第45話
【1591年 冬・漢陽 王宮の大妃殿から、雪深い山中の隠れ家へ】
「私は……官婢として生きます。それが、唯一の道ですから」
チニョンの声は、冬の夜気のように透き通っていた。
両班の令嬢としての華麗な衣服を脱ぎ捨て、彼女は自らその手で、粗末な麻の服に身を包んだ。名前を捨て、地位を捨て、ただ一つの愛と正義のために、彼女はどん底の身分へと転落する道を選んだのだ。
一方、大妃殿では、想像を絶する事態が起きていた。
チニョンから「すり替えの真実」を告げられた仁宣大妃は、その衝撃に耐えきれず意識を失い、容態が急激に悪化。腹部で膨れ上がった膿瘍が、ついに命の灯火を消しにかかっていた。
「……もう、猶予はない。今すぐ、腹を切り開く!」
クァンの決断に、周囲の医官たちは悲鳴を上げた。
「正気か! 大妃様の玉体に刃を入れるなど、成功しても処刑は免れんぞ!」
「死なせれば、それこそ終わりだ。俺が、すべての責任を取る」
手術が始まった。
クァンヒョンの手には、かつて馬医時代に牛や馬を救ってきた、あの鋭いメスが握られていた。しかし、その動きはかつてないほど繊細で、精密だった。
皮膚を切り裂き、筋肉を分け、病巣へと迫る。膿が溢れ出し、周囲を汚染していく。
「……脈が、止まりました!」
医女の叫びが、手術室に凍りついた。
大妃の顔から血気が引き、唇が紫色に変わっていく。医官たちは腰を抜かし、祈りを捧げ始めた。だが、クァンヒョンだけは諦めなかった。
「……まだだ。まだ、行かせてたまるか!」
クァンヒョンは、師匠キム・ジャジョムやコ・ジュマンから学んだすべての知識を総動員した。彼は蘇生の急所である「人中」に深く鍼を打ち込み、同時に両手で大妃の胸を力強く、一定のリズムで圧迫し始めた。
「戻ってきてください、大妃様! この国には、貴女の慈悲が必要だ!」
その必死の叫びと、絶え間ない心臓への刺激。
数分間の死闘の末……大妃の喉から、微かな、しかし確かな呼吸の音が漏れた。
「……脈、戻りました! 脈が戻りました!」
クァンヒョンの額から、滝のような汗が流れ落ちた。
その頃、都を抜け出し、雪深い山中の民家に身を隠していたイ・ミョンファンは、極限の孤独の中にいた。
権力、富、名誉……彼が一生をかけて積み上げてきた砂の城は、一瞬にして崩れ去った。残されたのは、冷たい風の音と、追手の足音を恐れる震えだけだった。
「……父上」
背後で聞こえた懐かしい声に、ミョンファンは肩を震わせた。
そこには、官婢の姿になったチニョンが立っていた。
「……チニョンか。その格好は、一体……」
「これが、私の本当の姿です。父上が作り上げた偽りの世界は、もう終わりました」
ミョンファンは、震える手でチニョンの頬に触れようとして、その汚れに気づき手を引っ込めた。
「……私は、お前を名門の令嬢として育てた。私のすべてを継がせるつもりだったのだ。なぜ、それを自ら捨てる……!」
「父上。貴方が私を愛してくれたことは、嘘ではないと信じています。……でも、その愛は、多くの人の犠牲の上に成り立つ毒でした。私は、ヨンダルの父親を、そしてヨンダル自身の人生を奪った貴方の罪を、一生かけて償います」
チニョンの瞳には、憎しみではなく、深い悲しみと憐れみが宿っていた。
「……父上。逃げるのはもうお止めください。今ならまだ、人として死ぬことができます」
ミョンファンは、その言葉に崩れ落ちた。自分の育てた「光」が、自分という「闇」を照らし出していることに、ようやく気づいたのだ。
山小屋を後にしたチニョンは、雪の中に跪き、王宮の方角を見つめた。
そこには、今も命と戦っているであろうクァンがいる。
(クァン……。貴方は、命を救ってください。私は、罪を背負います。私たちは、別々の道を歩むことになるけれど……心は、あの穴蔵で手を繋いだ時のままです)
王宮では、大妃の手術が成功し、縫合が完了しようとしていた。
クァンは、自分の手が血で染まっているのを見つめ、静かに呟いた。
「……チニョン様。俺は、生かしましたよ。……だから、貴女もどうか、生きてください」
雪が、二人の運命を白く塗りつぶしていく。
夜明けは近い。しかし、その夜明けは、二人にこれまでにない過酷な「審判」をもたらそうとしていた。




