小さな命と優しい手
静かな部屋は、外の時間とは切り離されたように、穏やかに時を刻んでいた。
おやつの片付けと、ルミエルが目を覚ました時の支度を終えたばぁやは、昼下がりの柔らかな陽に包まれて、ついウトウトとし始めていた。
そんな穏やかな空気を破るように、勢いよく扉が開く。
重たい音が部屋に響き、ばぁやの肩がびくりと跳ねた。
「ルベル様! 静かに入ってこれないのですか!」
叱責の声に、入ってきた黒髪の青年――ルベルは一瞬たじろぐ。
だが視線はすぐに、ベッドの上に眠るルミエルへと向かった。
「……どんな魔法を使った? 怯えてると思って急いで仕事を片付けてきたんだぞ。」
安らかな寝顔を見て、ルベルの声には安堵と少しの拍子抜けが混じる。
その様子に、ばぁやは小さく笑みを浮かべて言った。
「お菓子とジュースを少し口にしたら、すぐに眠ってしまいましたよ。」
ばぁやは静かに、しかし手早くお盆にお茶と小さな湯呑みを載せてルベルに差し出した。ルベルはそれを受け取りながら、いつもの強い口調とは違い、どこか緊張を滲ませている。
「それにしても…おやつもあまり口にできないし、体もだけど、精神的な疲労も相当でしょうね。」
ばぁやの声には、穏やかながらも心配がにじんでいた。
ルベルは湯呑みの縁に唇を寄せながら、少し眉を寄せて答えた。
「これでも、最初に比べれば、食べるようになった。反応も出てきたんだ。」
その声には、わずかに誇らしさと安堵が混じっている。
「それにしても…まさか、人間の娘を連れてくるなんて…一体何を考えているんです?」
ばぁやの言葉は疑念を含み、しかし怒りよりも戸惑いが勝っていた。
「大事な娘だと確信したから連れ帰ったまでだ。誰にも文句は言わせん。」
ルベルの瞳は真剣で、微塵の揺るぎもない。
ばぁやは何も言わず、静かにルミエルの様子を見守る。寝息は浅く、胸の上下が微かに揺れている。手を伸ばして軽く頬に触れたとき、身体の熱が少し伝わってきた。
「今日は、このまま起こさず、ゆっくり休ませた方がいいでしょう。息も浅いですし、さっき抱き上げたときに少し熱っぽかった…これから熱が上がるかもしれません。」
ばぁやはそう言うと、用意周到に医療用具を整え、必要な薬も手元に揃えていた。まるで戦場に備えるような、しかしどこか家庭的な手つきで準備を進めるばぁやの姿に、ルベルも言葉を失い、静かにうなずくだけだった。
その夜、ばぁやの心配は的中した。ルミエルは高熱にうなされ、唸り声を漏らしながら布団の中で身をよじっていた。意識が定まらず、薬も飲めない状態だった。
ルベルは焦りと苛立ちを募らせ、手に持った薬瓶を無意識に握り締める。顔をしかめ、床を小さく踏み鳴らすたびに、緊張感が部屋に漂う。
そんなルベルを横目に、ばぁやは冷静そのものだった。手慣れた様子でタオルを水で冷やし、そっとルミエルの額に乗せる。冷たい感触にルミエルは微かに眉をひそめた。
「病人の前だよ。イライラしてるな。外に居なさい。」
ばぁやの指摘に、ルベルはぎこちなく肩を落とし、深く息を吐いた。
その時、ルミエルの目がゆっくりと開き、辛そうな表情でルベルとばぁやを見上げた。まだ体調が悪い自覚はないらしく、無理に起き上がろうとする。しかし力は足りず、体はすぐに布団に崩れ落ちた。
「起きる必要ないよ。もう少し寝なさい。」
ばぁやは優しく手でルミエルの目を覆う。温かく柔らかい手のひらの感触に、ルミエルは抵抗することなく夢の中へと戻っていった。
ルベルは目を丸くしてばぁやを見つめる。
「それは…何かのおまじないなのか?」
ばぁやは微笑み、手から柔らかい光を漂わせた。
「そうですね、ルベル様にはよく効きました。実は眠くなる魔法をかけていたんですよ。」
