第21話
クネの指が、また止まった。
処方箋を見ていた。クァンが書いた字だった。筆の入り方、止め方、払いの角度。見るたびに思い出す筆跡があった。二十年以上前、あの男が書いた字と、同じ癖があった。
*カン・ドジュ。*
クネは文書を伏せた。
告げるべきか。
告げれば、クァンは名門の血筋として復権する。だがチニョンが奈落に落ちる。あの夜、自分の指が震えながらすり替えた二つの命が、今度は互いを壊す刃になる。
告げなければ、クァンは馬医上がりの医官として生き続ける。だがミョンファンが追い続ける。いつか、別の形で真実が露れる。
どちらを選んでも、誰かが傷つく。
それでも、選ばなければならない時が来る。
まだではない、とクネは思った。まだ、その時ではない。
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ミョンファンの邸宅。
チニョンが正面に座っていた。
「ソンハ様との婚姻はお受けできません」
ミョンファンは顔を動かさなかった。
「名家としての格を守るためだ。お前の未来のためでもある」
「父上の野心のためでしょう」
「チニョン」
「私は籠の中の鳥にはなりません」
沈黙が落ちた。
ミョンファンはチニョンの顔を見た。目の奥に何があるか、読んだ。長年、人の心を読んで生き延びてきた男だった。一瞬で分かった。
あの馬医だ。
チニョンの目の奥に、ペク・クァンがいた。
ミョンファンは立ち上がった。何も言わなかった。部屋を出た。
廊下を歩きながら、手が固まっていた。
直接手を下すのは、もうできない。王の前で名が上がりすぎた。腕を折っても動いた。遺体室から出た。試験を通った。王を救った。一手ずつ、詰められていた。
別の方法が要る。
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使いが来たのは夜だった。
「ソ・ウンソ様が再び自害を図られた。今すぐ屋敷へ」
クァンは外套を取った。
迷わなかった。ウンソのことは気になっていた。あの日以来、回復しているとは聞いていたが、心の穴が塞がったわけではないと分かっていた。
夜の路地を走った。
屋敷の門が開いていた。案内された部屋の前で、何かが違うと感じた。
感じた瞬間、扉が開いた。
役人が立っていた。複数いた。松明が明るかった。
「現行犯だ」
クァンが振り返った。後ろにも人がいた。
「身分の卑しい者が、名家の淑女の部屋に侵入した。綱常罪である」
「待て」
「縛れ」
腕を掴まれた。抵抗した。三人がかりで押さえられた。床に顔をつけられた。
「ミョンファン」
名前を呼んだ。
答えはなかった。
義禁府に連行された。
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牢の床は、いつも冷たかった。
後ろ手に縛られたまま、石の壁に背をつけた。
綱常罪。身分の卑しい者が貴い者に不埒を働いた罪。証明する必要がない。そこにいたことが証拠になる。呼ばれて行った、と言っても、呼んだ者は否定する。
詰んでいた。
泥水を飲まされた。黙って飲んだ。怒鳴っても変わらない。今は考える方が先だった。
足音が来た。
ミョンファンだった。
護衛を連れて、牢の前に立った。格子の向こうからクァンを見た。
「お前が死ねば、すべてが収まる」
声に感情がなかった。事務的だった。
「チニョンの心も、私の不安も、お前の不浄な過去も」
クァンはミョンファンを見た。
この男の顔を、何度見てきたか。典医監の壇上で、廊下で、王の寝所で。いつも同じ顔だった。感情がない顔だった。だが、その奥に何があるか、クァンにはうっすらと見えていた。
恐れていた。ずっと、何かを恐れていた。
「イ・ミョンファン」
クァンは立ち上がろうとした。後ろ手に縛られていたので、壁を使って立った。
「俺は馬医だった。死にかけた命を、たとえ自分の命でも、無様に差し出すことはしない」
ミョンファンは何も言わなかった。
「貴方が二十年かけて築いたものを、俺の手でいつか崩す。その時まで、死なない」
ミョンファンの目が、かすかに動いた。
それだけだった。背を向けて、行った。
足音が遠くなった。
クァンは壁に背をつけて、床に座った。
息を吐いた。
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牢の外で、チニョンが立っていた。
入れなかった。身分がある女が、夜の義禁府に入る理由がなかった。外の石畳に立って、格子の向こうの暗闇を見ていた。
クァンの声が聞こえた。ミョンファンに言った言葉が聞こえた。
*死なない。*
チニョンは拳を作った。
自分がミョンファンの養女として、あの屋敷で八年間、温かい食事をいただいていた間、この男は泥の中にいた。牧場にいた。馬の体温で夜を越えていた。その男が今、ミョンファンの罠で縛られている。
できることがある。
チニョンは踵を返した。
走った。
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クネは灯りの前で座っていた。
足音が近づいてきた。チニョンだと分かった。顔を見る前から分かった。
「クァンさんが捕らえられました」
「知っている」
「助ける方法を考えています」
「私も考えていた」
二人は向かい合った。
「クネ様」
チニョンが言った。
「私に教えてください。ペク・クァンという人が、何者なのか」
クネは動かなかった。
「なぜそれを」
「貴方が何かを知っていると、ずっと感じていました。クァンさんの処方箋を見るたびに、貴方の指が止まる。その顔が、今夜の顔と同じです」
クネは灯りを見た。
炎が揺れていた。
告げるべき時が来た、とクネは思った。まだではない、と思い続けていたが、クァンが死ねば終わる。明朝の判決が出れば、取り返せない。
「チニョン」
「はい」
「お前は、覚悟があるか」
チニョンは迷わなかった。
「あります」
クネは立ち上がった。
「コ・ジュマン署長のところへ行く。お前も来い」
「何を話すのですか」
「ペク・クァンが誰の子か、この国の誰よりも、私がよく知っている」
チニョンの顔が変わった。
クネはその顔を見なかった。灯りを持って、歩き始めた。
夜が深かった。
明けるまでに、やることがある。




