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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第2部

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第32話

【1590年 春・清国 北京 皇帝の離宮】


「……息が、できない。またあの痛みが……!」

 皇妃(側室)の悲鳴が、離宮の静寂を切り裂いた。

 ミョンファンが「秘薬による完治」を宣言してから、わずか数日。再び彼女の体は激しい熱に浮かされ、患部は以前よりも醜く腫れ上がっていた。

 ミョンファンの顔から血の気が引く。

「馬鹿な……。完全に膿は出し切ったはずだ。これは……呪いだ! この異邦人の呪術だ!」

 醜い言い逃れをするミョンファンを、皇帝の冷徹な視線が射抜いた。

「黙れ。其方の言葉はもう聞き飽きた。……あの男を呼べ。泥の中から奇跡を掴んだ、あの朝鮮の医師を」

 再び皇帝の前に引き出されたクァン。その背後には、彼を「偽物」として処刑したいミョンファンが、虎視眈々と隙を狙っている。

「ペク・クァンよ。病は再発した。其方は『原因は他にある』と言ったな。それは何だ?」

 クァンの喉が動く。彼は診察で気づいていた。

 再発の原因は、ミョンファンの処置ミスではない。側室が密かに抱えていた、女性特有の疾患による血流の滞りが、骨髄炎を悪化させていたのだ。だが、それを衆人環視の場で口にすることは、皇妃の尊厳を傷つけ、清国の面目を潰すことになる。

「……申し上げられません。しかし、私に五日の猶予をください」

 広間が騒然とする。

「五日で治せねば、私の首を差し上げます。ですが、もし成功したならば……私に、朝鮮へ帰るための『皇帝の勅書』を賜りたい」

 クァンの決死の覚悟に、皇帝は頷いた。

「よかろう。五日だ。それ以上は一刻も待たぬ」

 だが、真の障壁は皇帝ではなく、患者である側室自身だった。

「……帰ってください。これ以上、卑しい男の手に体を触れさせ、傷を刻まれるくらいなら、私はこのまま枯れて死ぬ方を選びます」

 皇妃は、顔を覆い、クァンを拒絶した。清国の最高位にある女性として、体に大きな傷跡を残す「外科手術」は、死よりも恐ろしい屈辱だった。

 クァンは、彼女の枕元で静かに膝をついた。

「……奥様。私はかつて、馬を診る医者でした。獣たちは、傷跡を恥じることはありません。ただ、『生きたい』という一心で、私を信じてくれました」

 クァンの声には、三年の放浪で培った、慈愛と強さが宿っていた。

「貴女が救うべきは、ご自身の体裁ではありません。貴女を愛する皇帝陛下、そして……先日お生まれになった、あの小さな命です。母の温もりを知らぬまま、あの子を一人にするおつもりですか?」

 クァンの言葉が、彼女の閉ざされた心を溶かしていく。

「……私の手を信じてください。この傷は、貴女が命を守り抜いた『誇りの勲章』になります」

 手術は、ミョンファンが見守る中で行われた。

 彼はクァンの失敗を確信していた。五日という短期間で、この重症を外科で完治させるなど不可能だと。

 しかし、クァンのメスは、かつてないほど速く、正確だった。

 サアム道人から学んだ「経穴」を突く麻酔術と、クァン独自の「骨を再生させる」精密な削り。彼は骨髄の深部に潜んでいた真の感染源を、一ミリの狂いもなく取り除いた。

(……俺は、帰るんだ。朝鮮の土を踏み、師匠の墓前に立ち……そして、チニョン様に「生きていた」と伝えるために!)

 汗を拭うクネの手が震える。キムが静かに酒を煽りながら、弟子の背中を見守る。

 朝焼けが離宮を照らす頃、皇妃の呼吸は、まるで赤ん坊のように健やかなものに変わっていた。

 五日目。

 皇妃は自らの足で皇帝の前に立った。その顔色は血色に満ち、死の影は微塵もなかった。

「……見事だ。異邦人の医師よ。其方の腕、天下一と認めよう」

 皇帝は約束通り、黄金の筒に入った親書をクァンに授けた。

 それを見つめるミョンファンの顔は、もはや怒りを通り越し、恐怖で凍りついていた。この男が朝鮮に帰れば、自分の地位も、過去の罪も、すべてが崩れ去る。

 クァンは、北京の城壁の上に立ち、東の空を見つめた。

 海の向こうには、彼を待つ人々がいる。そして、決着をつけねばならない宿命がある。

「……行こう。俺たちの国へ」

 キム道人とクネを連れ、クァンは港へと歩き出した。

 三年前に海に消えた「馬医」は、いま、皇帝の勅書を胸に抱いた「神医」として、再びその名を轟かせるために、故郷への帆を上げる。

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