窓越しの小さな一歩
別荘に移ってから、季節がひとつ巡るほどの月日が経った。
ルミエルの身体はゆっくりと回復を見せ、かつて痛々しかった傷跡も、今では薄く白い肌の中に溶け込むように目立たなくなってきていた。
医師の手当てとばぁやの献身的な世話が功を奏したのだろう。栄養のある食事と、静かで穏やかな環境が、彼女の体を確実に癒していった。
しかし、心だけはまだ別の場所に取り残されているかのようだった。
屋敷の廊下を歩いてみたいという気持ちは確かにあるのに、扉の向こうに他人の気配を感じると、ルミエルはすぐに足を止めてしまう。
誰かと目を合わせることすら、まだ怖いのだ。
そんな彼女に少しでも安心を与えようと、ばぁやは毎日のように絵本やイラストを使って言葉を教えた。
動物や花、食べ物、日用品――ページをめくるたびにルミエルは小さく目を輝かせ、絵の指をなぞりながら意味を確かめる。
覚えは驚くほど早く、どんな絵を見せても、次に示すときにはすぐに理解している。
理解しているのに、口から声が出ることはなかった。
ばぁやは何度か優しく促してみたが、ルミエルは唇を震わせるだけで、音にならない。
その様子を見かねて医師に診てもらったところ、肉体的な異常は一切なく、ただ――
「声を出すことそのものに、強い恐怖が結びついているのでしょう」
と、静かに告げられた。
医師の言葉に、ばぁやは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
癒えるのを待つべきは、傷ではなく心。
ルミエルの中に残る「恐れ」という見えない傷跡は、まだ時間を必要としていた。
ある日を境に、ルミエルが窓辺に立つ時間が増えていった。
分厚いガラス越しに外の世界をじっと見つめ、遠くの木々が風に揺れるのを、まるで憧れるように目で追っている。
その瞳の奥には、ほんのわずかだが「外へ出たい」という願いの光が宿っていた。
ばぁやはそれに気づくまでに時間はかからなかった。
部屋の掃除をしながら何度も、窓際に佇む小さな背中を見つけたのだ。
最初は気のせいかと思ったが、日に日にその時間が長くなり、窓辺に立つ姿が日課のようになっていった。
「……外に、出たいのですね」
小さく呟いた言葉に返事はない。
けれど、ルミエルの指先がそっとガラスに触れるのを見て、ばぁやは確信した。
その日の昼下がり、ばぁやは静かにクローゼットを開けた。
中から柔らかな生成りのポンチョを取り出し、そっとルミエルの肩にかける。
驚いたようにルミエルが顔を上げると、ばぁやは優しく微笑んだ。
「ルミエル様。外に行きましょう。
ばぁやが、誰にも会わないようにしておきましたから」
その声には、母が子を励ますような温もりがあった。
ルミエルはしばらく戸惑ったまま立ち尽くしていたが、やがて、ためらいがちにガラスの向こうへ目を戻した。
恐怖と期待がないまぜになった瞳の奥で、小さく光が揺れる。
ばぁやはその表情を見て、そっと部屋を後にした。
彼女はすでに、庭に面した道を人払いしておいた。
庭師も使用人も、この時間だけは別の棟で用事をしている。
誰の視線にも触れない、二人だけの時間ができていた。
ルミエルがようやく部屋の扉を開けたのは、穏やかな陽が傾きはじめた午後だった。
ばぁやの背を頼りに、静かに廊下を歩き出す。
長い間閉ざされていた世界の向こうから、ほのかに風の匂いが流れ込んできた。
薄暗い廊下の窓越しに見える庭は、夏の名残を抱きながらも、すでに秋の色に染まりつつある。
屋敷の中では、ばぁやの言葉どおり、誰の姿もなかった。
静寂が優しく包み込み、足音だけが石床に小さく響く。
やがて、重い扉の向こうから柔らかな風が吹き抜けた。
初めて肌に触れる外気――
わずかに冷たく、けれどどこか懐かしい。
ルミエルは思わず目を閉じ、胸いっぱいに息を吸い込む。
木々の匂い、湿った土の香り、そしてほのかに甘い花の香が混ざり合い、心の奥まで染み込んでいく。
彼女の瞳がゆっくりと輝きを帯びた。
