第40話
【1590年 秋・漢陽 疫病に沈む都から王女の寝所へ】
漢陽の街は、死の静寂に包まれていた。
路地には痘瘡に倒れた民が溢れ、内医院の医官たちですら感染を恐れて足を踏み入れようとしない。その中で、ペク・クァンヒョンだけは不眠不休で患者たちと向き合っていた。
「……斑点そのものを消すことはできない。だが、命を奪うのは『熱』と、この『呼吸の乱れ』だ」
クァンは、ある一人の患者の症状が、特定の腫気を抑えることで劇的に改善したことに気づく。彼は「全身」を治そうとする既存の医学を捨て、命に直結する「一症」を叩く治療法を確立。次々と民を救い始め、暗雲に一筋の光を差した。
しかし、運命は残酷だった。
誰よりもクァンの成功を祈っていたヨジョン王女の妹、スッキ王女の容態が急変する。彼女の喉の奥に、痘瘡特有の巨大な腫気が発生したのだ。
「……クァン……様。……いき、が……」
王女の白い喉が、内側からせり上がる腫気によって塞がれようとしていた。
クァンは愕然とした。民を救った処方が、王女には効かない。
喉は無数の血管と神経が走る「急所中の急所」。メスを入れる隙間もなく、薬を飲み込むことすらできない。
「……薬が届かない。切開もできない。俺は、また……目の前の命を失うのか!」
絶望に拳を震わせるクァンの前に、冷たい影が差した。
「……無様だな、ペク・クァン。お前の『仁術』では、喉一本すら開けられぬか」
現れたのは、チェ・ヒョンウクだった。彼の瞳には、命を救う熱意など微塵もなく、ただ「難題を解く」という狂気だけが宿っていた。
ヒョンウクは、ミョンファンを伴って仁宣大妃の御前に向かった。
「大妃様。ペク医官は諦めました。しかし、私には方法があります。……『治腫指南』に記された、喉の奥にある呼吸の道――『気門』を直接穿つ術です」
ミョンファンが横から畳みかける。
「このチェ医官は、清国でこれに似た症例を数多救ってきました。王女様を救えるのは、今やこの男しかおりませぬ!」
娘の死を目前にした仁宣大妃に、もはや迷う余地はなかった。
「……クァンヒョンよ。其方を信じたいが、其方は『打つ手がない』と言った。……ならば、この男に任せるしかない」
大妃の冷徹な宣告。クァンは王女の寝所から引きずり出される。
クァンは、ヒョンウクの背中に叫んだ。
「……待て! お前のやろうとしていることは、医術ではない! 成功確率の低い賭けに、王女様の命を使うつもりか!」
ヒョンウクは、歩みを止めずに振り返った。
「……賭け? 違うな。これは『検証』だ。……死ぬか生きるか、その境界線で命がどう動くか。お前のような情に流される医師には、一生見えぬ景色だよ」
第五章:嵐の前夜の誓い
王女の寝所には、不気味な手術道具が運び込まれる。
ヒョンウクの手には、鋭く、しかし歪な形の特注の針が握られていた。
一方、クァンは雨に打たれながら、キム道人とクネに詰め寄った。
「……師匠! 本当に他に方法はないのですか! あいつの手にかかれば、王女様は……!」
キムは、静かに酒を煽り、クァンの目を見据えた。
「……クァンよ。あいつが持っている『治腫指南』は、毒だ。だが、その毒の中には、お前がまだ知らない『真理』の破片が混ざっているのも事実だ」
「……真理?」
「喉を切らずに、命を繋ぐ道だ。……よく考えろ。お前が馬医だった頃、喉を詰まらせた馬をどう救った?」
クァンの脳裏に、激流のような記憶が走る。
泥にまみれ、獣たちの咆哮を聞き、ただ「生かしたい」という一心で手を動かした日々。
「……そうだ。……まだ、道はある!」
王宮の廊下を、クァンが駆け出す。
ヒョンウクが王女の喉に針を突き立てようとした、その瞬間。
「……待ってください! その術よりも、確実に救える方法を見つけました!」
光の医術と、闇の医術。
スッキ王女の細い命の糸を巡り、二人の天才による「究極の対決」が、いま火蓋を切った。




