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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第2部

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第36話

【1590年 秋・漢陽 王宮正殿から思い出の穴蔵へ】


「……面を上げよ。其方は本当に、あの時海に消えたペク・クァンヒョンなのか」

 顕宗ヒョンジョンの声が、静まり返った正殿に震えて響いた。

 目の前に跪く男は、もはやかつての粗野な馬医ではない。清国皇帝から授かった、気品と風格を湛えた真の医師の姿だった。

「はい、王様。……罪人ペク・クァン、死の淵より戻ってまいりました」

 ミョンファンが、狂ったように叫ぶ。

「王様! 騙されてはなりませぬ! こやつは流刑の身で逃亡した大罪人。清国の威光を借りて、我が国の法を愚弄しているのです。即刻、処刑すべきです!」

 その言葉に、クァンは静かに懐から一通の書状を取り出した。

「……これは、亡きコ・ジュマン首医様が、最期に私に託されたものです」

 それは、破傷風に侵されたコ・ジュマンが、震える手で書き残した「血の遺言」だった。

『王様、ペク・クァンに罪はありません。彼は、私が果たせなかった「人を救うための外科」を完成させる唯一の希望です。どうか、彼を殺さず、この国の民を救うためのメスとして生かしてください……』

 顕宗の瞳に、涙が滲んだ。敬愛した師の、命を削った最後の上奏。

「……ミョンファン院長。其方は『医術に階級がある』と言った。だが、コ・ジュマン首医は『医術に命の重みの差はない』と説かれた。私は、どちらの言葉を信じるべきか、三年前から知っていたのだ」

 顕宗は立ち上がり、力強く宣言した。

「ペク・クァン! 其方の過去の罪をすべて赦免し、ここに内医院ネイウォンの医官として任ずる。清国で得た知見を使い、この国の病める民を救え。……これが、余と、そして亡き師の命令である!」

 赦免の言葉が下った瞬間、正殿に安堵と驚愕の声が交錯した。

 ミョンファンは足の力が抜け、その場に崩れ落ちた。清国での手柄を奪い、死人として葬り去ろうとしたクァンが、今や「王の直属」として、自分と対等の、いや、清国の後ろ盾を持つそれ以上の存在として帰還したのだ。

 クァンは、すれ違いざまにミョンファンを冷たく見下ろした。

「……院長。まだ、始まったばかりです。貴方が汚したこの国の医術、俺がすべて洗い流してみせます」

 それは復讐の宣言ではなく、正義の宣戦布告だった。

 その夜。クァンは王宮の喧騒を離れ、思い出の場所へと向かった。

 十二年前、少年と少女として出会い、互いの名を交換した、あの古びた穴蔵。

 そこには、一人の女性が立っていた。

「……チニョン様」

 クァンの震える声に、彼女がゆっくりと振り返った。

 三年の月日は、彼女を強く、美しい医女へと変えていた。だが、その瞳に宿る温もりだけは、あの日のままだった。

「……本当に、貴方なのね。夢じゃないのね、ヨンダル」

 チニョンは、こらえきれずに駆け寄り、クァンの胸に飛び込んだ。

 クァンはその小さな体を、壊れ物を扱うように、しかし決して離さないという固い意志を込めて抱きしめた。

「……遅くなって、すみません。……ずっと、この手を握りたかった。貴方を、もう一度お嬢様ではなく、チニョンと呼びたかった」

「いいえ……生きていてくれただけでいい。私のそばに、戻ってきてくれただけで……」

 二人は、月明かりの下で、三年前のあの船着場で交わせなかった言葉を紡ぎ合った。

 クァンは、彼女の指先に、清国で肌身離さず持っていた「鍼箱」を握らせた。

「これからは、もう一人ではありません。二人で、師匠が夢見た世界を作りましょう」

 漢陽の夜風が、二人の再会を祝うように優しく吹き抜ける。

 クァンの帰還は、単なる生き残りの物語ではない。

 それは、愛する人を守り抜き、失われた正義を取り戻すための、真実の逆転劇の始まりであった。

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