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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第2部

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第33話

【1590年 秋・漢陽 貧民街の片隅】


 三年の月日が流れた漢陽ハニャンは、一見、活気に満ちているように見えた。だが、その実態はイ・ミョンファンによる「医術の私物化」に塗りつぶされていた。

 ミョンファンは「施療庁セリョチョン」を設立し、最新の医療を謳いながらも、その門を叩けるのは金を持つ権力者のみ。難病を抱えた貧民たちは「汚らわしい」と門前払いを食らっていた。

 対照的に、カン・チニョンは父ソックが命を懸けて守りたかった精神を継ぎ、「治腫院チジョンウォン」という小さな診療施設を運営していた。

「……薬が足りないわ。でも、あきらめないで。必ず、道はあるはずよ」

 彼女の瞳には、かつてのクァンが持っていた「命への執念」が宿っていた。しかし、ミョンファンはその存在を苦々しく思い、徐々に包囲網を狭めていた。


 その頃、都の場末にある廃屋。そこには、深い笠を被り、素顔を隠して暮らす一人の男がいた。

「……この脈、ミョンファンが処方した強精剤の副作用か。毒を薬と偽って売っているな」

 男――ペク・クァンは、施療庁が見捨てた浮浪者や貧民の体を、影の中から診察していた。

 キム道人とクネは、クァンに「早くチニョンに会いに行け」と促す。しかし、クァンは首を振った。

「……今の俺が行っても、彼女に再び苦難を背負わせるだけだ。まずは、ミョンファンのやり方が、医師として、人間として間違っていることを、白日の下に晒さなければならない。……それが、師匠への本当の弔いになる」

 クァンは、清国で得た莫大な報奨金も、皇帝の勅書も、すべて懐に隠したまま、一人の「無名の町医者」として戦いを始めた。

 ミョンファンは、チニョンを社会的に抹殺するため、彼女が関わっているとされる「薬契ヤッケ」の弾圧を名目に、兵を動かした。薬契とは、高価な薬を買えない民のために、秘密裏に安価な薬を流通させる組織だ。

「チニョンを捕らえよ。抵抗する者は容赦するな」

 ミョンファンの冷徹な命令が下される。

 その知らせをいち早く耳にしたのは、ミョンファンの息子であり、誰よりもチニョンを愛するイ・ソンハだった。

「父上……なぜ、そこまで……!」

 ソンハは絶望に打ちひしがれながらも、馬を走らせた。彼女を救えるのは、自分しかいない。

 治腫院を包囲する兵たち。逃げ場を失ったチニョンの前に、鋭い槍が突きつけられる。

「お嬢様、大人しくこちらへ!」

 兵士が槍を突き出したその瞬間、白装束の影が割り込んだ。

「……やめろ!」

 鈍い音が響き、鮮血が舞う。

 槍をその身に受け、チニョンを庇ったのは、ソンハだった。

「……ソンハ様!? なぜ……どうして……!」

 崩れ落ちるソンハ。彼の肩からは、止まらぬ血が流れ出し、地面を赤く染めていく。

「……行け、チニョン……。君だけは……守りたかった……」

 混乱の中、兵士たちは動揺し、チニョンはその場を離れることを余儀なくされた。

 追っ手を逃れ、夜の森を彷徨うチニョン。

 ソンハを救えなかった悔しさと、ミョンファンへの怒りに震え、彼女は力尽きて倒れ込んだ。

 薄れゆく意識の中、誰かが自分を抱き上げる感触がした。

 その手。

 温かくて、少し土の匂いがして……そして、驚くほど正確に自分の脈を押さえる、あの懐かしい指先。

(……ヨンダル……?)

 クァンは、言葉を発しなかった。ただ、傷ついたチニョンの髪を優しく撫で、暗闇の中へと姿を消した。

 残されたのは、かつて彼女に贈ったものと同じ香草の包み。

  漢陽の夜に、三つの魂が激しく交錯する。

 愛、憎しみ、そして再起。

 ペク・クァンの「逆襲」は、いま、血と涙を糧にして本格的に動き出そうとしていた。

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