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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第2部

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第43話

【1591年 冬・漢陽 仁宣大妃の寝所から、運命の謁見へ】


 王宮の空気は、凍りつくような緊張感に支配されていた。

 仁宣インソン大妃の容態は、一刻の猶予も許さない段階に達していた。腹部に溜まった膿が全身に毒を回し、高熱と激痛が大妃の体力を奪い続けていた。

「王様……。私は、あの男の治療は受けませぬ……。馬医上がりの賤民に、この身を、王室の尊厳を委ねるくらいなら……私はこのまま、静かに死を選びます」

 意識が朦朧としながらも、大妃はクァンの接近を拒み続けた。顕宗は苦悩に顔を歪める。ミョンファンが長年植え付けてきた「身分こそが絶対である」という価値観が、今、大妃自身の命を締め上げようとしていた。


 寝所の外で控えていたクァンは、何もできずに立ち尽くしていた。

 どれほど優れたメスを持っていても、患者が心を閉ざせば、それはただの刃物に過ぎない。

「……チニョン様。俺は、やはり『馬医』でしかないのでしょうか」

 クァンの弱気な言葉に、傍らにいたチニョンの瞳には、深い哀しみと、それを上回る猛烈な決意が宿った。

 彼女は知っている。クァンがどれほどの屈辱に耐え、どれほどの研鑽を積んできたか。そして、その名前も、地位も、すべては自分が「奪ってしまった」ものであることを。

(……もう、嘘はつかない。貴方が守ろうとしてくれた私の人生を、私は今、貴方のために捨てます)

第三章:衝撃の告白

 チニョンは、顕宗の制止を振り切り、大妃の寝所へと足を踏み入れた。

 そこには、死の影が色濃く漂う大妃が横たわっている。

「大妃様! お聞きください! ……今、外で控えているペク・クァンヒョン医官は、賤民などではありません!」

 チニョンの叫びに、その場の全員が息を呑んだ。

「……何を申す、チニョン。其方は正気を失ったのか」

 顕宗が咎めるが、チニョンの言葉は止まらない。

「あの方は……十二年前に謀反の罪を着せられ、無念の死を遂げた名医、カン・ドジュン様の正統なる嫡男です! ……そして、卑しい奴婢の子として生まれるはずだったのは、この私なのです!」


 静寂が、寝所を包んだ。

 チニョンは床に額を擦り付け、涙ながらに続けた。

「私の父、ペク・ソックが、カン家の血筋を守るために……生まれたばかりの私とあの方を入れ替えました。私は十二年間、あの方の名前と人生を盗んで生きてきたのです」

 大妃の目が、驚愕で見開かれた。

 ミョンファンが「卑しい馬医」と蔑んでいた男が、かつての親友であり、自分がその死を惜しんだカン・ドジュンの息子。そして、目の前で「令嬢」として慈しんできたチニョンが、実は奴婢の娘。

「……では、あの方が……ドジュンの……?」

「はい。あの方の手にあるのは、獣を診るための技術ではありません。父カン・ドジュンから受け継ぎ、苦難の中で磨き上げた、真実の医術なのです!」

第五章:再生への執刀

 チニョンの告白は、王宮を、そして大妃の頑なな心をも揺さぶった。

 身分という盾を失ったチニョンの姿に、大妃は「命の重み」の本質を突きつけられたのだ。

「……王様……。その男を、呼びなさい。……ドジュンの息子に、私の命を……」

 大妃の許しが出た。

 クァンは、入室する際にチニョンの横を通り過ぎた。彼女は涙に濡れた顔で微笑んでいた。その笑顔は、「すべてを失い、ようやく自由になれた」という、美しくも悲しい解放の光だった。

 クァンは、震える手を一瞬だけ握りしめ、すぐに医師の目に戻った。

「……お任せください。大妃様。……必ず、お救いいたします」

 クァンのメスが、大妃の皮膚に当てられる。

 それはもはや馬医の外科手術ではない。十二年の時を経て、名門カン家の誇りを取り戻した「神医」による、運命を切り拓くための執刀であった。

 外では、雪が激しく降り始めていた。

 ミョンファンの築き上げた「偽りの帝国」が、チニョンの捨て身の告白によって、音を立てて崩れようとしていた。

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