第7話
神駿が鳴いていた。
苦悶の声だった。馬房の外に立ち並ぶ役人も馬医も、互いの顔を見るばかりで、誰も中に入らない。責任を取りたくないからだ。この馬が死ねば、誰かが死ぬ。だから誰も触れない。
クァンは馬房に入った。
「この馬を治せば、先輩を放してくれますね」
返事を待たなかった。馬の腹に手を当てた。膨らみの位置、硬さ、呼吸のたびに変化する張り。内側から圧がかかっている。ガスだ。腸の捻転ではない。これなら、鍼で逃がせる。
銀鍼を構えた。ソックが遺したものだ。もう何度、この鍼に助けられたか。
刺した。
「無謀だ」と誰かが叫んだ。聞こえなかった。鍼の先に全神経を集めていた。角度を微調整する。手が覚えていた。牧場の夜明けに仔馬の首筋を探った時から、この手は変わった。
空気が抜ける音がした。
馬の体から、力が逃げていくのが分かった。強張っていた筋肉が緩む。呼吸が、深くなった。
馬房が静まり返った。
神駿が、ゆっくりと首を持ち上げた。
誰も何も言わなかった。それが答えだった。
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主任馬医は、その光景を馬房の外から見ていた。
腕を組み、表情を変えなかった。だが、頭の中では計算していた。名もない若造が国宝級の馬を救えば、今まで何もできなかった自分たちの無能が残る。記録に残る。ミョンファンの耳に入る。
夜、誰もいなくなってから、男は補薬の器に手を入れた。
附子。微量でいい。翌朝まで効果は出ない。
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翌朝、神駿が倒れていた。
口から泡。四肢が震えている。昨夜とは別の倒れ方だった。
「治療失敗だ」
主任馬医の声が響いた。
「それどころか、この男が馬を毒殺しようとした」
兵がクァンを組み伏せた。クァンは床に押さえつけられながら、馬の口元を見た。粘膜の色。涎の質。昨日とまったく違う。
「中毒だ」
床に顔を押しつけられたまま叫んだ。
「病気の悪化じゃない。薬に何かが混ぜられた。昨夜、誰かが——」
「黙れ。卑しい馬医が言い逃れをするな」
牢に放り込まれた。先輩も同じ牢にいた。二人並んで、石の壁を見ていた。
先輩が何か言おうとした。クァンは首を振った。言葉はいらなかった。自分のせいでここにいる。それだけのことだ。
夜が来た。
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扉が開いた。
松明の光の中に、ミョンファンが立っていた。
典医監の最高権威。絹の官服。整えられた白髭。クァンにとっては初めて見る顔だった。
男は何も言わずに入ってきた。牢の隅に置かれていた薬の残滓を指に取り、舌先で触れた。目を閉じた。一拍。
「主任馬医を連れてこい」
それだけ言った。
声に感情がなかった。正義でも怒りでもない。汚点の処理をする声だった。清国への献上馬を台無しにされれば、管轄する組織ごと責任を問われる。それだけの話だ。
主任馬医が連行された。夜明け前に、クァンの釈放が命じられた。
廊下に出たところで、ミョンファンが振り返った。
「名は」
「ペク・クァンと申します」
ミョンファンの目が、一瞬だけ止まった。ペク、という姓。そして物怖じしないこの目。何かを探るように、数秒、クァンを見た。
「腕は確かなようだが」
男は前を向いた。
「卑しき者は、分をわきまえて生きるがいい。運は続かぬ」
足音が遠ざかった。
クァンはその背中を見送った。命を繋いでくれた。だが、礼を言う気にはなれなかった。あの言葉が、あの声の質が、何かを削いでいった。この男が何者か、まだ知らない。ただ、相容れない何かがそこにある、とだけ感じた。
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神駿は完治した。先輩も釈放された。
それだけのことだが、都の馬医の間では話題になった。名もない若手が国宝の馬を救い、毒を見抜き、釈放された。名前だけが一人歩きした。ペク・クァン、と。
クァンは詰所に戻り、馬の世話を続けた。何も変わらなかった。変わっていないと思っていた。
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恵民署から辞令が来たのは、その翌週だった。
チニョンは紙を二度見た。
司僕寺。王室の馬と家畜を管理する場所。医女が配属されるのは異例だった。王女の猫を診た時の手際が理由なのか、あるいは別の誰かの意図なのか、辞令は何も語らなかった。
戸惑いながら門をくぐった。
馬の匂いがした。藁と土と、獣の息遣い。慣れない匂いのはずだった。なぜか、そうは感じなかった。
馬房の前で、青年が馬の足を洗っていた。
逆光だった。振り返った顔を見た瞬間、チニョンは足が止まった。
「……ペク・クァンさん?」
クァンも固まった。
「医女様。なぜ、ここに」
しばらく二人とも動かなかった。馬が鼻を鳴らした。その音だけが間を埋めた。
チニョンが先に息をついた。ここで驚いていても仕方がない。辞令は辞令だ。
「これからよろしくお願いします」
手を差し出した。
「……私のことも、チニョンと呼んでください。医女様では、働きにくいでしょう」
クァンはその手を見た。
白く細い手だった。清潔で、整っていて、医女としての年月が刻まれた指だった。
取れなかった。
この手の持ち主が誰なのか、まだ分からない。分かっているのは、この目が、この声が、何度も何かを揺らすということだけだ。泥棒市の廃屋で、馬の傍らに立っていたあの少女の気配が、目の前の女の中にある。あるような気がする。気がするだけかもしれない。
「……ペク・クァンです」
クァンは頭を下げた。
「よろしくお願いします、チニョン様」
様、とつけた。一歩、引いた。
チニョンは手を下ろした。何かを言いかけて、やめた。馬房の方へ歩き出した。
クァンはその背中を見た。歩き方が、似ていた。あの少女の、少し顎を上げたまま歩く癖に。
似ているだけだ、と思った。
思いながら、目が離せなかった。




