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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第2部

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第38話

【1590年 秋・漢陽 世子の東宮殿から内医院の暗室へ】


 世子の顔面から噴き出す鮮血。拭っても拭っても、紅い奔流は止まらない。

 見守る医官たちの顔が絶望に染まり、ミョンファンが勝利の笑みを隠しきれなくなったその時、クァンの脳裏に、今は亡き恩師コ・ジュマンの穏やかな声が響いた。

(……クァンよ。目に見える血管がすべてではない。命の川は、目に見えぬ「経絡」と「脈」が交差する場所にこそ、真のせきがあるのだ)

「……これだ!」

 クァンは震える指で、もっとも細い「銀鍼」を手に取った。

 彼は血管を縛るのではなく、その周囲の経穴を三角形に囲むように三本の鍼を打ち込んだ。それは、師がかつて「人には使うな」と封印した、血の流れを一時的に完全に停止させる禁断の技。

 

 奇跡が起きた。あれほど激しかった出血が、吸い込まれるように止まったのだ。

「……縫合を始めます」

 クァンの落ち着いた声が、死の静寂に包まれていた東宮殿に、再び生命の脈動を呼び戻した。

 手術は無事に終了した。しかし、クァンに安息の時は与えられない。

「……世子様の呼吸が、浅い。それに、この指先の震えは……」

 手術後の最大の敵、破傷風。クァンが自らの腕を実験台にして開発した治療法を即座に施すが、世子の幼い体はその強力な薬の「毒性」に拒絶反応を示してしまう。

「残る手立ては……あの煎じ薬だけか」

 キム道人が重い口を開いた。

 それは、失われた古書に記された、特定の薬草を複雑な順序で煮出す「幻の処方」。だが、そこには一つ、致命的な難題があった。

「……材料の一つである『氷雪草』は、この時期、北方の極寒の地にしか自生しない。都に届くまでに、世子様の命が尽きてしまう」

 その頃、ミョンファンの私邸。

 薄暗い部屋で、ミョンファンは目の前の男を凝視していた。

「……其方が、あの『人斬り医師』と恐れられた、チェ・ヒョンウクか」

 男は不敵に笑い、酒を呷った。

「コ・ジュマン……あの頑固者の弟子が、世子の顔を弄くったそうだな。だが、奴は肝心なことを分かっていない。……破傷風は『外』から治すものではない。脳の奥に巣食う『毒の芽』を摘まねば、必ず死ぬ」

 ヒョンウクは、かつてコ・ジュマンと共に医学を志した天才だった。しかし、生きた人間を切り刻んで解剖し、禁忌の知識を求めたがゆえに破門され、闇へと堕ちた男。

「ミョンファン院長。俺は、クァンが逆立ちしても思いつかない『破傷風の封じ方』を知っている。……俺を宮廷に入れろ。そうすれば、クァンを『無能な人殺し』に仕立て上げ、貴公を再び救世主に昇格させてやる」

 クァンは、北方の薬草を待つ時間はないと判断した。

「……代わりの薬草を探します。性質が似ていれば、配合の比率を変えることで補えるはずです」

 彼は内医院の膨大な薬棚をひっくり返し、一滴、一ミリ単位での調合を繰り返した。

 失敗すれば、即座に世子の心臓を止める猛毒に変わる。

「クァン、もう三日も眠っていない。少しは休め」

 チニョンが心配そうに声をかけるが、クァンの瞳は血走っていた。

「……いいえ。師匠が信じてくれたこの手を、俺は信じ抜かなければならない。……必ず、命の答えを見つけてみせる」

 その時、世子の容態が急変したという知らせが入る。

 顎の強直が始まり、呼吸が止まりかけていた。

 東宮殿に駆けつけたクァンの前に、思わぬ人物が立ちはだかった。

 ミョンファンに伴われ、新しい「特別医官」として現れたチェ・ヒョンウクだった。

「……どけ、若造。お前の未熟な外科が、尊い命を穢したのだ。ここからは、真の『医学』を見せてやる」

 クァンは、ヒョンウクの放つ異様な「死の気配」に戦慄した。この男は、人を救うために医学を学んだのではない。命を支配するために、医学という刃を研いできたのだ。

「……貴方は、誰だ」

「お前の師、コ・ジュマンを最も憎み、そして最も超えた男だ」

 ヒョンウクの手には、見たこともない奇妙な「黒い鍼」が握られていた。

 世子の命を巡る、光の医道と闇の医道の正面衝突。

 

 クァンは、自ら調合した「未完成の薬」と、目の前の「闇の知恵」の間で、究極の選択を迫られることになる。

「……俺は、逃げない。……師匠が守り抜いたこの国の医学を、貴方のような怪物に渡すわけにはいかない!」

 窓の外では、冷たい秋の雨が降り始めていた。

 ペク・クァンヒョンの、真の実力が試される「試練の夜」が幕を開ける。

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