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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第1部

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第8話

初夏の陽光が厩舎に差し込んでいた。


「なぜ薬の配合を変えたのですか」


チニョンの声は、その光より硬かった。


恵民署(へミンソ)の教本には、この炎症には黄連を用いると記されています。勝手な判断は——」


「教本は人間のためのものでしょう」


クァンは馬の蹄を削る手を止めなかった。顔も上げなかった。


「馬の胃は繊細だ。あの配合のまま使えば、明日には下痢で立てなくなる」


「……現場の勘だけで動くのは危険ですわ。私は医術を体系的に——」


「体系的に学んだ先生方は、なぜこの馬を診なかったんですかね」


沈黙が落ちた。


チニョンは反論を探した。見つからなかった。見つからないことが、余計に腹立たしかった。この男は礼儀を知らない。だが馬の前に立つ時だけ、何か別のものになる。それが癪だった。


クァンも口を閉じた。言いすぎた、とは思わなかった。間違ったことは言っていない。ただ、この女が「正しい」と思っている場所と、自分が「正しい」と知っている場所が、違う。それだけだ。


二人は背中を向けて仕事を続けた。


---


放牧場の隅で、母羊が鳴いていた。


難産の末、子を亡くして三日。乳を張らせたまま草も食わず、ただ同じ場所に立って鳴き続けている。産後熱が出ていた。チニョンは解熱の(はり)を打ち、薬湯を用意した。正しい処置だった。


だが母羊は、食わなかった。


鍼が効いても、薬が体に入っても、立ち上がろうとしなかった。身体の問題ではない。チニョンには分かっていた。分かった上で、どうすることもできなかった。


「産後熱だけが原因ではありません」


チニョンは厩舎に戻り、クァンに告げた。意地でも報告したくはなかったが、これ以上一人で抱えても仕方がない。


「このままでは衰弱して死にます。でも、生きようとする意志が……」


クァンは既に立ち上がっていた。


---


クァンが戻ってきた時、腕の中に子羊がいた。


先週、狼に母親を殺された仔だ。群れに馴染めず、隅で震えていた。クァンが厩舎の干し草の中に匿っていたのを、チニョンは知らなかった。


「何をするつもりですか」


答えなかった。


母羊の乳房に手を当て、少しだけ搾った。その手で子羊の体を、首から背にかけて拭いた。母羊の匂いを移した。


そして、子羊を母羊の腹の下に押し込んだ。


「やめてください」


チニョンが声を上げた。


「自分の子じゃないと分かれば、突き飛ばします。怪我をさせたら——」


母羊が子羊を嗅いだ。


長い時間をかけて、鼻先を押しつけた。子羊は動かなかった。震えながら、そこにいた。


母羊の首が、ゆっくりと下がった。


舌が、子羊の背を舐めた。


子羊が乳首を探り当てた。吸い始めた。


母羊は動かなかった。突き飛ばさなかった。ただ、その場に立って、舐め続けた。


しばらくして、母羊が草に鼻先を近づけた。一口、食んだ。


チニョンは息を忘れていた。


---


夕暮れが厩舎を赤く染めた。


二人は並んで板壁に背を預けた。自然にそうなった。どちらが誘ったわけでもない。母羊と子羊が寄り添う音だけが、しばらく続いた。


「……どうして分かったのですか」


チニョンが聞いた。責めているのではなかった。本当に知りたかった。


「教本のどこにも、あんな処置は載っていません」


クァンはしばらく黙っていた。


「……俺も、同じだったから」


チニョンが顔を向けた。


「矢を受けて海に落ちたのは、十二年前です。流れ着いた時には、もう動けなかった。熱があって、傷が腐りかけていて」


クァンは母羊を見ながら話した。こちらを向かなかった。


「牧場に老医師がいて、命は繋いでくれた。でも夜が問題で。傷の痛みより、寒さより、何より……ただ、真っ暗で。父が死んで、ヨンダルも消えて、俺は名前もない場所にいた」


ヨンダル、という名をクァンが口にした。チニョンの指先が、かすかに動いた。


「その夜、厩舎に一頭の馬がいました。子を亡くしたばかりの母馬で。俺のそばに来て、動かなかった。体を寄せてきた。朝まで、ずっと」


クァンは少し笑った。自嘲ではなかった。


「馬に救われた馬医ってのも情けない話ですが。でも、あの体温がなければ、俺は夜明けを見られなかった。だから分かるんです。身体じゃなくて、穴が空いてる時は、穴を埋めるしかない」


チニョンは黙っていた。


十二年前。海に落ちた少年。父を亡くした。ヨンダル、という名前。


頭の中で何かが動いた。動いて、止まった。まさか、という言葉が浮かんで、沈んだ。あのクァンは奴婢の子だった。目の前の男は馬医だ。違う。でも、この目が。この声が。ヨンダルと呼んだ時の、あの間が。


「……ずっと一人で抱えてきたのですね」


言葉が出た。考えて言ったのではなかった。


「八年間」


クァンがこちらを向いた。


チニョンは視線を逸らさなかった。


「私がミョンファン様の屋敷で、温かい食事をいただいていた八年間、貴方は馬の体温で夜を越えていた。……私は何も知らなかった」


「あんたが気にすることじゃない」


「気になります」


静かに言い切った。


「貴方のことが、気になります」


沈黙が落ちた。


母羊が、深く息をついた。子羊が、その腹の下で丸くなった。


チニョンは自分の手が動いていることに、動いてから気づいた。クァンの手の甲に、自分の手が重なっていた。泥の乾いた、傷だらけの手だった。


クァンは動かなかった。


息を止めていた。この手の温度を、どこかで知っている気がした。泥棒市の廃屋で、馬を救った夜の後、一瞬だけ触れた感触に、似ていた。似ているはずがなかった。でも。


「チニョン様」


「チニョンと呼んでください。様はいりません」


クァンは返事をしなかった。


できなかった。


この女が誰なのか、まだ分からない。だが、分からないまま、この場所にいることが、今夜だけは悪くないと思った。


母羊と子羊が、並んで眠り始めた。



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