第27話
【1587年 初春・漢陽 獄舎から仁川の港へ】
冷たい鉄格子の中で、クァンは虚空を見つめていた。
コ・ジュマンが守り抜こうとした「医の道」は、いまやミョンファンの冷酷な嘲笑によって踏みにじられようとしている。
「ペク・クァン。お前が首医様を殺したのだ。その事実は、この国の歴史に刻まれる」
顕宗から裁きの助言を求められたミョンファンは、クァンを執拗に追い詰める。しかし、彼の本当の狙いはクァンの命以上に、その「血筋」を完全に消し去ることだった。
ミョンファンはカン・クネを呼び出し、低い声で脅しをかける。
「奴を死罪から救ってやりたいだろう? ならば渡せ。カン・ドジュンの息子であることを証明する、その『品』をな」
クネは苦渋の選択を迫られ、亡きドジュンの形見――真実の身分を証する家紋の入った鍼箱と書状を、ミョンファンの手に渡してしまう。
ミョンファンは、獄中のクァンの前でその品を火に投げ入れた。
「これで、お前が誰であるかを知る者はこの世から消えた。お前はただの馬医だ。泥の中で生まれ、海の藻屑となって消える、卑しい獣医に過ぎぬ」
燃え盛る炎を見つめ、クァンの瞳に絶望の涙が溜まる。父の汚名を晴らす唯一の手がかりが、灰となって消えていく。
だが、顕宗はコ・ジュマンの遺言を重んじ、死罪ではなく「辺境の水軍への流刑」を命じた。それは、命だけは繋がれた、最も過酷な生殺しの判決だった。
「……行かせてはならない。水軍へ行けば、クァンさんは生きて戻れない」
チニョンは、決死の覚悟でソンハのもとへ走った。
「兄上、お願いです。今回だけ、あの方を救う力を貸してください」
チニョンの涙に、ソンハの理性が揺れる。彼は父の非情を知りつつも、愛する妹のようなチニョンを守るため、そして一人の医官としてのクァンの才能を惜しみ、ヨジョン王女の協力を得て「脱獄と逃亡」の計画を練る。
王女が用意した馬と、ソンハが手配した通行証。
「クァンさん、船着場で待っています。二人で、誰も知らない場所へ……」
チニョンは、夜霧に包まれた仁川の船着場で、約束の時間を待った。
波の音が響く中、チニョンの指先は不安に震えていた。
「……もうすぐ、夜明けが来るわ。どうして、いらっしゃらないの?」
約束の刻限を過ぎても、クァンの姿は見えない。
その頃、クァンは港へ向かう道中で、ミョンファンが放った執拗な追手に包囲されていた。
(……俺が行けば、お嬢様まで『罪人の共犯』になってしまう。……俺のような呪われた男が、彼女の光を奪っていいはずがない)
クァンは、自分を呼ぶチニョンの幻聴を振り切るように、あえて船着場とは逆の、荒れ狂う崖の方へと走り出した。
背中を矢がかすめる。
遠くで聞こえる兵士たちの怒号。クァンは、崖の上から一度だけ、小さく光る船着場の灯火を振り返った。
「……さよなら、お嬢様。……いつか、俺が俺自身の名前を取り戻した時、必ず貴方を迎えに行く」
クァンは、荒れ狂う波間に身を投げた。
夜明けの海には、ただ虚しく波が打ち寄せ、チニョンの悲痛な慟哭だけが、朝焼けの空に響き渡っていた。




