第17話
「冥府の門を叩き返した馬医か」
恵民署の廊下で、すれ違い様に聞こえた。クァンには向けていない声だったが、クァンのことを言っていた。振り返らなかった。
遺体室の話が広まってから、こういうことが増えた。
噂は事実を大きくする。暗闇で脈を探して、気道を開けた。それだけのことが、冥府の話になった。クァンには居心地が悪かった。神の手ではない。ただ、手を動かし続けただけだ。
ソンハが廊下の角で待っていた。
チニョンの幼馴染だと、以前から知っていた。優秀な医学生だと、周囲の評判で知っていた。この男がクァンを好いていないことも、会うたびに分かっていた。
「ペク・クァン」
ソンハは遠回りをしなかった。
「お前がどれほど奇跡を起こしても、お前は馬医でチニョンは両班の娘だ」
「知っています」
「知っているなら」
「試験で医官の身分を取ります。それで十分ですか」
ソンハは少し間を置いた。
「十分かどうかは、お前が勝ってから考えろ」
それだけ言って、行った。
クァンは廊下に残った。言われた通りのことを、既に考えていた。チニョンの隣に立てる場所を、自分の腕で取る。それ以外に道がない。それは分かっていた。
分かっていても、言葉にされると、改めて重かった。
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一次試験は経典の暗唱だった。
声を枯らして覚えた。夜が明けても覚えた。指が経典の頁の感触を覚えた。
通過した。
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二次試験の会場に入った時、運び込まれた患者を見た。
不潔な身なりの男が二人、担架に乗せられていた。
「利川の獄舎から連れてきた死刑囚だ」
試験官が言った。
「数日後に処刑される。だが国家は、健康な状態で刑を執行せねばならぬ。二人の病を突き止め、処置せよ」
周囲でざわめきが起きた。どうせ死ぬ人間に、なぜ最高の医術を尽くすのか。
クァンは患者を見た。
どうせ死ぬ人間、という言葉が引っかかった。引っかかりを、今は脇に置いた。
対戦相手のユン・テジュが隣にいた。若かった。顔が整っていた。動きに無駄がなかった。ミョンファンが目をかけると聞いていた。
「お前がペク・クァンか」
テジュは筆を整えながら言った。
「馬と話すように人を診るという男だな」
「馬とは話せません。ただ、手で聞きます」
テジュは小さく笑った。馬鹿にした笑いではなかった。何かを見定めている笑いだった。
鐘が鳴った。
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テジュの動きは速かった。
患者の脈を取った。舌を見た。胸の音を聞いた。
「脈は浮にして数。舌苔は黄。肺熱による咳。清肺湯」
迷いがなかった。正しかった。教本の記述と完全に一致していた。美しい診断だった。
クァンは自分の患者に向かった。
脈を取った。テジュの患者と似ていた。舌を見た。黄い苔があった。同じだった。
だが、男の手を取った時、指先に何かが来た。
震えていた。発熱による震えとは、質が違った。指先が冷たかった。熱があるのに、末端が冷えている。
顔を近づけた。
甘い匂いがした。
甘い、という言葉が正確ではなかった。腐りかけた甘さだった。果物が傷む時の匂いに似ていた。
クァンは牧場を思った。毒草を食べた馬が、最初は風邪のような症状を出す。咳をする。熱を出す。だが指先が冷えて、独特の匂いがした。内側から腐り始めていた。
「テジュさん」
テジュが振り向いた。
「貴方の診断は正しい。教本の上では」
「何が言いたい」
「この患者は、肺だけが病んでいない。獄舎の壁に生える菌が、内臓に入っている。肺熱は表の症状で、本当の病魔は奥にある」
テジュは眉を動かした。
「根拠は」
「指先の冷え。甘い体臭。脈の奥の、詰まるような感触」
「教本にない診断だ」
「教本が書かれた時、この患者はいませんでした」
テジュは一拍置いた。
「面白い」
それだけ言って、自分の処方箋に戻った。
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試験官が診断結果を読み上げようとした時、テジュの患者が吐血した。
血が床に落ちた。テジュが固まった。
クァンは既に動いていた。男の背を叩き、肩甲骨の下の一点に指を食い込ませた。男が咳き込んだ。黒い痰が出た。続けて圧した。また出た。
「内臓の腐敗です」
試験官に向かって言った。
「獄舎の湿った壁に生える菌による。肺熱の処方では届かない。解毒を先に行い、それから肺を治す順番が要ります」
テジュが立っていた。動いていなかった。
クァンはテジュを見た。
「貴方の診断は間違っていなかった。見えているものを正確に読んだ。俺はそれに加えて、この男が生きてきた場所を診ました」
「……泥を診た、ということか」
「泥の中に、答えがあった」
テジュはしばらくクァンを見ていた。それから頷いた。一度だけ、はっきりと。
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試験官が結果を記録した。
クァンの診断が正確だった。テジュの診断は標準的だった。差が開いた。
周囲がざわめいた。
クァンは患者の傍らにいた。吐血した男が、荒い呼吸をしていた。まだ生きていた。処刑まで数日ある。その間に、できることをする。死刑囚だから何もしない、という考え方が、クァンにはなかった。
どうせ死ぬ命などない。
ソックが死んだ夜、医院の門が閉まった。あの夜から、クァンはその考えを持ち続けた。
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壇上でミョンファンが見ていた。
テジュが負けた。テジュは優秀だった。経典を完全に理解し、実技も確かで、家柄もある。ミョンファンが育てた。次の世代の典医監を担う人間として、手をかけてきた。
そのテジュが、泥から出てきた馬医に、手技で劣った。
論理ではなかった。経典でもなかった。
指が、知っていた。
ミョンファンは椅子の手すりを握った。
この感覚を知っていた。かつて親友のマファンが、自分の及ばない何かを持っていた時、同じ感覚があった。あの時は羨望だったものが、今は別の名前に変わっていた。
恐怖だった。
マファンは死んだ。その手の記憶が、この男の中に生きている。
「ペク・クァン」
呟いた。
試験終了の鐘が鳴った。
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廊下でソンハが待っていた。
「合格だな」
「まだ結果は出ていません」
「出る」
ソンハはクァンを見た。
「お前が勝つことは、チニョンにとっていいことだ。だが同時に、大きな的になるということでもある」
「知っています」
「知っていて進むのか」
「他に道がないので」
ソンハは少し間を置いた。
「……チニョンを頼むぞ」
言い方が変わっていた。命令ではなかった。
クァンは頷いた。
廊下を歩いた。窓の外に、漢陽の屋根が並んでいた。遠くに山が見えた。
合格が出れば、医官になる。医官になれば、ミョンファンと同じ場所に立つことになる。その場所で、何が待っているか。
怖くなかった、と言えば嘘だった。
怖かった。それでも、足が止まらなかった。
泥の中でしか覚えられなかったことが、今日、役に立った。それだけが確かだった。それだけで、十分だった。