足元の落ち葉を踏みしめながら、小さな歩幅で外へ進む。
やがて、庭の一角でふと立ち止まった。
そこには、風に揺れる淡紫のシュウメイギク(秋明菊)と、金色に輝くキバナコスモスが群れ咲いていた。
秋の陽を受け、花弁が透き通るように光っている。
ルミエルの目がいっそう大きく開かれた。
次の瞬間、小さな足が軽やかに駆け出す。
紺色の髪が光を受けて、夜空のように揺れながらきらりと光る。
ポンチョの裾がふわりと舞い、ばぁやの手が空を切った。
「ルミエル様……! あまり急がないでくださいませ……!」
慌てて後を追いながらも、ばぁやの頬には笑みが浮かんでいた。
その笑みには、安堵と喜びが入り混じっている。
走るという動作――それはルミエルが、ようやく心を外に向けた証だった。
ルミエルは花の前にしゃがみ込み、指先でそっと花弁を撫でる。
風が頬をなで、紺の髪が光にほどけるように揺れた。
その光景は、長い間閉ざされていた心に、初めて“季節”が戻ってきた瞬間のように美しかった。
ルミエルが花の前にしゃがみ込んでから、しばらくの間、風と光だけがその場を包んでいた。
彼女はじっと花々を見つめ、淡い紫の花弁をそっと指先でなぞる。
その動きは、まるで壊れものを扱うように慎重で、花が揺れるたびに瞳の中の光も揺れた。
ばぁやは少し後ろでその様子を見守っていたが、やがてゆっくりと歩み寄り、ルミエルの隣に腰を下ろした。
乾いた芝の感触がスカート越しに伝わる。
見上げれば、淡く金を帯びた空の下で、木々の葉がさらさらと音を立てていた。
「ルミエル様、綺麗ですね……」
そう言いながら、ばぁやはそっと指を伸ばし、ルミエルの目の前に咲く一輪の秋明菊を摘み取った。
茎が小さく切れる音がして、ふわりと花の香りが漂う。
彼女はその花をルミエルの掌にそっと置き、穏やかな声で続けた。
「この花は後で押し花にして、保存いたしましょう。
けれど……庭師には、花を抜いたことは内緒ですよ。」
そう言って、ばぁやは口元に人差し指を立てた。
「しー」と小さく笑うその仕草に、ルミエルの目がぱっと輝く。
彼女は少し間を置いて、真似をするように自分の指を唇の前に当て、にこりと笑った。
その笑顔は、これまでの沈黙を破るように柔らかく、まるで陽の光が差し込む瞬間のように明るかった。
ばぁやは胸の奥が熱くなるのを感じ、そっとその小さな頭を撫でる。
「……いいえ、本当にお綺麗になられましたね、ルミエル様」
紺色の髪が指の間をすり抜け、風が二人の間を優しく渡っていく。
庭の片隅で咲く小さな花たちも、まるでその笑顔を祝福するかのように静かに揺れていた。
時を同じくして――。
ルベルは執務室の机に向かい、積み上げられた書類に黙々と目を通していた。
蝋燭の火が小さく揺れ、紙の上に長い影を落とす。
時計の針が刻む音だけが部屋に響き、外の世界など存在しないかのように静かだった。
そのとき、ふと廊下の方から小さな笑い声が漏れてくる。
耳に届いたのは、数人のメイドたちの談笑だった。
何気なく聞き流そうとしたその瞬間――ひとりの声が、彼の手を止めた。
「聞きました? ばぁやがルミエル様を外に出したいから、人が通らないようにって――
先ほどはお二人で庭に行かれたそうですよ」
もうひとりが弾む声で応じる。
「私なんて、偶然ルミエル様をお見かけしましたの。
外の光の中にいらっしゃって、とても綺麗で……」
「まぁ、羨ましいですわね」
その笑い声がだんだん遠ざかり、やがて廊下の角を曲がって消えた。
しかし、ルベルの中では何かが静かにざわめいていた。
指先に持っていた羽ペンが紙の上で止まり、インクの染みがじわりと広がっていく。
彼はゆっくりとペンを置き、背もたれに身を預けた。
しばらくの間、天井の一点を見つめたまま、動かない。
「……外に、出たのか」
低く、誰にも届かぬ声がこぼれる。
その響きには驚きよりも、深い静けさ――いや、胸の奥でひそやかに燃える痛みのようなものが滲んでいた。
ルミエルが外に出た。それは喜ばしいことだ。
