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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第1部

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第9話

利川イチョンの村に入った瞬間、風が変わった。


腐った匂いではなかった。むしろ、何も匂わなかった。それが、おかしかった。


道端に牛が倒れている。腹が膨らんでいる。川べりに農民が座り込んでいる。声が出ない顔をしていた。泣く力も残っていない顔だった。クァンは歩きながら、牛の死体を一頭ずつ見た。


「牛疫なら、もっと激しい下痢と高熱がある」


独り言だった。チニョンが隣で聞いていた。


「この牛たちは、眠るように倒れている」


屈み込んで、牛の目を開いた。結膜に、紫の斑点があった。点ではなく、滲みのような形だった。見たことのない色だった。


立ち上がり、次の牛を見た。同じ色だった。


---


三日後、村人が倒れた。


首筋に、同じ紫の斑点が出ていた。


「痘瘡だ」と都から来た医官が叫んだ。「獣の病が人に移った。村を封鎖しろ」声が震えていた。恐怖の震えだった。正体が分からない時、人は名前をつけて落ち着こうとする。名前をつければ、知っている病になる。知っている病なら、知っている対処ができる。


クァンは黙っていた。


これは痘瘡ではない。発疹の形が違う。広がり方が違う。何より、牛と人が同じ斑点を持つことが、腑に落ちない。


「クァンよ」


恵民署の署長が近づいてきた。年老いた医師だった。長い年月をかけて培った目を持つ人間の顔をしていた。


「お前も同じことを考えておるだろう」


「はい」


「疫病ではない、と」


「外から入った毒だと思います。発疹の形が、中毒の症状に近い」


「原因は」


「まだ分からない」


二人は村を歩いた。食べ物を調べた。空気を嗅いだ。共通点を探した。倒れた牛の分布を地図に書き起こした。倒れた村人の家の位置を重ねた。


何かが、引っかかりかけていた。


---


「クァンさん」


振り向いた。


チニョンが壁に手をついていた。立っていたが、立っているだけだった。顔の色が違った。


首筋に、紫の斑点が出ていた。


「チニョン」


駆け寄った。抱きとめた。体が冷たかった。こんなに冷たかったか、と思った。朝、一緒に村を歩いていた時には気づかなかった。気づけなかった。


「私、分かった」


チニョンの指がクァンの袖を掴んだ。意識が遠いのに、掴む力だけがあった。


「この村に入ってから……私だけが、北の井戸の水を飲んだ。他の人は煮沸していたけど、処置の合間に……そのまま」


「俺が煮沸しろと言ったのに」


「急いでいたの」


責めていなかった。ただ、事実を告げていた。医女として、最後まで観察していた。


「水が原因。どこかの水の中に、何かが混じっている」


それだけ言って、意識が落ちた。


クァンの腕の中で、体の重さが変わった。


「チニョン」


返事がなかった。


「チニョン」


もう一度呼んだ。呼んでも仕方がないと分かっていた。それでも呼んだ。


---


署長にチニョンを託した。


走った。


北の井戸に向かった。井戸の周囲の土を触った。湿っていた。長雨の後だった。水源を遡った。沢を上った。山肌を登った。


廃鉱山があった。


入口が崩れていた。最近の雨で、土が動いた跡があった。坑道の奥に水が溜まっていた。黒ずんだ色をしていた。壁面に白い粉が吹いていた。


指で触れた。舌先で確かめた。


苦かった。金属の味がした。


鉛か、砒素か。鉱山の壁から溶け出した毒が、長雨で地下水に混じり、北の井戸に流れ込んだ。牛が飲んだ。人が飲んだ。同じ斑点が出た。疫病ではなく、大地の毒だった。


証明するには解毒薬が要る。


チニョンが目を覚ます前に、間に合わせなければならない。


坑道を出た。山を駆け下りた。


頭の中で組み立てた。砒素の中毒に効く生薬。緑豆りょくとう甘草かんぞう。排毒を促す処方。牧場にいた老医師から教わった、毒を体の外へ押し出す鍼の位置。全部、繋げた。点が線になった。


村に戻り、署長に告げた。


「北の廃鉱山から毒が流れ込んでいます。疫病ではない。北の井戸を今すぐ封じてください」


署長は一拍だけ止まった。それから頷いた。


「薬は」


「俺が作ります。時間をください」


---


夜になった。


クァンは薬を煎じながら、チニョンの顔を見た。眠っているような顔だった。眠っているのではなかった。呼吸が浅い。時折、眉が動いた。


父ソックが死んだ夜のことを思った。


あの夜も雨だった。医院の門を叩いて、追い払われた。間に合わなかった。何もできなかった。同じことをまた繰り返すのかと思った。思って、鍋の火を強めた。


繰り返さない。


今夜は、薬がある。道筋が見えている。手が動く。それだけで、あの夜とは違う。


「……クァン」


声がした。


チニョンが目を開けていた。細く、かすかに。


「起きるな。まだ動くな」


「薬の匂いがする」


「もう少しで飲める」


「間に合った?」


クァンは鍋を見た。色が変わっていた。もう少しだった。


「間に合う」


言い切った。根拠があった。この手が知っている。


チニョンが目を閉じた。閉じる前に、少し笑った。


「……信じる」


その二文字が、厚い壁を一枚、崩した気がした。医女が馬医を信じると言った。両班の娘が、身分も肩書もない男を信じると言った。


クァンは薬鍋から目を離さなかった。


崩れる暇はなかった。今は、この火だけを見ていればいい。チニョンが目を覚ました後のことは、その後に考える。


雨が降り始めた。


屋根を叩く音がした。あの夜と同じ冷たさのはずだった。今夜は、そう感じなかった。


火が、燃えていたからだ。

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