第47話
【1591年 冬・漢陽 王宮の大殿から、冷たい風の吹く官庁へ】
「王様、……法を曲げる必要はありません。ただ、『真実』を認めていただきたいのです」
大殿に響くクァンの声は、静かだが震えていた。
彼は、養父ペク・ソックが死の間際まで抱え、そして自分に託した「重すぎる真実」を、ついに顕宗の前で解き放った。
それは、十二年前の謀反事件のさらに数年前――朝鮮王朝最大の悲劇と言われる「昭顕世子暗殺事件」に遡る。
「私の養父、ペク・ソックは、偶然にも世子様が毒殺される現場を、そしてその背後にいた者たちの顔を見てしまったのです。彼は正義感ゆえにそれを告発しようとしましたが、権力の前に逆賊の汚名を着せられ、追われる身となりました」
「……昭顕世子様の毒殺だと?」
顕宗の顔から血の気が引いた。それは、現王室の正統性にも関わる禁忌の領域だ。もし、ソックの告発が正しかったと認めれば、先代の王たちの決定を覆し、朝廷の根幹を揺るがすことになる。
しかし、クァンは一歩も引かなかった。
「養父は、自分の命を捨ててでも、国を正そうとした忠臣でした。……もし、彼の功績が認められるならば、その娘であるチニョン様は『逆賊の娘』ではなく、『忠臣の遺族』として、両班の地位を授かる権利があるはずです」
クァンの狙いはそこにあった。
チニョンを「カン・ドジュンの娘」に戻せば、彼女は再び身分違いの恋に苦しむことになる。しかし、「ペク・ソックの娘」として、ソックの名誉を回復させれば、彼女は堂々と「両班の娘」として、カン家と結ばれることができるのだ。
顕宗は、深い沈黙に陥った。
ソックを救えばチニョンを救える。だが、昭顕世子の暗殺を公にすれば、保守派の重臣たちが黙っていない。国が二分される危機だ。
「……クァンよ。其方の願いは痛いほど分かる。だが、世子の事件を今さら公にすることは、この国に新たな血の嵐を呼ぶ。余に、国を壊せと言うのか?」
クァンは、床に額を押し当てた。
「……ならば、王様。どうか、智慧をお貸しください。命を救うために戦ってきた私に、愛する人を救うための『法』をお与えください!」
顕宗は窓の外を見つめ、やがて不敵な笑みを浮かべた。
「……案ずるな。余は、この国の王だ。……公にできない真実があるなら、別の『真実』を作ればよいだけのことだ」
数日後、朝廷にて驚くべき王命が下された。
「かつて、先代の時代に疫病の蔓延を未然に防ぎ、王室の危機を救いながらも、無実の罪で命を落とした一人の男がいる。……その名はペク・ソック。余は、彼の隠れた功績を今、正式に認め、彼を『功臣』として追贈する!」
顕宗の放った「秘策」は、昭顕世子の事件には一切触れず、ソックがかつて馬医や下級官吏として働いていた時代の「別の功績」を最大限に膨らませ、彼を英雄に仕立て上げることだった。
これには重臣たちも反論できなかった。死んだ人間に名誉を与えることは、誰の権力も脅かさないからだ。
「……これに伴い、その娘ペク・チニョンは、功臣の遺族として、即刻奴婢の身分を解き、両班の地位を授けるものとする!」
官庁の洗濯場で、霜焼けの手に息を吹きかけていたチニョンのもとに、王室の使者が現れた。
「ペク・チニョン! 勅命である! 跪いて聞け!」
使者が読み上げた王命の内容に、チニョンは耳を疑った。
自分が救われたことよりも、何よりも――愛する「父」ペク・ソックが、ようやく国に認められ、その汚名が雪がれたという事実に、彼女は声を上げて泣き崩れた。
「……父上。聞こえますか。……クァンさんが、貴方の誇りを取り戻してくれましたよ……」
そこへ、息を切らしてクァンヒョンが駆けつけた。
彼は、泥にまみれたチニョンの手を、迷わず取り、力強く引き寄せた。
「……チニョン。……いや、チニョン様。……ようやく、貴女を迎えに来ることができました」
二人の間に、もはや壁はなかった。
馬医から神医へ。奴婢から令嬢へ。
流転し、入れ替わった運命は、今、ようやく本来あるべき場所へと収まろうとしていた。
しかし、その様子を遠くから見つめる、冷ややかな視線があった。
権力を失い、野に下ったミョンファンの残党と、そして――自分こそが真の「神医」であると信じて疑わない、チェ・ヒョンウクの歪んだ執念が、まだ消えたわけではなかった。




