第35話
【1590年 秋・漢陽 王宮の正殿から歓迎の宴へ】
「……これが、施療庁が『死を待つのみ』と断じた男の姿か」
顕宗は、目の前に立つオ・ギュテの姿に愕然としていた。
片脚を失いながらも、その顔色は艶に満ち、声には力強い張りが戻っている。ミョンファンが「不治の呪い」と呼んだ病を、名もなき医師が外科手術という「神業」でねじ伏せた事実は、もはや誰の目にも明らかだった。
「ミョンファン院長。其方は、私に嘘を吐いたのか?」
王の冷徹な問いに、ミョンファンの背中を冷や汗が伝う。
「……滅相もございません。ただ、あの男が用いたのは妖術に等しい野蛮な術。一時的に命を繋いでも、いずれ……」
言い逃れを続けるミョンファンに対し、顕宗の心は完全に離れていた。王は密かに義禁府を動かし、施療庁が私腹を肥やしてきた不正の徹底調査を命じる。
その頃、治腫院の奥で、チニョンは一枚の紙を握りしめて震えていた。
それは、オ・ギュテの屋敷に残されていた、あの日、脚の切断を成功させた医師の処方箋だった。
「この筆跡……この、墨の払い方……」
チニョンの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。
それは十二年前、穴蔵で出会った少年が、そして三年前、自分の身代わりとなって海へ消えた男が、大切に育んできた「命を救うための文字」だった。
「……クァンさん。貴方なのね。……生きて、帰ってきてくれたのね」
彼女は、彼がすぐそばにいることを確信した。そして、彼が名乗らずに戦っている理由――ミョンファンの偽りの権威を、医学の真実をもって完全に叩き潰そうとしている彼の「魂の執念」を理解した。
漢陽の街が騒がしくなる中、ついに清国からの使節団が到着した。
ミョンファンは、この機会を最後の逆転のチャンスと考えていた。清国で皇妃を救った「功績」を盾に、皇帝の威光を借りて自らの地位を確固たるものにしようと目論んだのだ。
王宮で開催された盛大な歓迎の宴。
清国の特使は、顕宗の隣に座り、恭しく酒を酌み交わす。
ミョンファンは誇らしげに特使の前に進み出た。
「特使閣下。北京では、皇妃様の治療に微力を尽くさせていただきました。こうして再びお会いできて光栄に存じます」
ミョンファンの言葉に、特使は薄く笑みを浮かべた。
「ああ、イ・ミョンファン院長。確かに貴公には感謝している。……だが、今日ここに参ったのは、別の理由があるのだ」
宴の場に、一瞬の静寂が流れる。特使は、懐から黄金の筒を取り出し、高く掲げた。
「わが清国の皇帝陛下は、朝鮮の王に対し、一人の比類なき医師の功績を称えるよう親書を託された。……皇妃の命を、文字通り死の淵から救い出し、皇帝の恩赦を勝ち取った真の『神医』。……感謝されるべき者は、他にいる」
ミョンファンの顔が、瞬時に土色に変わった。
「……特使閣下、何を……。それは、私が行った処置のことでは……」
「黙れ。其方はただ、最後に薬を処方したに過ぎぬ。……入ってまいれ、ペク・クァン!」
重厚な扉が開く。
そこには、笠を脱ぎ捨て、清国皇帝から贈られた最高級の官服を身に纏った一人の男が立っていた。
三年の放浪を経て、その瞳にはかつての「馬医」の野性と、数千の命を救ってきた「聖医」の慈愛が共存していた。
「……ペク、クァン……」
顕宗が声を震わせ、ミョンファンは腰を抜かして床に崩れ落ちた。
そして、宴の隅で医女として控えていたチニョンの時間が、止まった。
クァンは、誰に目もくれず、真っ直ぐに王の前に進み出た。
「……罪人ペク・クァン。恩師コ・ジュマン首医の遺志を継ぎ、いま、真実の医道をもって帰還いたしました」
クァンの声が、正殿に響き渡る。
その瞬間、チニョンの瞳から再び涙が溢れた。二人の視線が交差する。
三年前の別れ。海に響いた慟哭。
それらすべてを乗り越え、いま、二人の魂は「医術」という最強の盾を持って、再び一つになった。
ミョンファンを見下ろすクァンの瞳には、冷徹なまでの「正義」が宿っていた。
「イ・ミョンファン。貴方が奪ったものは、すべて俺が取り返す。……命を懸けてな」
ついに始まった、ペク・クァンの「最終決戦」。
それは、過去の汚名を晴らす復讐劇ではなく、朝鮮の医学を闇から救い出す、真の救済の物語であった。




