第11話
島に着いた日、クァンはチニョンの言葉を思い出した。
出発の朝、彼女は救急箱を差し出しながら言った。目が真剣だった。
「もし誰かが倒れても、貴方が処置してはいけない。今の立場で人に鍼を打てば、それは救命じゃなく大罪になる」
クァンは受け取った。分かっていると言った。
分かっていた。理屈では。
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耽羅近海の孤島。王室直轄の牧場が広がる、海に切り取られた土地だった。都の医官が来るのは数ヶ月に一度。それ以外は、島の医師が一人いるだけだった。
軍馬に蔓延する奇病の調査が、クァンたち四名の馬医に課された仕事だった。
三日間、馬を診た。糞を調べた。飼料を調べた。水源を調べた。原因の輪郭が見えかけていた。
三日目の夜、ギテが崩れた。
年配の馬医だった。共に作業していた、その場に倒れた。胸を押さえて、声にならない声を出した。顔が土色になった。唇が紫になった。
クァンは膝をついた。脈を取った。乱れていた。速く、弱く、飛んでいた。心臓だ。急性の発作だ。このまま放置すれば、夜明け前に止まる。
「島の医師はどこだ」
「昼間に隣の島へ。戻るのは明朝だと」
他の馬医たちが立っていた。何もできない顔をしていた。できないのではなく、しない顔だった。
クァンはチニョンの箱を見た。中に銀鍼があった。
脳裏にチニョンの声が鳴った。*大罪になる。*
ギテの呼吸が、また浅くなった。
クァンは箱を開けた。
「薬箱を持ってこい」
「馬鹿な。お前は馬医だぞ」
「死なせるよりはマシだ」
静かな声だった。自分でも驚くほど静かだった。迷っていなかった。迷い終わった後の声だった。
「罪なら全部俺が背負う」
ギテの胸元をはだけた。
人間の経絡は馬とは違う。だが、命の通り道という意味では同じだ。滞っている場所を見つけて、そこを開ける。老医師に教わった手の使い方、牧場で覚えた指の感覚、すべてをここに集める。
鍼を構えた。
正中線上、胸骨の下。そこに、沈めた。
ギテの体が跳ねた。
詰まっていた息が漏れた。喘鳴が収まった。唇の紫が、少し薄れた。
呼吸が戻った。
クァンは鍼を抜かずに、角度を微調整した。脈を確かめた。乱れが、減っていた。完全ではない。まだ危うい。だが、夜明けまでは保つ。
「……繋がった」
誰かに言ったのではなかった。
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クァンはギテの手を握って、朝まで動かなかった。
眠らなかった。眠れなかったのではなく、眠るつもりがなかった。この手の脈が変わった時、すぐに気づけるように。
夜が長かった。
ソックが死んだ夜のことを、何度も思った。あの夜も、誰かの手を握っていた。間に合わなかった。今夜は間に合った。それだけが違った。
夜明けが来た。
ギテの呼吸が、深くなっていた。
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島の医師が戻ってきた。官憲と一緒だった。報告が先に届いていたらしかった。
厩舎に踏み込んできた医師が、ギテの首筋を見た。鍼の痕があった。
「誰が打った」
クァンは立ち上がった。
「私です」
周りの空気が変わった。感謝ではなかった。軽蔑と、恐怖と、それから安堵だった。責任の所在が決まった時の安堵だった。
「馬医が、人に鍼を打ったのか」
医師の声が低くなった。
「王法への反逆だ。医学の聖域を賤民が汚した」
クァンは反論しなかった。
間違っていないと思っていた。ギテは生きている。それは事実だった。だが、法は事実を見ない。身分を見る。何をしたかより、誰がしたかを見る。それがこの国の形だった。父マファンが死んだ時から、何も変わっていなかった。
後ろ手に縛られた。
引き立てられる時、ギテが目を開けていた。クァンを見ていた。何か言おうとした。言えなかった。
クァンは目で言った。いい、と。それだけ伝えた。
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小舟が島を離れた。
秋の海が灰色だった。波が低かった。静かな海だった。こういう海の方が、かえって遠く感じる。
クァンは縄で縛られたまま、船底に座っていた。
「俺は間違っていない」
声に出した。兵に聞かせるためではなかった。
「死なせるよりは、マシだった」
自分に言い聞かせているのか、確認しているのか、自分でも分からなかった。どちらでもよかった。間違っていないという事実は、縄の有無では変わらない。
ただ。
チニョンの顔が浮かんだ。
出発の朝、救急箱を差し出した時の顔。あの目が言っていたことは、禁を破るなということだけではなかった。お前が壊れることを、私は恐れていると言っていた。
その顔に、今夜の報告がいく。
それだけが、重かった。
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漢陽では、コ・ジュマンがクァンの抜擢を画策していた。
首医になって最初の仕事として、優秀な若手馬医を医官に引き上げる。根回しが進んでいた。あと少しだった。
その部屋に、報告が届いた。
コ・ジュマンは文書を手に、しばらく動かなかった。
廊下の向こうで、ミョンファンが歩いていた。足音が止まった。
「コ署長。残念なことでしたな」
声に温度がなかった。
「優秀な馬医だったようですが、身の程を弁えないとは。惜しいことです」
足音が遠ざかった。
コ・ジュマンは文書を机に置いた。
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チニョンに報告が届いたのは、夕刻だった。
文書を読んだ。読み終えた。
救急箱を自分で渡した。中に銀鍼が入っていた。使うなと言った。使った。
その結果がこれだった。
窓の外が暗くなっていた。チニョンは立ったまま、しばらくそこにいた。怒っているのか、悲しんでいるのか、自分でも整理できなかった。どちらでもあって、どちらでもなかった。
あの男は分かっていてやった。分かった上で、それでも打った。
それがクァンだと、知っていた。知っていて、止められなかった。
止められる言葉が、この世にあるとも思っていなかった。
チニョンは文書を折り畳んだ。
動かなければならないことがある。コ・ジュマンのところへ行く。ミョンファンに何ができるかを調べる。クァンが戻ってくるまでに、できることをやる。
泣くのは、後でいい。
廊下に出た。足音を立てて歩いた。




