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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第1部

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第23話

夜が深かった。


恵民署の片隅に、クネとクァンしかいなかった。灯りが一つだった。


「クァン様」


クネが呼んだ。様、という呼び方に、クァンは気づいた。今まで一度も、そう呼ばれたことはなかった。


「貴方の本当の名は、ペク・クァンではありません」


クァンは動かなかった。


「実の父親は、カン・ドジュン様です。かつて無実の罪を被せられ、処刑された医官。……マファン様」


火花が散った、というより、静かになった。


頭の中が、静かになった。音が遠のいた。クネの声だけが、遠くから来ていた。


「……俺は、ソックおじさんの息子だ」


「ソック殿は、主君の血筋を守るために、貴方を自分の娘と入れ替えました。今のチニョン様と」


クァンは灯りを見た。


炎が揺れていた。揺れながら、消えなかった。


「マファン様を陥れたのは」


クネが続けた。


「イ・ミョンファンです」


沈黙が落ちた。


ミョンファン。その名前と、父の処刑が、一本の線で繋がった。線が繋がった瞬間、二十年分の記憶が動いた。島での暮らし。ソックの怯えた目。漢陽に来るなという言葉。棒で打たれた夜。王の寝所。廊下で交わした言葉。


全部が、この一点から始まっていた。


クァンは拳を作った。


怒りが来た。熱い怒りだった。ミョンファンの顔が浮かんだ。あの声が浮かんだ。*卑しき者は分をわきまえて生きるがいい。*


その男が、父を殺した。


---


だが、怒りより先に、別の顔が浮かんだ。


チニョンだった。


クァンは目を閉じた。


真実が公になれば、自分は名家の嫡子として復権する。だがチニョンが、奴婢の娘として引きずり下ろされる。ミョンファンの大罪を背負わされる。処刑されるか、奴婢にされるか。どちらにせよ、泥の底に落ちる。


あの女が、泥の底に落ちる。


「クネさん」


「はい」


「このことは、誰にも言わないでください」


クネが顔を上げた。


「チニョンさんは何も知らない。彼女にあの泥沼を歩ませるくらいなら、俺は一生、馬医の息子のままでいい」


「クァン様」


「それが、ソックおじさんの願いでもあるはずです」


あの男は最後まで言わなかった。真実を告げれば、クァンが逆賊の子として追われる。それが分かっていて、言わずに死んだ。自分の娘を娘と呼べないまま、死んだ。


同じことを、自分もする。


チニョンを守るために、黙る。


「……分かりました」


クネは俯いた。


声が震えていた。震えながら、続けた。


「もう一つ、お伝えしなければならないことがあります」


クァンは待った。


「マファン様の事件に関わった医官がいました。イ・ヒョンウクという男です。偽りの証言をした。だが事件の直後に、殺されました」


「……殺された」


「その犯人とされたのが」


クネの声が、止まった。


「養父のペク・ソックです」


---


灯りが揺れた。


クァンは動かなかった。


ソックが、人を殺した。殺した、とされた。幼い頃、自分を連れて逃げ回っていた男。追手の矢に倒れた男。死ぬ時まで真実を言わなかった男。


その男が、殺人者として記録に残っている。


「おじさんは」


声が出た。


「おじさんは、誰も殺していない」


確信だった。根拠は、あの手の温度だった。あの手で人を殺せる男ではなかった。


では、なぜ。


ヒョンウクという医官は、真実を知っていた。マファンの無実を証言できた。だからミョンファンが消した。消して、ソックに罪を着せた。追い詰めて、島に追いやった。


全部が、繋がった。


ミョンファンは、ソックを島に追いやることで、クァンをも島に閉じ込めていた。知らないうちに。気づかないまま。


「クネさん」


「はい」


「ソックおじさんの無実を、証明できますか」


クネはしばらく黙っていた。


「証拠が要ります。ヒョンウクが死んだ夜に何があったか、記録を探さなければ」


「探す方法はありますか」


「義禁府の古い記録に、残っているかもしれません。ただ、ミョンファンが管轄する場所です」


「分かりました」


クァンは立ち上がった。


「チニョンさんには言わない。これは俺だけの戦いにします」


「一人では無理です」


「一人でやります。チニョンさんを巻き込めない」


クネは立ち上がった。クァンを見た。


「マファン様も、同じことを言いました。一人で抱えると言って、一人で死にました」


クァンは止まった。


「俺は死にません」


「同じことを言いました」


「……クネさん」


「私は貴方の味方です。マファン様を守れなかった。ソック殿も守れなかった。今度こそ」


声が途切れた。


クァンはクネを見た。この女が何十年、何を抱えてきたか。あの夜、雨の中で赤子を抱え替えた時から、何を背負い続けてきたか。


「……力を貸してください」


それだけ言った。


クネが頷いた。


---


夜明け前、クァンは恵民署を出た。


かつてソックが倒れた崖の方向へ、足が向いた。


行っても何もない。ソックはもういない。だが、足が向いた。


歩きながら、考えた。


チニョンは知らない。知らないまま、ミョンファンの養女として生きている。その平穏を壊さずに、ミョンファンの罪を暴く。矛盾していた。矛盾していても、それ以外の道がなかった。


ソックが選んだ道を、自分も選ぶ。守りながら、戦う。


崖の手前で、足を止めた。


海が見えた。


「おじさん」


声に出した。誰もいない場所に向かって。


「待っていてください。殺人者にはさせない」


風が吹いた。


冬の風だった。冷たかった。


クァンは踵を返した。


漢陽へ戻る方向に、歩き始めた。


---


ミョンファンの邸宅に、使いが来た。


クァンが過去を調べ始めた、という報告だった。


ミョンファンは文書を置いた。


窓の外を見た。夜明けの空が、白くなっていた。


予期していた。この男はいつか、ここに辿り着くと思っていた。腕を折っても動いた。遺体室から出た。銅人経を全打した。王を救った。腹を切った。一手ずつ、この場所へ近づいてきた。


マファンもそうだった。真実に向かって、一歩ずつ歩いた。止まらなかった。だから、処刑するしかなかった。


「ペク・クァン」


窓に向かって言った。


「お前の父親と同じ目をしている」


空が、白くなっていた。


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