第34話
【1590年 秋・漢陽 前右議政オ・ギュテの邸宅】
秋の冷気が漢陽を包み込む中、政界の巨星、オ・ギュテが病に伏した。
その病名は「脱疽」。足先から黒く変色し、肉が腐り落ち、耐え難い悪臭を放ちながら死に至る絶望の病だ。
顕宗から治療を一任されたミョンファンは、施療庁の総力を挙げて高価な薬を投じたが、病魔の進撃を止めることはできなかった。
「……もはや、天命を待つしかございませぬ。骨まで腐ったものを繋ぎ止める術はないのです」
ミョンファンは、自らの保身のために「不治の病」として見捨てた。
絶望に暮れるオ・ギュテの息子のもとに、ある噂が届く。
「都の場末に、施療庁が見捨てた命を次々と救う『影の医師』がいる」
藁をも掴む思いで息子が連れてきたのは、深い笠で顔を隠した男――ペク・クァンだった。
クァンは、腐敗したオ・ギュテの脚を一瞥しただけで言い放った。
「……明日には膝まで黒ずみが広がり、明後日には高熱で意識を失うでしょう。そして三日目には、心臓が止まる」
息子は激昂した。「無礼な! 父上を呪う気か!」
「呪いではありません。これは現実です。……この命を救う道は、ただ一つ。腐った部分を、脚ごと切り落とすことです」
「五体を損なうなど、士大夫の家門に対する冒涜だ!」
クァンは塩を撒かれるように追い出された。しかし、その瞳には「まだ救える」という強い光が残っていた。
事態は、クァンの言葉通りに動いた。
翌日、黒い影は膝を浸食し、オ・ギュテは激痛に悶えながら意識を混濁させた。ミョンファンが匙を投げたその瞬間、オ・ギュテは掠れた声で息子を呼んだ。
「……あの男を、呼べ……。脚を失っても……私はまだ、この国のために成すべきことがある……」
再び呼び戻されたクァンは、サアム道人とクネを伴い、屋敷の広間を即席の手術場へと変えた。
そこに、父の誤診を挽回しようと焦るミョンファンが兵を連れて乱入する。
「狂ったか! 人の脚を切断するなど、獣の処置だ! 殺人と同義である!」
「……死を待つのが『医』であるなら、俺は獣で構わない」
クァンは笠を脱ぎ捨て、ミョンファンを真っ向から見据えた。
「イ・ミョンファン院長。貴方が見捨てた命を、俺が拾ってみせる。……貴方のその、汚れきった医術の代わりに!」
手術が始まった。
キムが独自の鍼を打ち、オ・ギュテの感覚を麻痺させる。
クァンの指先には、清国での三年間で研ぎ澄まされた「命の境界線」が見えていた。どこまでが死んだ肉で、どこからが生きた血が通っているのか。
鋭いメスが肉を裂き、特殊な鋸が骨を断つ。
広間に響く鈍い音に、周囲の医官たちは吐き気を催し、目を背けた。しかし、クァンの眼差しは一点の迷いもなかった。
(……師匠。俺は、骨を削ることを恐れません。それが、明日への道であるならば!)
溢れ出す鮮血をクネが必死に抑え、クァンは血管の一本一本を素早く結紮していく。それは、かつて馬の蹄を整えた時のような、迷いのない「職人」の動きであった。
数刻後。
手術を終えたクァンは、血に染まった手を洗い、静かに部屋を出た。
翌朝、絶望視されていたオ・ギュテが、穏やかな呼吸と共に目を覚ました。
「……脚が、軽い。……痛みが、消えている」
漢陽の街に、衝撃が走った。
ミョンファンが見捨てた右議政を、謎の医師が「脚を切り落として」救ったというニュースは、瞬く間に王宮へ、そしてチニョンのもとへと届く。
「……脚を切断して救った? まさか、そんな……」
チニョンは、かつてクァンが「骨を削って師匠を救おうとした」あの日を思い出し、震える手で薬箱を握りしめた。
一方、クァンはオ・ギュテの屋敷の門前に立ち、朝焼けを見つめていた。
その背後で、サアム道人がニヤリと笑う。
「さあ、クァン。これで天下に名が売れた。……ヘビの頭が、尻尾を巻いて逃げ出す準備を始めるぞ」
クァンの復讐は、怨念ではなく「命の救済」という形で、ついにその牙を剥き始めた。




