第42話
【1590年 冬・漢陽 司憲府の牢獄から、雪の降り始めた都へ】
司憲府によるミョンファンへの追及が本格化する中、クァンの心は千々に乱れていた。
「……イ・ミョンファンを倒せば、チニョン様はすべてを失う。彼女をこの地獄に巻き込んではならない」
クァンは、湯治場へ向かうヨジョン王女の護衛という名目で、チニョンを漢陽から連れ出すよう手配した。
「チニョン様、しばらく都を離れてください。貴女には、安らぎが必要です」
クァンの穏やかな、しかしどこか「永遠の別れ」を予感させる瞳。チニョンはその言葉に従い馬車に乗ったが、胸に広がる不安は消えなかった。
(……クァンさんは、何かを隠している。私を救うために、自分一人で燃え盛る火の中に飛び込もうとしている……)
湯治場へ向かう道中、チニョンは決断した。
「……ごめんなさい、王女様。私は行かなければならない場所があります」
彼女は誰にも告げず、夜の闇に紛れて漢陽へと引き返した。
都は、ミョンファンの不正と十二年前の陰謀の噂で持ちきりだった。
チニョンは、父ソックの古い友人であり、クァンの姉代わりでもあるクネの居所を突き止める。クネなら、クァンが何を背負い、何を守ろうとしているのかを知っているはずだ。
「クネさん! お願い、本当のことを教えて。なぜクァンさんはあんなに急いで私を遠ざけたの? 私の知らない『真実』とは何なの!?」
クネは、チニョンの必死な表情を見て、もはや隠し通すことはできないと悟った。
「……チニョン様。貴女は、あの子……クァンがどれほどの思いで、この十二年を生きてきたか、ご存知ですか?」
クネの瞳から涙がこぼれ落ちる。
「貴女の本当のお父様は……ペク・ソック様ではありません。……そして、ペク・クァンヒョンの本当のお父様も、馬医ではありません」
チニョンの時が止まった。耳に届く言葉が、意味をなさない。
「あの日、謀反の濡れ衣を着せられたカン・ドジュン様を救うため、そして、その血筋を絶やさないために……ソック様は、自分の娘である貴女と、カン家の息子であるクァンヒョンを、入れ替えたのです」
足元の地面が崩れ去るような衝撃。
チニョンが「父」と信じてきたミョンファンは、自分の実父を殺した仇であり、自分が享受してきた「両班の令嬢」としての地位は、本来クァンのものであるはずのものだった。
「……では、クァンさんは、すべてを知りながら……私のために、自分の名前も、身分も、捨てていたというの?」
「そうです。あの子は、貴女が『卑しい奴婢の娘』として苦しむのを、死んでも見たくなかった。だから、自分一人が馬医として蔑まれ、命を狙われても、笑っていたのです」
チニョンは、雪の降り始めた漢陽の街へ飛び出した。
脳裏に浮かぶのは、清国へ発つ前のクァンの笑顔、王宮で再会した時の深い慈愛。彼は、真実を武器にして自分を救うこともできたはずなのに、その武器で彼女を傷つけることを拒み続けた。
チニョンが辿り着いたのは、司憲府の裏手にある、クァンが一人で証拠を整理していた小さな書庫だった。
扉を開けると、そこには、かつての「ヨンダル」と「クァン」が穴蔵で交わした藁の履物が、大切に置かれていた。
「……クァンさん……!」
振り返ったクァンの顔に、驚愕と、そして隠しきれない悲しみが走った。
「……チニョン様、なぜここに……。湯治場へ行かれたはずでは……」
チニョンは、言葉を失い、ただ彼の胸に顔を埋めて泣き崩れた。
「……馬鹿な人。どうして、自分だけが傷つく道を選んだの? どうして、私に嘘をつき続けたの……。私は、貴方の名前を奪って生きてきたのに!」
クァンは、震える手で彼女の肩を抱き寄せた。
「……いいえ。貴女が笑っていてくれることが、俺の人生の唯一の光でした。名前なんて、地位なんて、貴女の涙一粒の重さにも満たない」
二人の頭上に、冷たい雪が降り積もる。
ミョンファンを断罪すれば、チニョンは「罪人の娘」になる。しかし、真実を隠せば、正義は永遠に失われる。
運命の天秤は、あまりにも過酷な重みを増し、二人の魂を激しく揺さぶり始めていた。




