第31話
【1590年 春・清国 北京 皇帝の離宮から波止場へ】
「……もう一度、切ります。今度は骨の真髄まで」
クァンの宣言に、周囲の医官は「狂気の沙汰だ」と罵った。だが、クァンには見えていた。破傷風の毒を吐き出し続ける、目に見えぬほどの微小な腐敗が、骨の深層に残っていることを。
再びメスを握るクァンの手は、一点の曇りもなかった。
師を死なせたあの夜から三年間、彼はこの瞬間のために生きてきた。キム道人との修行で得た、人体の構造を「層」で捉える視覚。
一ミリの狂いもなく、毒の根源を削り取る。その光景は、もはや手術ではなく「命の彫刻」であった。
クァンの手術によって、皇妃の容態は劇的に好転した。
しかし、そこに現れたのは、皇帝の信頼を取り付けるべく画策していたミョンファンだった。彼はクァンが「死人」であることを利用し、クァンを物陰に追い詰めると、清国の重臣を買収して自分の手柄にすり替えた。
「陛下、この異邦人の荒っぽい外科処置で荒れた体を、我が朝鮮の秘薬で調えました」
ミョンファンの平然とした嘘。皇帝はミョンファンを称え、治療の全権を彼に与えた。
クァンは、帰国のための「皇帝の勅書」を目前にしながら、その手を伸ばすことさえ許されず、影の中から自らの功績が奪われるのを見つめるしかなかった。
肩を落とし、北京の片隅へ戻ったクァン。
「……何のために、俺はここまで」
帰国の夢が潰え、虚無感に襲われるクァン。だが、彼の耳に届いたのは、まだ苦しんでいる患者たちの声だった。
クァンは自嘲を捨て、名もなき医師として、ミョンファンが放置した「術後管理」を一人で引き受けた。
手柄などいらない。ただ、目の前の命が救われること。それが師コ・ジュマンから受け継いだ唯一の遺産。
数日後、クァンが担当した患者たちは、医学的奇跡と言われるほど完全に回復した。その姿を見て、キム道人は静かに微笑んだ。
その頃、街の喧騒の中で、クァンは耳を疑う噂を耳にする。
「朝鮮からの医療団に、類まれなる美貌の女医がいたらしい。名は……チニョンと言ったか」
クァンの全身に衝撃が走る。
「チニョン様が……ここに!? なぜ、気づかなかったんだ!」
クァンは足の傷の痛みも忘れ、医療団の滞在先へと駆け出した。
三年。一日たりとも忘れたことのなかった名前。彼女がこの異国の空の下、自分と同じ空気を吸っていた。
しかし、辿り着いた宿舎は、すでに空っぽだった。
「朝鮮の医療団か? ああ、今朝早くに仁川へ向けて発ったよ」
クァンは港へと急ぐが、視線の先に広がるのは、沈みゆく夕日に照らされた空虚な海面だけだった。
遠く、水平線の彼方に消えゆく帆影。
その船には、クァンが生きていたことを知らぬまま、悲しみを抱えて帰路につくチニョンが乗っている。
「……チニョン様! チニョン様!!」
クァンの叫びは、虚しく波音にかき消された。
だが、その瞳にはもはや絶望はなかった。
「……待っていてください。必ず、俺の足で、俺の名前を持って、朝鮮へ帰ります」
奪われた栄光と、すれ違った愛。
しかし、破傷風に打ち勝ったという確信が、クァンの胸に消えない「真実の炎」を灯していた。




