第2話
慶尚道の果て、波に洗われる孤島。
ソックは毎朝、海を見た。
見て、背を向けた。それだけが、この十二年間、彼にできた唯一の祈りだった。
「クァン。島の外には出るな」
口を酸っぱくして言い続けた。化け物が住む場所だと、人を喰らう世界だと。嘘ではなかった。ただ、本当のことも言わなかった。あの夜、牛車の中で親友が唇だけで残した言葉——*泥の中に隠せ*——その意味を、この子が知る必要はないと思っていた。知らせてはならないと。
だから十二歳になったクァンが、死にかけた馬の急所に迷いなく鍼を刺す姿を見るたび、ソックの胸は痛んだ。お前の父親も、そうやって笑っていた。同じ目をして、同じ手つきで。
「ジャンバク、準備はいいか」
「ああ、クァン。このボロ舟で漢陽に伝説を刻んでやろうぜ!」
嵐の予感がある夜だった。
クァンは父の顔を思い浮かべた。怒るだろう。泣くかもしれない。それでも足は止まらなかった。自分が何者なのか——その問いに、この島は何も答えてくれなかった。答えは、水平線の向こうにしかない。
ボロ舟は波に揉まれながら、夜の海を渡った。
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漢陽の南大門をくぐった瞬間、クァンは立ち止まった。
人の波。声の洪水。絹を纏った両班が従者を引き連れ闊歩し、物売りが喉を嗄らし、子供が犬と走り回る。島の静寂しか知らない身体に、この都市の密度は暴力に近かった。
「すごいな……」
「これが化け物の住処か!」とジャンバクが叫んだが、クァンは笑えなかった。圧倒されていたのではない。何か、胸の奥の古い傷のような場所が、じくりと疼いた。俺はここを知っている——そんなはずはないのに。
ぶつかったのは、その直後だった。
煤けた顔の少女。しかし瞳だけが、夜の海のように深く光っていた。
「……怪我は――」
クァンが手を伸ばしかけた瞬間、少女の指が動いた。
気づいた時、懐が軽くなっていた。全財産と、父が「肌身離さず持て」と言い続けた風呂敷包みが、少女と共に路地の闇へ消えていた。
「待て!」
クァンは駆けた。雑踏を割り、路地を曲がり、腐った泥の匂いが漂う裏通りへ飛び込んだ。華やかな表の顔とは別の漢陽——日の当たらない側の、子供たちが群れる廃屋の前で、少女は振り返った。
逃げなかった。
「返せ。それは俺の荷物だ」
「荷物ね」
少女は風呂敷を広げ、中身を検めた。古びた銀鍼が数本。擦り切れたボロ布。それだけだった。
「……馬医の道具じゃない。金目のものは一つもない」
少女が鼻で笑う。
「これのどこが大事な荷物よ。さっさと田舎へ帰りな、お坊ちゃん」
「お坊ちゃんだと」
クァンの声が低くなった。
「その鍼は、俺の親父が命より大事にしていたものだ。理由も聞かずに返さないなら、力ずくでも――」
廃屋の奥から、荒い鼻息が聞こえた。
クァンの目が、そちらへ動く。柱の陰に一頭の馬がいた。痩せ細り、首を力なく振り、その眼には白濁が浮かんでいる。苦しい。見ただけで分かった。
「その馬、死ぬぞ」
「は?」
「肺に水が溜まっている。今夜が峠だ」
ヨンダルが何か言いかけるより早く、クァンは少女の手から銀鍼を奪っていた。
「黙って見てろ。この馬を救ったら、荷物は返してもらう」
馬の傍らに膝をつく。手が馬の胸を探る——肋骨の走り方、筋肉の張り、呼吸のたびに浮き沈みする皮膚の下。父の声が耳の奥で鳴る。*ここだ、クァン。命の通り道はここにある。*
鍼を突き立てた。
迷いはなかった。迷う必要がなかった。この感覚だけは、島にいた頃から変わらない。生きているものの中に手を入れて、詰まったものを解いてやる。それだけが、クァンにとって「分かる」ことだった。
馬が大きく咳き込んだ。濁った液が床に落ちる。次の瞬間、馬の瞳に光が戻った。
廃屋が静まり返った。
「……嘘」
ヨンダルは息を呑んでいた。
なぜだろう。涙が出そうになった。泣く理由など何もない。ただ、その鍼の動きを見ていたら、胸の奥の——名前のない場所が、熱くなった。懐かしい、という言葉しか浮かばなかった。何を懐かしんでいるのか、自分でも分からなかった。
「あんた、本当に馬医なの」
問いでも驚きでもなく、確認だった。
クァンは立ち上がり、少女を正面から見た。煤と垢の下、その顔に宿っている何か——気高さ、とでも言うしかない光。盗賊団のリーダーとして漢陽の底辺を生き延びてきた者の、折れない芯。
俺はこの目を知っている。
そう思った。これも、そんなはずはなかった。
「俺はペク・クァン。いつかこの国一番の医師になる」
言い切った。宣言でも冗談でもなく、ただの事実として。
少女は一拍置いて、風呂敷を投げてよこした。
「……ヨンダル。鍼の腕だけは認めてあげる」
受け取ったクァンの指が、布の感触を確かめる。父が渡したこの布を、父は何度も撫でていた。大切にしろと言いながら、その目はいつも少し、遠くを見ていた。
クァンはまだ知らない。
目の前の少女が、十二年前の夜、この布と共に「入れ替えられた」命であることを。ヨンダルもまた、知らない。自分が探したことすらない「父」の名が、この少年の育ての親と同じであることを。
父たちが血を流して守った絆が、今この廃屋で、偶然を装って再び結ばれた。
二人はただ、向かい合っていた。
腐った泥の匂いの中で。馬の静かな息遣いを聞きながら。何かが始まる予感だけを、胸の同じ場所で感じながら。




