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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第2部

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第46話

【1591年 冬・漢陽 義禁府の牢獄から、雪の積もるカン・ドジュンの墓へ】


 「……すべて、私の仕業だ。カン・ドジュンを謀反人に仕立て上げ、その赤ん坊を殺そうとしたのも……すべてはこのイ・ミョンファンだ」

 義禁府ウィグンブの訊問場で、ミョンファンは憑き物が落ちたような顔で語った。かつてあれほど執着した権力も、今や彼の手から砂のように零れ落ちていた。

 判決は「極刑」。しかし、処刑を待つミョンファンの前に現れたのは、クァンヒョンに代わって訪れた医女インジュだった。

「……これを、ペク医官……いえ、カン・クァンヒョン様から預かってきました」

 差し出されたのは、古びた、しかし手入れの行き届いた銀色の鍼箱。かつてミョンファンの親友であり、彼が裏切った天才医官、カン・ドジュンの遺品であった。

「……ドジュンの鍼か。クァンヒョンは、これで私を殺せと言うのか」

「いいえ。あの方はこう仰いました。『最期は、医師として自分に向き合ってください』と」

 ミョンファンはその箱を震える手で受け取り、独房の隅で声を殺して泣いた。

 移送の隙を突き、ミョンファンは監視の目を盗んで逃亡した。向かった先は、漢陽の郊外、冷たい雪に埋もれたカン・ドジュンの墓所だった。

 かつて、志を同じくした二人の青年が、朝鮮の医学を変えようと夢を語り合った場所。

「……ドジュン。お前はいつも、私の一歩先を歩いていたな」

 ミョンファンは墓石の前に座り込み、ドジュンの鍼箱を開いた。

「私は、お前のようになりたかった。……だが、恐ろしかったのだ。お前の才能も、お前の清廉さも。……私は医師である前に、ただの臆病者だった」

 彼は一本の長い銀鍼を取り出した。それは、かつてドジュンが「これは命を救うための最後の一針だ」と語っていた急所を突くための鍼だった。

「……すまなかった、ドジュン。今度は、私が先に行く」

 ミョンファンは自らの胸、心臓を貫く経穴に、一点の迷いもなくその鍼を突き立てた。

 朝日が雪原を照らす頃、そこには静かに息を引き取った、一人の老医師の姿があった。その顔には、長年彼を苦しめてきた野心の影はなく、ただ深い安らぎだけが漂っていた。

 一方、王宮では、残酷な「法」の執行が始まっていた。

 身分を偽っていたことが公になったチニョンは、両班ヤンバンの地位を剥奪され、官庁の雑務に従事する「官婢かんぴ」へと転落した。

 昨日まで「令嬢」と仰がれていた彼女が、今は凍てつく板間で膝をつき、兵士たちの衣服を洗っている。

「……チニョン様、止めてください。こんなことは、私たちがやります!」

 駆けつけたヨジョン王女が、涙を流しながら彼女の手を握った。王女の救命に尽力した彼女への恩を、王室の誰もが忘れていなかった。

 しかし、チニョンは穏やかに微笑んだ。

「王女様、ありがとうございます。……でも、これが私の本当の居場所なのです。クァンが耐えてきた十二年間に比べれば、この冷たい水など、何でもありません」

 彼女の指先は霜焼けで赤く腫れていたが、その瞳には高貴な魂の光が失われていなかった。

 「……王様! 法が民を守るためのものであるなら、なぜ命の恩人を地獄へ突き落とすのですか!」

 クァンは、顕宗ヒョンジョンの御前で、何度も頭を床に打ち付けた。

 彼は今や「カン家」の嫡男として認められ、最高の栄誉を授かろうとしていた。しかし、彼にとってそんなものは、チニョンの隣にいられないなら無価値な紙屑に過ぎなかった。

「クァンよ。余の心も痛む。……だが、身分の入れ替えは国基を揺るがす大罪。恩赦を出せば、国中の奴婢が蜂起する口実を与えてしまう」

 顕宗もまた、法と情の板挟みで苦悶していた。仁宣インソン大妃もまた、自分の命を救ってくれたチニョンを案じ、食事も喉を通らない日々を送っていた。

「……ならば、私が彼女の罪を半分背負います。……私が両班の地位を捨て、再び馬医に戻れば、彼女を自由にする法はありませんか!?」

「馬鹿なことを言うな! 其方はこの国の宝なのだ!」


 その夜、クァンは官庁の裏手にある、小さな洗濯場を訪れた。

 月明かりの下、一人で作業を続けるチニョンの背中。

「……チニョン」

 クァンは、初めて彼女を「お嬢様」と呼ばずに、名前で呼んだ。

 チニョンがゆっくりと振り返り、驚きに目を見開く。

「……クァンさん。ここへ来てはいけません。今の私は、貴方と口を利くことも許されない身分なのです」

「……そんなものは、俺が壊します。……見ていてください。俺は医師です。不治の病だと言われた疫病も、外科のメスで切り開いてきた。……この『法』という名の病も、俺が必ず治してみせる」

 クァンは、彼女の腫れた手をそっと包み込んだ。

「……俺たちが、あの穴蔵で出会ったのは、身分なんてものがない世界に行くためだったはずだ。……必ず、迎えに来ます」

 冬の夜空に、一筋の星が流れた。

 宿敵ミョンファンの死をもって一つの時代が終わり、今、愛と正義が法に挑む「最後の戦い」が始まろうとしていた。

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