彼女がようやく心を開き始めた証だ。
理屈では理解している。
だが、どうしてその一歩を踏み出す時、自分はその場に居なかったのか――その事実が、妙に胸に刺さった。
ルベルは立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
窓の外は夕暮れに染まり、庭の木々が薄闇の中で揺れていた。
そこには、ほんの数時間前、ルミエルが立っていた場所がある。
その姿を想像した瞬間、胸の奥が微かに熱くなる。
「……ばぁや、か」
呟いた声は苦く、どこか拗ねたようでもあった。
嫉妬という言葉を使うには、あまりに静かで、幼い感情。
それでも確かに、彼の中に芽生えていた。
誰にも見せることのない、淡く苦い痛みが。
ルベルがゆっくりと立ち上がると、近くにいたエルがすかさず釘を刺した。
「まさか、この書類を放置して行かれないですよね?」
「少し様子を見るだけだ」
そう返したルベルに、エルは小さく咳払いをしながら続ける。
「私は先日、ルミエル様と言葉の練習をしていたのですが……本当に優秀な方で。
喋れなくても、基本の文字はすぐに覚えました。
そんなルミエル様が、もし主君が仕事をサボったと知ったら……幻滅するかもしれませんよ」
エルは大袈裟に肩をすくめ、知ってか知らずか含み笑いを浮かべる。
その瞬間、ルベルの眉がぴくりと動いた。
彼の心の奥底で、甘く苦い感情がじわりと膨らんでいく。
「……なに?」
ルベルの低い声に、エルは微笑を崩さず、さらに追い討ちをかける。
「あ、主君はルミエル様が文字を書けるなんて知らなかったのですね。
私はお礼に手紙までいただきましたのに……。
それなのに主君は仕事を終わらせないままですから……可哀想に」
その言葉で、ルベルの目が一瞬鋭く光った。
唇をぎゅっと結び、背中を少し硬くさせる。
嫉妬と苛立ちが、理性よりも先に顔に出てしまう瞬間だった。
「……エル、余計なことを言うな」
声には思わず怒気が混ざる。
エルはわざとらしく肩をすくめて、からかうように目を細めた。
「だって、事実ですもの。無理に否定する必要はありませんよ、主君」
ルベルはその言葉にさらに苛立ちを覚え、机を軽く拳で叩いた。
その音が、静かな執務室に響き渡る。
「……くっ……俺の目の前で、何をそんなにニヤニヤしている」
しかしその視線の奥底には、怒りだけでなく、心のどこかでルミエルのことを思う柔らかさも隠されている。
嫉妬と優しさ――混ざり合った感情が、静かに胸の中で波打った。
エルの言葉に火がついたかのように、ルベルは執務室で立て続けに書類を片付けていった。
怒涛の勢いで仕事を終わらせるその手は、まるで誰かに見られているかのように止まることを知らない。
その様子を見守るエルは、端正な顔に柔らかな笑みを浮かべていた。
「ふふ……主君、本当に必死ですね」
小さく呟くその声に、微かに誇らしさも混ざっているようだった。
ルベルがふと顔を上げ、窓の外を見やる。
「ルミエルが晩ご飯を食べるのは何時だろうか」
「6時ですかね。まだまだ、食べる量は普通の子供ほどではないとのことなので、食べ終わるのも早いかと」
エルが穏やかに答える。
ルベルは机上の時計に目を落とす。
あと二時間――短い時間だ。
それでも、残りの仕事をどうにか終わらせようと、必死に手を動かす。
指先に力が入り、ペンが紙を滑る音が静かな室内に響いた。
エルはその姿を静かに見つめ、優しく微笑む。
「ルミエル様のために、こんなにも真剣になれるのですね……」
夕陽が執務室の窓を赤く染め、机の上の書類も黄金色に輝いた。
ルベルの背中は硬く、しかしどこか生き生きとして見える。
外にはもう、ルミエルが歩き回った庭の光景が、柔らかく残っているかのようだった。
その光景を胸に、ルベルはさらに手を動かす。
――あと二時間。
全てを終わらせて、ルミエルが笑顔で晩ご飯を迎えられるように。
静かな執務室に、夕暮れの光と、少しだけ甘い気持ちが満ちていった。




