第3話
一五七七年、冬。漢陽の夜気は、刃のように冷たかった。
林道に死体があった。
密使だった男は、声を上げる間もなく逝ったのだろう。泥の上に倒れた身体から、黒い血が月光を吸っていた。その傍らに立つミョンファンは、剣を鞘に収めながら夜空を見上げた。まるで何かを確かめるように。まるで何も起きなかったように。
茂みの中で、クァンは息を止めていた。
隣でヨンダルの肩が、かすかに震えている。逃げろ、と目で伝えた瞬間、ミョンファンの視線がこちらを向いた。
「……見たな」
声に温度がなかった。
走った。二人同時に夜の林道を駆けた。枝が顔を打ち、泥が足を取る。都の地理を知らない身体は、路地の入り組みに何度も阻まれた。背後で松明の光が広がる。私兵だ。
「クァン、逃げて!」
ヨンダルの声が、夜気に断ち切られた。
振り返った。捕らえられていた。兵の腕に押さえ込まれ、それでもヨンダルはこちらを睨みつけている。逃げろ、という目だった。
クァンは走った。
逃げ道へではなく、泥棒市の方角へ。
ヨンダルの仲間たちに事情を話す時間はなかった。「ヨンダルが捕まった」それだけで十分だった。子供たちは顔を見合わせ、頷いた。クァンは奇襲の段取りを組みながら、自分の手が震えていることに気づかないふりをした。
廃屋の裏手から踏み込んだ時、そこへソックが駆けつけた。
「クァン! ヨンダル!」
島を飛び出してから何日も経っていた。それでも父は、漢陽のどこかでずっと探していたのだ。クァンはその顔を見た瞬間、胸に何かが刺さるような感覚を覚えた。謝罪でも安堵でもない、もっと複雑な何かが。
ソックの加勢で、ヨンダルを取り返した。
だが、ミョンファンは既に私兵を解き放っていた。
「逆賊の残党だ。一人も生かして帰すな」
逃走の中、風切り音が聞こえた。
ソックの足が、止まった。
クァンが振り返った時、父は背に矢を受けて膝をついていた。倒れる前に肩を貸した。重い。こんなに重かったか。父の体温が、雨に濡れながらも熱く、クァンの肩を焼いた。
森の廃屋。
月明かりの中、ソックを横たえた。矢は深い。出血が止まらない。クァンの指が傷口を探る。父の荒い息が、耳の奥に刺さる。
「クァン」
ソックの手が伸びた。しかし向いたのは、クァンではなかった。
震える指先が、ヨンダルの首元に触れた。
古びた紐。装飾とも呼べない、粗末な組み紐。クァンには見覚えがなかった。だがソックの指は、その結び目を確かめるように、何度もなぞった。
――この結び目は、俺が編んだ。
脳裏に、十二年前の夜が戻った。嵐の中の産声。兵の怒声。クネから赤子を受け取った時、せめてもと自分が編んで首に結んだ紐。生きていてくれ、という祈りだけを込めて。
目の前の少女が、泥にまみれたその顔で、自分を見ていた。
「……名前は」
声が掠れた。
「ヨンダルだよ。おじさん、しっかりして」
ヨンダル。
自分が捨てた名前だった。娘が拾って、生きていた。
ソックは笑おうとした。笑えなかった。代わりに、血の混じった何かが目の端を伝った。この子に真実を告げたかった。お前の父は天才だったと、お前の父は正しい人間だったと、俺はあの夜お前を見捨てたのではなく、それしか方法がなかったのだと。
言えなかった。
クァンがいるからだ。この子に真実を話せば、クァンが「逆賊の子」として追われる。十二年間、泥の中で育て上げた命が、この一夜で終わる。
ソックは震える手でクァンを手招きした。
「クァン……医師を……連れてきてくれ。この子を……頼む」
それだけを言った。それだけしか、言えなかった。
クァンは頷いた。一秒も迷わなかった。雨の中を走り出した。
最も近い医院の門を叩いた。何度も叩いた。
出てきた門番は、クァンの濡れた衣服を一瞥し、顎をしゃくった。
「奴婢が夜更けに騒ぐな。失せろ」
「父が死にそうだ。金は出す。頼む」
「医師様は両班のお方のためにいる。お前のような者を診る義理はない」
「頼む」
クァンは地面に額をつけた。冷たい石畳が、額を打つ。
「頼む」
門が閉まった。
クァンはしばらく、そこに額をつけたまま動けなかった。雨が首筋を流れた。拳が石畳を打った。痛みは感じなかった。
立ち上がった。走った。別の医院へ。また门を叩いた。また追い払われた。また走った。
夜が深くなるほど、父の時間が削られていく。それだけが頭の中にあった。
廃屋に戻った時、ヨンダルは声を殺して泣いていた。
ソックの体は、冷たくなり始めていた。
クァンは父の傍らに膝をついた。まだ温かい手を、両手で包んだ。手の甲に、古い傷跡があった。馬の蹄に踏まれた跡だと、子供の頃に教えてもらった。この手に抱かれて育った。この手が鍼の持ち方を教えた。この手が、嵐の夜に海を渡るボロ舟の帆を引いた。
「……なんで」
声が出た。
「なんで、俺には医者になれないんだ」
答えはなかった。
ソックは最後まで真実を語らなかった。語れば、クァンが死ぬ。その一点だけを守って、逝った。愛する娘を娘と呼べないまま、親友の息子を守り抜くという十二年の呪縛の中で、その生涯を閉じた。
クァンは父の手を握ったまま、天を仰いだ。雨が顔を叩いた。
身分という一点が、今夜、一人の男を殺した。腕があった。知識があった。意志があった。それでも門は開かなかった。その理不尽さが、クァンの胸の中で、静かに、取り返しのつかない何かに変わっていった。
「俺が、医師になる」
呟きだった。誰かに聞かせるためではなかった。
「身分なんか関係なく、誰でも診られる医師に。こんな理不尽で、誰も死なせない」
ヨンダルが顔を上げた。泥と涙で汚れた顔で、クァンを見た。
クァンはまだ知らない。目の前で泣くこの少女が、ソックの実の娘であることを。ソックが最後に手を伸ばした相手が誰だったのかを。
ヨンダルもまだ知らない。
二人はただ、冷たくなった男の手を、それぞれの側から握っていた。
雨は、夜通し降り続けた。




