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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第2部

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第28話

【1587年 春・全羅道 辺境の市場】


 凍てつく冬の海。崖から身を投げたあの日、ペク・クァンという人間は一度死んだ。

 波に揉まれ、岩に砕かれ、意識を失ったまま流れ着いたのは、地図にも載らぬ卑しい漁村だった。

「……生きて、いるのか。俺は」

 腫れ上がった手足、焼けるような傷口。だが、クァンの瞳に宿る火は消えていなかった。

 いまや彼は、王宮を揺るがした「大罪人」であり、同時に「死人」として処理されている。漢陽に帰る道は閉ざされ、チニョンのもとへ行くことも叶わない。

 クァンに残されたのは、ボロボロになった官服の裏に縫い付けられていた、恩師コ・ジュマンの血染めの遺言だけだった。

> 『クァンよ。もし私が倒れ、お前が路頭に迷うことがあれば……全羅道の山奥に潜む「キム」という男を捜せ。彼こそが、この国の医学の深淵を知る唯一の者だ』


 それから数ヶ月。クァンは身分を隠し、乞食同然の姿で各地を彷徨った。

 指先一つ動かすのも苦痛な重傷を、自ら野草を噛み砕いて治療し、飢えは泥水を啜って凌いだ。

(……師匠。俺はまだ、倒れるわけにはいかない。貴方が託してくれたこの腕が、まだ命の温もりを覚えているからだ)

 クァンの魂を支えていたのは、ミョンファンへの復讐心ではない。自分を信じて命を預けた患者たち、そして「ヨンダル」と呼んでくれたチニョンの笑顔。それらを「正しい歴史」へと書き換えるための、執念だけだった。

 活気に沸く全羅道の市場。そこでクァンは、一人の老人に遭遇する。

 薄汚れた身なり、酒臭い息。老人は道端で「万病に効く」と称する怪しげな丸薬を、愚かな民衆に売りつけていた。

「さあさあ、これを飲めば死人も踊り出す! 騙されたと思って買っていきな!」

 その光景に、クァンの誇りが激しく火を噴いた。コ・ジュマンから正統な医学を学び、人の頭部を切り開くという神域の医術に挑んだ彼にとって、目の前の光景は医学への冒涜そのものだった。

「やめろ! 嘘を吐いて民を惑わすのは医師の風上にも置けぬ。その薬、成分はただの干し草ではないか!」

 クァンは老人の前に立ちはだかり、その薬を叩き落とした。

「若造が、偉そうに医学を語るな。お前のような『型』に嵌まった医者に、何が救える?」

 老人は鼻で笑い、クァンを「若造」と切り捨てて、千鳥足で雑踏の中へ消えていった。

 老人が去った後、クァンの足元に一人の急患が運び込まれた。

 激しい呼吸困難、顔面蒼白。クァンが脈を診るまでもない。「胸痺(きょうひ:心筋梗塞)」だ。

(……手遅れだ。経絡が閉じ、もはや鍼も届かない)

 クァンが諦めかけたその時、ふと目に入ったのは、先ほど叩き落とした老人の丸薬だった。

 その丸薬が砕け、中から放たれる微かな香りに、クァンの嗅覚が鋭く反応した。

「……これは……蘇合香そごうこうか? いや、それだけじゃない。この比率は……!」

 クァンは慌ててその粉末を拾い集め、患者の口に含ませた。

 するとどうだ。数秒前まで死に瀕していた患者の呼吸が、劇的に整い始めたのだ。

 さらに、老人が座っていた場所には、食べ残しの果物の皮で描かれた「人体の経絡図」があった。それは、内科医の教科書には決して載っていない、外科的視点から見た「命の抜け道」を示していた。

「あの老人が……キム道人!?」

 クァンは全身に鳥肌が立つのを感じた。

 型破り。異端。しかし、その根底にあるのは、教科書を越えた「実戦」の医学。

「待ってください! 待ってくれ!」

 クァンは狂ったように市場を駆け抜けた。

 だが、老人の姿はどこにもなかった。夕闇が迫る市場の喧騒の中に、伝説の隠者は煙のように消えていた。

 クァンは、叩き落としてしまった丸薬の跡を見つめ、膝をついた。

「……師匠。俺はまだ、何も見えていなかった……」

 悔しさに拳を握るクァン。しかし、その瞳には再び、かつて馬医として未知の病に挑んだ時のような、激しい輝きが戻っていた。

「キム道人……貴方を見つけるまで、俺は死んでも死にきれない」

 クァンの「第二の人生」が、いま、名もなき荒野から静かに、しかし熱く燃え上がり始めた。

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