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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第2部

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第30話

【1590年 春・清国 北京 皇帝の離宮】


「……恩赦の勅書があれば、お前は朝鮮へ帰れる。罪を濯ぎ、あの娘に堂々と会えるのだぞ」

 キム道人の言葉が、クァンの胸を熱く焦がした。

 清国の皇帝が最愛の側室、皇妃ファンビの重病を救う医師を募っている。もし成功すれば、皇帝から朝鮮の王へ、クァンの全罪を赦免するよう親書を送らせることも不可能ではない。

 クァンは、先日命を救った呉家の重臣の強力な推薦状を手に、北京の都へと足を踏み入れた。

 典医監の最高権力者として清国入りしているミョンファンの影がすぐそばに迫っている。正体が露見すれば即座に処刑。まさに、針の穴を通すような命懸けの挑戦だった。


 離宮の奥深く、重い帳の向こう。皇妃の病状を診察した瞬間、クァンの指先が凍りついた。

(……そんな、馬鹿な。これは……!)

 脈の乱れ、患部の腫れ、そして骨の奥底から滲み出るような独特の不浄な気。それは、三年前、師コ・ジュマンの命を奪った「骨髄炎」と寸分違わぬものだった。

 クァンの脳裏に、断末魔の師の顔がフラッシュバックする。

「内科的処置では届きませぬ。骨を削り、腐った核を取り除くしかありません」

 清国の御医(宮廷医)たちが「卑しい異邦人が何を!」と騒ぎ立てる中、クァンは皇帝の御前で跪き、真っ向から目を見据えた。

「……私はかつて、この病を救えず、父とも仰ぐ師を失いました。二度と、この病に命を奪わせはしません!」


 手術が始まった。キムとクネ、そして清国の精鋭医官たちが注視する中、クァンは三年前よりも遥かに洗練された手捌きでメスを振るう。

 キムのもとでの三年間は、クァンに「死角を見通す眼」を与えていた。

 骨を叩く音、血を拭う音。

 クァンの額を伝う汗をクネが必死に拭う。

 ついに、皇妃の骨の奥底に潜んでいた「病の種」を完璧に取り除いた。

「……成功だ」

 クァンがそう確信した瞬間、手術室を包んでいた重圧が消え、医官たちからも感嘆の声が漏れた。


 だが、運命はクァンに微笑むふりをして、再び奈落へ突き落とした。

 術後二日目。皇妃の容態が安定し始めたその矢先、クァンは彼女の口元が不自然に歪んでいるのを見逃さなかった。

「……奥様、お口を開けていただけますか?」

 返事がない。それどころか、彼女の首筋が石のように強張り、指先が不規則に跳ねている。

(嘘だ……嘘だと言ってくれ!)

 破傷風。あの時と同じ、神の領域と言われる「術後感染」。

 師の命を奪い、クァンを「人殺し」の汚名とともに放浪させたあの悪魔が、再びクァンの前に立ちはだかったのだ。


「異邦人の医師よ。其方は『必ず成功させる』と申したな」

 皇帝の冷徹な声が、黄金の広間に響き渡る。

 皇妃が死ねば、クァンとキム、クネの三人は、その場で公開処刑となる。

 絶望に打ちひしがれ、自らの手を震わせるクァン。

 そこへ、朝鮮からの使節団として、ミョンファンが正式に宮廷へ招き入れられた。

「……あそこにいる医師は、誰だ?」

 群衆の中に、聞き慣れた声をミョンファンは察知する。

 

 破傷風という医学的限界。そして、ミョンファンという政治的脅威。

 クァンの人生は、三年前のあの夜よりも過酷な「最終局面」へと向かっていた。

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