ」


「……わからない」


それでも、止まれない。


胸の奥を、引かれる。


見えない糸で、導かれるように。


「でも、あそこに——」


わずかに間を置く。


「……いる」


律は眉をひそめる。


「消えぬ匂い、か」


「ろくでもねえな」


それでも、止めはしなかった。


澄が止まらないときは、止まらないと知っている。


やがて、通りの先に一軒の家が見えてくる。


古びた木の家。

だが、軒先には帳場の名残があり、

かつては商いをしていた家であることが知れる。


どこにでもあるような佇まい。


だが——


「……ここだ」


風が、流れていない。


そこだけが、切り離されたように、淀んでいる。


澄はごくりと唾を飲む。


異様だ。


本能が、そう告げている。


「……やめとけ」


律が低く言う。


澄は答えず、戸に手をかけた。


「どなたでございましょう」


奥から声がする。


静かで、上品な声。


「……匂いを、見ます」


一瞬の間。


「……ああ」


「ようやく」


女が現れる。


整った顔立ち。

やわらかな笑み。


だが、その目はどこも見ていなかった。


---


家の中には、生活の気配がなかった。


それなのに、


むせ返るほどの甘さと、焦げたような匂いに混じって、

わずかに香の匂いと、乾いた布の気配が残っている。


整えられた、商家の名残。


「強え……」


澄は顔をしかめる。


「人が住んでる気配じゃねえ」


律が呟く。


「主人が、いなくなったのでございます」


女は静かに言う。


「……いつからだ」


「三日ほど前にございます」


その言葉に、匂いが揺れる。


「嘘だな」


律が吐き捨てる。


澄もまた、理解していた。


——もっと前からだ。


ここには、時間が沈んでいる。


---


踏み込んだ瞬間、流れ込む。


絡み合う情と憎。

押し殺された声。

崩れた感情。


甘さと焦げた匂いの源は、ここだ。


澄は膝をつく。


「……いる」


畳の上に、何かがいる。


輪郭は曖昧。

だが確かに、人の気配。


一瞬だけ。


見覚えのないはずの景色が、

どこか懐かしく重なる。


「宗一さん」


名が、零れる。


思い出したわけではない。


ただ——


ずっと前から、知っていたように。


女——雪乃が近づく。


「いるのでございましょう?」


手を伸ばす。


「触れてはならねえ!」


遅かった。


それは爆ぜ、雪乃に絡みつく。


「ああ……宗一さん……」


歪んだ歓喜。


「違う」


澄は言う。


「それは、宗一さんじゃない」


「ちがう!!」


雪乃は叫ぶ。


「わたしだけの宗一さんだ!!!」


甘さが腐る。


絡みつくものが、形を失いながらなお在る。


澄は気づく。


——奥に、まだある。


「……宗一さん」


呼びかける。


応えがある。


だがそれは——


雪乃へと傾いた。


選ぶように。


澄は手を下ろす。


「律、行こう」


「宗一さんは、ここに居たいのだろう」


「あのふたりの匂いは、もう混じった」


「ほどけねえ」


外へ出る。


冷えた空気が肺に入る。


それでも、わずかに残る匂い。


あの家は、消えない。


混じり合ったまま、そこに在り続ける。


---


## 後日談


数日後。


ある家の庭から、焼けた男の遺体が見つかったという噂が流れた。


「奥方がやったらしい」


「だが——」


声を潜める。


「まだ一緒にいると思うておるのだと」


短い沈黙。


「幸せそうにしておるとか」


風が吹く。


「……怖え話だ」


その声は、すぐに消えた。

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