表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第2部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

47/50

第47話

【1591年 冬・漢陽 王宮の大殿から、冷たい風の吹く官庁へ】


「王様、……法を曲げる必要はありません。ただ、『真実』を認めていただきたいのです」

 大殿テジョンに響くクァンの声は、静かだが震えていた。

 彼は、養父ペク・ソックが死の間際まで抱え、そして自分に託した「重すぎる真実」を、ついに顕宗ヒョンジョンの前で解き放った。

 それは、十二年前の謀反事件のさらに数年前――朝鮮王朝最大の悲劇と言われる「昭顕ソヒョン世子暗殺事件」に遡る。

「私の養父、ペク・ソックは、偶然にも世子様が毒殺される現場を、そしてその背後にいた者たちの顔を見てしまったのです。彼は正義感ゆえにそれを告発しようとしましたが、権力の前に逆賊の汚名を着せられ、追われる身となりました」


「……昭顕世子様の毒殺だと?」

 顕宗の顔から血の気が引いた。それは、現王室の正統性にも関わる禁忌の領域だ。もし、ソックの告発が正しかったと認めれば、先代の王たちの決定を覆し、朝廷の根幹を揺るがすことになる。

 しかし、クァンは一歩も引かなかった。

「養父は、自分の命を捨ててでも、国を正そうとした忠臣でした。……もし、彼の功績が認められるならば、その娘であるチニョン様は『逆賊の娘』ではなく、『忠臣の遺族』として、両班の地位を授かる権利があるはずです」

 クァンの狙いはそこにあった。

 チニョンを「カン・ドジュンの娘」に戻せば、彼女は再び身分違いの恋に苦しむことになる。しかし、「ペク・ソックの娘」として、ソックの名誉を回復させれば、彼女は堂々と「両班の娘」として、カンクァンと結ばれることができるのだ。


 顕宗は、深い沈黙に陥った。

 ソックを救えばチニョンを救える。だが、昭顕世子の暗殺を公にすれば、保守派の重臣たちが黙っていない。国が二分される危機だ。

「……クァンよ。其方の願いは痛いほど分かる。だが、世子の事件を今さら公にすることは、この国に新たな血の嵐を呼ぶ。余に、国を壊せと言うのか?」

 クァンは、床に額を押し当てた。

「……ならば、王様。どうか、智慧をお貸しください。命を救うために戦ってきた私に、愛する人を救うための『法』をお与えください!」

 顕宗は窓の外を見つめ、やがて不敵な笑みを浮かべた。

「……案ずるな。余は、この国の王だ。……公にできない真実があるなら、別の『真実』を作ればよいだけのことだ」


 数日後、朝廷にて驚くべき王命が下された。

「かつて、先代の時代に疫病の蔓延を未然に防ぎ、王室の危機を救いながらも、無実の罪で命を落とした一人の男がいる。……その名はペク・ソック。余は、彼の隠れた功績を今、正式に認め、彼を『功臣』として追贈する!」

 顕宗の放った「秘策」は、昭顕世子の事件には一切触れず、ソックがかつて馬医や下級官吏として働いていた時代の「別の功績」を最大限に膨らませ、彼を英雄に仕立て上げることだった。

 これには重臣たちも反論できなかった。死んだ人間に名誉を与えることは、誰の権力も脅かさないからだ。

「……これに伴い、その娘ペク・チニョンは、功臣の遺族として、即刻奴婢の身分を解き、両班の地位を授けるものとする!」


 官庁の洗濯場で、霜焼けの手に息を吹きかけていたチニョンのもとに、王室の使者が現れた。

「ペク・チニョン! 勅命である! 跪いて聞け!」

 

 使者が読み上げた王命の内容に、チニョンは耳を疑った。

 自分が救われたことよりも、何よりも――愛する「父」ペク・ソックが、ようやく国に認められ、その汚名が雪がれたという事実に、彼女は声を上げて泣き崩れた。

「……父上。聞こえますか。……クァンさんが、貴方の誇りを取り戻してくれましたよ……」

 そこへ、息を切らしてクァンヒョンが駆けつけた。

 彼は、泥にまみれたチニョンの手を、迷わず取り、力強く引き寄せた。

「……チニョン。……いや、チニョン様。……ようやく、貴女を迎えに来ることができました」

 二人の間に、もはや壁はなかった。

 馬医から神医へ。奴婢から令嬢へ。

 流転し、入れ替わった運命は、今、ようやく本来あるべき場所へと収まろうとしていた。

 しかし、その様子を遠くから見つめる、冷ややかな視線があった。

 権力を失い、野に下ったミョンファンの残党と、そして――自分こそが真の「神医」であると信じて疑わない、チェ・ヒョンウクの歪んだ執念が、まだ消えたわけではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