第6話
異人村は、漢陽の中の別の国だった。
清国の茶葉、倭国の漆器、どこから来たとも知れない色硝子。身分を隠して歩くには、雑多すぎてちょうどいい場所だ。夕暮れの路地に異国の香が漂い、聞き慣れない言葉が飛び交う。
「見てください、チニョン。南蛮鏡ですわ、あんなに大きな」
ヨジョン王女が足を止め、屋台の鏡に顔を近づけた。現国王の愛娘。今日はお忍びで、付き添いの医女チニョンと連れ立って歩いている。愛猫のナビが食欲をなくして三日、高名な医者に診せても改善しない。気晴らしに、とチニョンが提案した。
チニョンは王女の二歩後ろを歩きながら、路地の奥を見ていた。華やかな装いの二人連れは、こういう場所では目立ちすぎる。
案の定だった。
「そこの美しいお嬢さん方。俺たちと一杯どうだ」
三人の男が路地を塞いだ。酒の匂いがした。チニョンは王女の前に出た。
「通してください」
「通してください、だと。可愛い声だな」
男の手が伸びてくる。その瞬間、横から影が割り込んだ。
「よせ」
低い声だった。
「女人を怖がらせて喜ぶのは、獣以下だぞ」
クァンだった。馬市への用事の帰りだった。それだけのことだ。たまたま、この路地を通った。
男が掴みかかった。クァンは躱した。無駄のない動きだった。馬を制する時の動きに似ていた。相手の重心を読み、力をいなし、地面に転がす。三人が片付くまで、時間はかからなかった。
騒ぎを聞きつけた役人が来た時、男たちが先に叫んだ。
「この男に突然襲われた」
クァンは何も言わなかった。言えば王女のお忍びが露見する。チニョンが口を開きかけた時、王女が先に目で制した。自分が一番叱られる、その顔だった。
クァンは捕縛された。
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離宮の片隅にある牢は、本来、物置に近い場所だった。
格子の向こうに、ヨジョン王女が立っていた。籠を抱え、ふくれっ面で。その後ろで、チニョンが俯いていた。
「詫びるなら今のうちですわ。わたくしを誰だと思っているの」
「どこのお嬢様かは存じませんが」
クァンは格子に背を預けたまま言った。
「夜の異人村をお忍びで歩くのは、感心しませんな。命がいくつあっても足りませんよ」
王女が絶句した。チニョンが顔を上げた。その目がかすかに笑っていた。
籠の中から、弱々しい声がした。
白猫だった。ぐったりとして、首を持ち上げる力もない。
「ナビが、また……。高名な医者に何度診せても、一向に良くならないのです」
クァンは格子越しに籠を見た。
「見せてください」
「馬医に何が分かりますの」
「獣の扱いなら、そこらの医者よりは心得ています」
王女は渋々、籠を格子に近づけた。クァンの指が、猫の顎の下を優しく押さえた。喉を辿る。ここ、と思った場所で猫が小さく身じろいだ。
「病じゃない。喉に骨が刺さっている。異国の硬い魚の、細い骨だ」
「そんなはずは——高名な先生が何も仰らなかった」
「先生方は猫の喉を触らなかったんでしょう」
クァンは懐からピンセットを出した。馬の治療に使う細いものだ。猫の口を開け、骨の位置を指先で確かめ、一息で抜いた。猫が身を捩った。それだけだった。
しばらくして、猫が王女の膝に飛び乗った。喉を鳴らした。
「ナビ」
王女の声が変わった。
「……ナビが、鳴きましたわ」
クァンは格子を握った。
「約束通り、釈放してもらえますか」
王女は顔を赤くして背を向けた。「勝手になさい」と言いながら、格子の錠を外す合図を出した。
扉が開いた。
チニョンが近づいてきた。
「ペク・クァンさん」
クァンは振り向いた。
「ありがとうございました。貴方は……不思議な方ですね」
「いえ」
クァンは少し考えてから言った。
「猫も馬も同じです。言葉を話せない奴らが頼れるのは、俺たちだけですから」
チニョンはその言葉を聞いた瞬間、何かが胸を打った。痛みではない。もっと古い、懐かしい種類の何かだった。この男の言葉の選び方が、この男の目が、知っている誰かに似ている。八年前に死んだはずの、あの少年に。
クァンはもう歩き出していた。チニョンはその背中を見送った。
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馬医の詰所が騒然としていた。
「大変だ、神駿が動かない」
清国への献上馬だった。両国の外交を繋ぐ一頭。それが突然倒れた。担当馬医には国家反逆の罪が問われる。
馬房に飛び込んだクァンが見たのは、兵に組み伏せられた先輩馬医と、横たわる名馬だった。
「違う、俺は何もしていない、昨晩までは——」
「黙れ。ミョンファン様が仰った。お前の管理不足だと」
ミョンファン。
その名が、クァンの耳の中で一拍だけ止まった。
馬に近づいた。瞳の色が濁っている。腹部が異常に膨らんでいる。呼吸が浅い。指で脇腹を押した。馬が反応した。この膨らみ方は、内側からだ。草や水では起きない。
*誰かが、仕組んだ。*
先輩が引き立てられていく。雨が降り始めていた。石畳を打つ音が、足音に混じる。
罪なき命が、あの男の名前一つで消えていく。十二年前も、そうだった。父ソックが医者を呼んでも門が閉まったあの夜も、そうだった。権力は理由を作る。理由があれば人を殺せる。
クァンは前に出た。
「待ってください」
雨の中に声が響いた。
「その馬、俺が治します」
兵が振り返った。先輩が振り返った。全員がクァンを見た。
「何者だ、貴様」
「ペク・クァン。馬医です」
それだけ言った。
卑しい身分の、名もない馬医だった。後ろ盾も、家名も、何もない。あるのは、ソックが遺した銀鍼と、泥の中で覚えた手の記憶だけだ。
だが、この馬を見捨てれば、先輩が死ぬ。この馬を救えれば、何かが変わるかもしれない。変わらなくても、黙っているよりはいい。
クァンは馬房に踏み込んだ。
雨が強くなった




