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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第2部

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第29話

【1590年 春・清国 寧波ニンポー


 朝鮮を追われ、死を偽装して海を渡ってから三年。

 ペク・クァンの顔からは若さが削ぎ落とされ、代わりに数多の命を救ってきた「静かな凄み」が宿っていた。

 彼はキム道人の供として、広大な清の各地を巡り、教科書にはない、時に残酷で、時に神秘的な「戦場」の医学を叩き込まれてきた。

「クァンよ、次は寧波だ。高官の屋敷で『呪いの腫瘍』が育っているらしいぞ」

 相変わらず酒臭いキムの言葉に、クァンは黙って医療鞄を担いだ。三年前、師コ・ジュマンを守れなかったあの無力な自分は、もういない。

 寧波の高官・家の屋敷。

 そこには、脇腹に大きな「こぶ」ができ、家族から「家名の恥」として冷遇される若き嫁がいた。

 窓も塞がれた暗室。重臣たちは、彼女を治療するのではなく、いかに世間に知られず「処分」するかを相談していた。

「……失礼します」

 一計を案じ、使用人に扮して部屋へ忍び込んだクァン。

 衰弱しきった彼女の腹部に手を置いた瞬間、クァンの指先に微かな、しかし力強い「蹴り」が伝わった。

「……これは、病ではない。命だ」

 驚愕するキムとクネ。

 彼女は懐妊していた。しかし、胎児が通常の道を通れぬ位置に留まり、さらに母体の衰弱によって陣痛が始まろうとしていた。放置すれば、母子ともに「恥辱の病死」として闇に葬られる。

「クァン、やるのか? ここは朝鮮ではない。失敗すれば、我らの首も飛ぶぞ」

 クネの制止を、クァンの瞳が遮った。

「……師匠なら、こう言ったはずです。『医の道に国境も、身分もない』と」

 クァンは、三年前の開頭手術で使ったあの自作のメスを握り直した。

 激しい陣痛が始まり、嫁が悲鳴を上げる。

「切る。……腹を切り、子を直接取り出す!」

 キムが扉を塞ぎ、外の護衛を煙に巻く。

 クァンは、震えを完全に殺した指先で、彼女の腹部に刃を沈めた。

 溢れ出す鮮血。だが、クァンの視界には、血管の奔流も、筋肉の層も、すべてが「光の地図」として見えていた。サアムとの三年間の修行が、彼を「命の構造」そのものに到達させていたのだ。

 数刻後。

 血の海の中から、クァンの両手が一つの小さな命を掲げた。

「……おぎゃあ、おぎゃあ!」

 暗室に響き渡ったのは、呪われた腫瘍の破裂音ではなく、新しい生命の産声だった。

 呆然とする呉一族の前に、クァンは血塗れのまま姿を現した。

「……病ではありません。呉家の、次なる世継ぎです」

 その奇跡の術式に、清の重臣たちは平伏した。名もなき朝鮮の男が、清国の闇を切り裂いた瞬間だった。

 成功の余韻に浸る間もなく、サアムが深刻な表情で戻ってきた。

「……クァンよ。急いでここを離れるぞ。漢陽から、清国への使節団が来るらしい」

 クァンの背中に、氷のような戦慄が走る。

「……使節団? 誰が来るのですか」

「朝鮮の典医監ジョンイガムの最高権力者……。イ・ミョンファンだ」

 クァンの瞳に、かつてないほど鋭い「野生の怒り」が灯った。

 三年前、自分を殺し、師を奪い、チニョンからすべてを奪った男。

 

「……来い、イ・ミョンファン。俺はもう、逃げも隠れもしない」

 清国の広大な大地を舞台に、捨て去ったはずの「過去」と、鍛え上げられた「現在」が激突しようとしていた。

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