第41話
【1590年 秋・漢陽 司憲府の訊問場から、闇の密談室へ】
深い霧に包まれた漢陽の隠れ家。
クァンは、卓の上に置かれた分厚い封書を見つめていた。そこには養父ペク・ソックが濡れ衣を着せられ、実父カン・ドジュンが命を落とした、あの忌まわしい夜のすべてが記されている。
「……これを、司憲府へ。俺の名前ではなく、匿名の投書として出してください」
向き合うソンハの顔は、苦悩で歪んでいた。
「クァン、なぜだ。君が自ら名乗り出れば、カン家は再興され、君は正当な両班として迎えられるはずだ」
「……それでは、チニョン様が傷つきます」
クァンの声は静かだが、鋼のような決意が宿っていた。
「真実が白日の下に晒されれば、彼女はすべてを失う。俺は、彼女に『罪人の娘』という重荷を背負わせたくない。……ソンハ様、貴方にしか頼めないのです。彼女を守りながら、悪を裁く道を」
ソンハは、震える手で封書を握りしめた。それは、自らの父イ・ミョンファンを死罪に追い込む、血塗られた親不孝の招待状でもあった。
数日後、漢陽を激震が走った。
厳格な法執行機関である司憲府が、現職の内医院院長イ・ミョンファンと、実力者である重臣ソンジョを召喚したのだ。
「十二年前の謀反事件における、証拠捏造と偽証の疑いである。……両名、申し開きをせよ」
訊問場に引き出された二人は、余裕を崩さなかった。
「……投書などという、出所の分からぬ落書きで、国を支える重臣を疑うとは。司憲府も地に落ちたものだ」
ミョンファンは冷笑し、ソンジョもまた鼻で笑った。
「証拠などあるはずがない。当時の関係者は、皆死んでいるのだからな」
しかし、訊問の中断中、控室で二人の関係は急速に冷え切っていった。
ソンジョは、司憲府が握っている「投書」の精密さに恐怖を感じていた。
「……ミョンファン、これはまずい。もし私の名がこれ以上出れば、私はお前を切り捨てるしかない。すべては、お前が仕組んだことだと証言させてもらう」
裏切りを予感していたミョンファンの瞳に、暗い炎が宿った。
「……ソンジョ様、忘れたのですか? あの時、カン・ドジュンに最後の一撃を加えるよう命じたのは、どこの誰だったか。……私は、貴方が私に書かせた『暗殺の密書』を、今も肌身離さず持っておりますよ」
ミョンファンの脅迫に、ソンジョの顔が青ざめる。
「貴方が私を見捨てるなら、私も貴方を地獄へ道連れにする。……私たちは、同じ毒を飲んだ穴の狢なのです」
悪人たちの絆は、利益が消えた瞬間、互いを食い荒らす毒牙へと変わった。
再び始まった訊問。
互いになすりつけ合い、否定を続ける二人の前に、司憲府の長官が重々しく宣言した。
「……否定し続けるか。よかろう。ならば、この投書の主が提示した『最後の証人』に入ってもらうことにする」
重い扉がゆっくりと開く。
ミョンファンは「どうせ、生き残りの下男か何かだろう」と高を括っていた。だが、そこに現れた影を見て、彼の心臓は凍りついた。
現れたのは、クァンがかつて清国から連れ帰り、密かに匿っていた、当時の事件の「生き証人」――かつてカン・ドジュンを告発した際に利用され、消されたはずの役人であった。
そして、その背後から、笠を脱ぎ捨てたペク・クァンヒョンが、堂々と姿を現した。
「……イ・ミョンファン院長。そして、ソンジョ様。……お久しぶりです」
クァンの瞳には、もはや逃亡者の影はなかった。
「貴方たちが葬り去ったはずの真実は、死にませんでした。……養父ペク・ソックが守り抜き、師匠コ・ジュマンが命を懸けて繋いだこの記録が、今日、貴方たちの罪を裁きます」
クァンが突き出したのは、投書には書かれていなかった「決定的な物証」――ミョンファンが当時、自らの手を汚した際に返り血を浴びた「衣の断片」だった。それは、ペク・ソックが死ぬ間際まで、いつか息子が戦う日のために隠し持っていた遺品だった。
「……あり得ぬ……、そんなはずは……!」
崩れ落ちるミョンファン。
その時、訊問場の物陰で、すべてを聞いてしまった人影があった。
それは、クァンを案じて密かに忍び込んでいた、チニョンだった。
彼女は、自分が「愛する人の父を死に追いやった男の娘」であるという、残酷すぎる真実の前に、音もなく涙を流した。
ついに始まった、血の清算。
クァンの戦いは、復讐の終焉ではなく、愛する人々を巻き込む、さらなる激動の渦へと突入しようとしていた。




