表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第1部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/50

第10話

チニョンの呼吸が、浅くなっていた。


クァンは彼女の脈を指で押さえたまま、動けなかった。速い。細い。熱が上がっている。薬は煎じた。原因も分かった。だが、解毒が間に合うかどうか、それだけが分からなかった。


村の外では役人が叫んでいた。


「痘瘡だ。村を封鎖しろ。家を焼け」


医官たちが頷いていた。クァンの中毒説を報告した時、誰も聞かなかった。貝塚と醸造所の残骸を持ち込んだ時も、鼻で笑われた。「馬医の妄言だ」と言われた。証明する手段が、まだなかった。


「ペク・クァン」


署長コ・ジュマンの声が背後から来た。


「お前の目は死んでいないはずだ。諦めた顔をするな」


クァンは返事をしなかった。


チニョンの指が、かすかに動いた。


クァンの手を、握り返した。力はなかった。それでも、握ろうとしていた。


「……信じてる」


声になっていなかった。唇が動いただけだった。それだけだった。


クァンは立ち上がった。


---


水源を遡った。二度目だった。一度目に見たものを、もう一度見るためではなく、一度目に見落としたものを探すために。


長雨で崩れた土砂の下を、手で掘った。泥が爪の中に入った。膝が濡れた。


古い貝殻が出てきた。


変色していた。白ではなく、黄みがかった茶色だった。その下に、割れた瓶があった。酢の匂いがした。古い、腐りかけた酢だった。放棄された醸造所の残骸だと、後から分かった。


クァンは貝殻と瓶の破片を持って立ち上がった。


これが土壌に染み込み、地下水と混じり、井戸に流れた。牛が飲んだ。人が飲んだ。貝の毒と腐敗した酢が土の成分と結びついて、見たことのない毒液になった。医学書には載っていない。この目で見て、この手で掘って、初めて分かる答えだった。


医官たちのところへ戻った。


「原因が分かりました」


貝殻と瓶を差し出した。


医官の一人が、それを一瞥した。


「貝と酢だと」


「はい。水源の上流に——」


「戯言を」


男は顔を背けた。


「この規模の災厄が、そんな些細なことで起きるはずがない。村を焼いて封鎖する。お前は虚偽の報告をした。連行しろ」


兵がクァンの腕を掴んだ。


「待ってください」


声がした。


全員が振り向いた。


チニョンが、壁に手をついて立っていた。立っているだけで精一杯の体だった。それでも立っていた。


「その薬を、私に飲ませてください」


署長が持っていた椀を見ていた。クァンが原因を特定して調合した解毒薬だった。まだ誰も飲んでいなかった。効くかどうか、証明されていなかった。


「チニョン、駄目だ」


クァンが言った。


「お前の体は——」


「クァンさんが見つけた答えを、私が証明します」


チニョンはクァンを見た。


「それが私の戦い方です」


クァンは止められなかった。止める言葉が出なかった。この女は、自分で決めた時には動く。泥棒市で荷物を盗んだ時から、そうだった。ミョンファンの屋敷で生き延びた八年間も、そうだったはずだ。


チニョンは署長の手から椀を受け取った。


飲んだ。


一息で飲んだ。


---


誰も喋らなかった。


クァンはチニョンの傍らに膝をついた。脈を押さえた。速い。まだ速い。変化が出るまで、どれくらいかかるか分からなかった。一刻か、二刻か、それとも朝まで待たなければならないか。


医官たちが壁際に立って見ていた。腕を組んでいた。嘲笑を浮かべている者もいた。


クァンは見なかった。


チニョンの脈だけを見ていた。指先に神経を集めた。変化を待った。父ソックが馬の脚を処置していた夜、同じように脈を押さえて夜明けを待ったことを思った。牧場で仔馬の首筋に鍼を打って、朝まで動かなかった夜を思った。待つことは、諦めることではない。待ちながら、手を動かし続けることが、自分にできる唯一のことだった。


一刻が過ぎた。


チニョンの脈が、変わった。


速さが、落ちた。細さが、戻ってきた。


頬に色が差した。ごくかすかな、血の気だった。


荒かった呼吸が、深くなった。


チニョンの目が開いた。


「……熱が」


かすれた声だった。


「引いていく」


クァンは返事をしなかった。


脈を押さえたまま、もう少しだけ確かめた。上がってこない。下がり続けている。解毒が始まっている。


それから、ようやく息を吐いた。


「……よかった」


それだけだった。泣かなかった。叫ばなかった。ただ、手の力を少しだけ緩めた。


---


利川の村は救われた。


井戸が封じられ、残った水源が浄化され、倒れていた村人たちはクァンの解毒薬で快復した。報告が王宮へ届いた。


数日後、漢陽で任命式が行われた。


「恵民署長コ・ジュマン。利川の難局を救った功績、誠に天晴なり。本日より、首医(スイ)に任ずる」


祝辞の列の中に、ミョンファンがいた。


表情は動かなかった。長年培った制御だった。だが指だけは、袖の中で白くなるほど握られていた。


コ・ジュマンではなかった。あの馬医だ。貝と酢の話を信じた老医師ではなく、その答えを持ってきた名もない馬医が、この流れを作った。自分が「首医」の座を確実なものと思っていた時に、あの男が現れた。利川で現れ、神駿の件で現れ、そのたびに何かを変えた。


ミョンファンの目が、門の外へ向いた。


チニョンと並んで歩くクァンの後ろ姿があった。


二人の距離が、以前より近かった。それも、気に入らなかった。チニョンはマファンの娘として手元に置いた。自分の懺悔の形として。その娘が、あの男に近づいている。


「ペク・クァン」


呟いた。声に出さなかった。


「その手、いつまで動くかな」


空が曇っていた。


---


クァンはその視線を知らなかった。


チニョンと並んで王宮の門を出た。人の往来に混じった。秋の風が吹いた。


「コ署長が首医になられた」


チニョンが言った。


「よかった」とクァンは言った。


「貴方の手柄なのに」


「俺は馬医です」


それだけ言った。嘘ではなかった。悔しくもなかった。コ・ジュマンが首医になれば、正しい医術が広まる場所が増える。それで十分だった。今は。


いつかは、十分ではなくなるかもしれない。


その時のことは、その時に考える。


チニョンが隣を歩いていた。利川で倒れた時より、顔色が戻っていた。まだ本調子ではなかった。それでも歩いていた。


クァンは前を向いて歩いた。


背後に何かがある気がした。振り返らなかった。


今は、前だけを見ていればいい。


---


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