ルベルは呆れた顔で小さく息を吐く。
「そういうことか…」
その瞬間、静かにドアが開き、夜の薄明かりの中に誰かの影が差し込んだ。部屋の空気が微かに揺れ、緊張と安堵が混ざった瞬間だった。
「主君。ルミエルが落ち着いたようですので、こちらも続きお願いします。」
疲れきったエルが静かに部屋に入ってきた。額に薄く汗を浮かべ、服は軽く乱れている。仕事を終えたというには程遠く、背中には山のように書類や資料を抱えていた。
しかし、その疲労は全て嘘だった。実際には、ルミエルの体調が気がかりで手につかない仕事を、無理やりエルに押し付けてきたのだ。ルベルは顔には出さないものの、焦りと苛立ちが混ざった態度で、仕事を完璧にこなそうとするエルを責めるような目で見つめていた。
ばぁやはその様子を静かに見つめ、わずかにため息をつく。
「どうやら、ルベル様の方が手がかかるようですね。」
小さな笑みを浮かべながら、続けて言う。
「ばぁやに任せて。仕事を終わらせなさい。朝一で、顔を見せてやるといい。」
ばぁやの言葉に、ルベルは少し顔を曇らせつつも、素直にうなずき、再び仕事に戻るため部屋を出ていった。その背中には、微かに焦燥と責任感が混ざっている。
残されたばぁやは、静かにルミエルの傍らに腰を下ろす。部屋には、夜の静けさと微かな湯気、そして布団に横たわる少女の穏やかな呼吸だけが漂う。すべての気配を感じ取りながら、手早く、しかし丁寧に看病の準備を整えていく。
ばぁやは、夜を徹してでもルミエルを守る覚悟を胸に、静かにその手を温かく添えた。
早朝の柔らかな光が、障子を通して部屋に差し込み始めた頃、ルミエルの熱は下がり、寝息もようやく規則正しいリズムを取り戻していた。布団の中で静かに胸を上下させるその姿を見て、ばぁやはふと考えた。
「疲労から来る熱だったのかもしれない…」
話を聞けば、元居た宿からここまで数日をかけて移動してきたという。普通の健康な子供でも疲れる道のりだ。ましてや、ここまで体調を崩した少女が耐えられる旅路ではないことは明白だった。
ばぁやはそっと立ち上がり、ゆっくりとルミエルの着替えを用意する。柔らかな水色のワンピースを手に取り、袖を整えながら、布団に横たわる少女の顔をちらりと見た。
その時、ルミエルが小さくまぶたを開け、眠そうな瞳でばぁやを見上げた。気配に気づいたばぁやは微笑みながら近づき、優しく声をかける。
「おはようございます。元気になりましたか?」
ルミエルは弱々しくも、疲れを見せずに微笑んで答えた。その笑顔に、ばぁやは心底ほっとし、少女の回復を感じた。ルミエルの頬が少し赤く染まり、温かい雰囲気が部屋に広がる。
「こちらの服に着替えてもらいますよ。」
ばぁやは水色のワンピースを見せ、そっと手渡すように差し出した。
「ルミエル様の髪と合うと思うんですよ。」
柔らかく、温かみのある声に、ルミエルの心も自然とほぐれていく。小さな手で布地に触れながら、少女はわずかに笑みを浮かべ、ばぁやに従って着替える準備を始めた。
部屋には朝の静けさと、布団や衣服の柔らかい感触、そして二人の間に流れる穏やかな時間だけが漂っていた。
ルミエルの着替えが終わったところで、扉が静かに開き、ルベルが部屋に入ってきた。朝の光に照らされ、少し眠そうな髪が柔らかく揺れているルミエルの姿に、ルベルは自然と目を細めた。
「今日も可愛いな。服、似合ってるぞ。」
当たり前のように褒めるルベルの声は、穏やかで少し誇らしげだった。
ばぁやはその様子を横目で見て、くすりと笑う。
「あんなに無表情なあんたが、ここまでデレるとはね。」
ルベルは軽く肩をすくめ、ばぁやの言葉を遮るように言う。
「ほっといてくれ。」
その態度には、余計な口出しを拒む強さと、自分とルミエルの時間を守ろうとする意思が感じられる。
「俺とルミエルは朝食に行く。ばぁやは今日一日、休んでろ。」
一晩ほとんど眠っていないであろうばぁやに向ける言葉には、配慮と指示が混ざっていた。
「では、お邪魔虫はここで退散させていただきます。」
ばぁやはにっこり笑い、手早く部屋を後にした。
ルベルは当たり前のようにルミエルをそっと抱き上げる。その腕の中で、ルミエルはまだ小さな体をほんの少しだけルベルに預けるようにして、安心感を漂わせていた。
「人が来ないように言っているから、二人でゆっくり食べような。」
ルベルの声は低く、優しく、しかし決して緩まない。
ルミエルは相変わらず大きな反応は見せない。しかし、目の奥に微かな光が宿り、口元には小さな笑みが浮かぶ。言葉には出さなくても、そのわずかな仕草が、嬉しさを伝えていた。
「早く喋れるように練習しないとな。」
ルベルは微笑みながら言い、抱き上げたルミエルを少し揺らす。その瞬間、二人の間には言葉にしなくても通じ合う、穏やかな朝の空気が流れた。
食堂に着いたルベルとルミエルは、目の前に広がる料理の山に思わず固まった。
朝食としてはあまりに異常な量。皿に並べられた料理は、少なくとも五人前はありそうで、香ばしい匂いと鮮やかな彩りが食欲をそそるものの、量の多さに圧倒されて言葉を失った。
「ここの、屋敷の奴等はどうなってるんだ!」
ルベルは呆れた声を上げ、思わず頭を抱える。
そのタイミングで、後から入ってきたエルが淡々と事情を説明し始める。
「ホールに居たメイド達の間で、ルミエル様が可愛いという噂が広まっておりまして。取り入ろうとする使用人たちが争い、ルミエル様の専属侍女候補を狙っているのです。料理長も、痩せ細ったルミエル様を心配し、思わず大量に用意してしまった結果です。」
ルベルは再び頭を抱え、ため息をつく。
「幼女一人で、ここまで騒ぎになるとは…」
確かに、この屋敷に集められた人材は、基本的に優秀な者ばかりだ。しかし、悪魔たちの成長は人間よりも早く、気がつけば青年になっている者も少なくない。幼い子供が屋敷に現れれば、それだけで珍しがられ、目立つのは当然だった。
ましてルミエルは、年齢の割に小さく、華奢な体つきをしている。守る側の心配も理解できるし、狙われる理由も納得がいく。
ルベルは深く息を吐き、目の前の料理の山を眺めながら、改めてこの屋敷での立ち位置の複雑さを実感する。小さな少女一人が、ここまで周囲の注意と配慮を引き寄せる存在になるとは、予想もしていなかったのだ。
仕方なく、ルベルとルミエルは食べられる量だけを口に運んだ。
大人のルベルは普段通り、一人前以上を難なく平らげる。しかし、ルミエルはわずか五、六口で手を止めた。小さな身体にとって、もう十分すぎる量だったのだ。
その様子を見つめながら、ルベルは優しく微笑み、指で口元を指してもう少し食べるよう促した。
「もう少し食べたらどうだ?」
しかし、ルミエルは首を横に振る。拒否するわけではないが、今はもう無理だという意思を静かに示していた。
ルベルは小さくため息をつき、理解したように頷く。
「やっぱりまだ、無理か…」
立ち上がると、そっとルミエルを抱き上げ、食堂を後にする。
「残った料理は片付けてくれ。」
その声には、責任感と穏やかな余裕が混ざっていた。
二人が食堂を出ると、朝の光が差し込む廊下に柔らかい影が落ちる。小さなルミエルを抱くルベルの背中は、少し肩の力が抜け、優しさに満ちていた。
こうして、賑やかな朝食の騒動は静かに幕を下ろし、二人だけの穏やかな時間が始まったのだった。




