愚行
昼間の庭は暖かく、
鳥の声があちこちで響いていた。
ルミエルは庭園の中を駆け回る。
草むらを覗き込み、
気になる枝を見つけては足を止める。
「モミジ……どこ?」
その背中を、オニキスとカリナが追っていた。
「前から思ってたんですけどぉ〜。モミジって、誰なんですかねぇ〜」
軽い調子で、オニキスが言う。
一方でカリナは、姿勢を崩さず、静かに答えた。
「ルミエル様の護衛をしていた人物のようです。」
気がつくと、見知らぬ子供たちがルミエルを取り囲んでいた。
オニキスとカリナが、すぐ後ろへと滑り込む。
その中の一人が、ルミエルを指差した。
「おい、お前。平民出身なんだってな?」
ルミエルの足が、わずかに後ろへ下がる。
「……そう、だよ」
かすれるような声。
「よくヴェルファレイン家に入れたな」
中央にいた少年が、一歩踏み出す。
「どんな手を使った?」
その視線は、あからさまな敵意を帯びていた。
ルミエルが戸惑い、言葉を失った、その時――
カリナが一歩前に出た。
「……あなた達、誰ですかぁ〜?」
柔らかな声。だが、その場の空気がわずかに張り詰める。
中央にいた子供が、顎を上げた。
「俺はダリア・ヴァルディスだ! メイド風情が、俺に逆らう気か!」
その言葉に、オニキスが小さく鼻で笑う。
「……会場で恥を晒した方の、ご子息ですね」
一瞬。
ダリアの顔が、みるみる赤く染まった。
「うるさい! 獣と平民が、俺に楯突くな! お祖父様に言うぞ!」
その一言で――
オニキスとカリナの視線が、わずかに落ちた。
空気が、重く沈む。
それを見て、ルミエルが前に出る。
小さな足音が、やけに大きく響いた。
「……そんなの、よくない」
震える声。
それでも、確かに前を向いていた。
脇にいた少女が、ルミエルを鋭く睨んだ。
「あなた、さっきから何? その話し方。ちゃんと喋れないの?」
ルミエルは目を伏せる。
「……こ、これは……」
言葉が続かない。
握った手が、小さく震えていた。
そのとき、オニキスが一歩前に出る。
「失礼なのは、あなた達です」
静かな声。
「ここに招かれている自覚も、お持ちでないようですね」
ダリアが、鼻で笑った。
「この猫、俺たちに逆らう気でいるぞ!」
空気が、ぴりつく。
オニキスの指が、ゆっくりと剣の柄に触れた――
その瞬間。
ダリアが胸を張る。
「抜いた瞬間、死刑だ」
言い切る声。
その傲慢さは、まるで父親の写しのようだった。
そのとき――
茂みが、揺れた。
小さな影が飛び出し、ルミエルの前に滑り込む。
薄茶の縞模様。
栗色の瞳。
一匹の猫が、ダリアたちの前に立ちはだかった。
「っ……モミジ!」
ルミエルの声が弾ける。
だが、その猫は振り返らない。
ただ、低く身を沈め――構える。
「なんだ? お前の猫か」
ダリアが口元を歪める。
「痛い目に遭いたいようだな」
蹴りが放たれる。
――が、空を切った。
モミジの姿は、すでにそこにはない。
「なっ……!?」
次の瞬間、背後。
軽い衝撃が走る。
「いっ……!」
一人がよろめく。
さらに、もう一人。
視界の端を、影が走る。
掴もうとした手は空を掻き、
振り下ろした拳も、すべて外れる。
モミジは、ただ静かに――
すべてを“見切っていた”。
跳び、潜り、流れるように躱しながら、
鋭く、正確に。
腕へ。脚へ。頭へ。
最小限の力で、確実に打ち込んでいく。
「なんだこの猫……!」
子供たちの動きが、明らかに乱れ始めた。
モミジは、完全にあしらっていた。
やがて――
一人、また一人と泣き出す。
「うっ……うぇぇ……!」
騒ぎが、庭に広がっていく。
モミジは小さく舌打ちした。
「……せやから、子供は嫌いなんや」
その瞬間――
「モミジ……!」
ルミエルが駆け寄り、その体を抱きしめる。
「もう、やめて……」
腕の中で、モミジは抵抗しなかった。
ただ一度、周囲を見渡す。
――遅かったか。
ざわめきが近づく。
大人たちが、次々と庭へ入ってきた。
「なんだ、みんな泣いてるじゃないか!」
鋭い声が響く。
現れた男が、ルミエルを射抜くように睨んだ。
「どういう事ですか?」
圧をかける声音。
ルミエルは息を呑む。
「えっと……これは……」
言葉が、出ない。
そのとき。
「ちょっと遊んでやったら、勝手に泣いたんや」
何事もなかったかのように、モミジが言った。
腕の中で、気だるそうに尻尾を揺らす。
「……」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、男の怒声が叩きつけられた。
「お前……獣人か!」
空気が凍りつく。
「なんでこんな獣が、ここを彷徨いている!……よく見れば、後ろのメイドと護衛もそうだな」
吐き捨てるように言い放つ。
「今すぐ追い出せ」
ルミエルの腕から、モミジが静かに降りた。
音もなく、地面へ着地する。
ゆっくりと顔を上げ――
「……なんや」
その瞳が、まっすぐ男を捉える。
「人種差別いうやつか? だとしたら――」
わずかに、口元が歪む。
「レベルが知れるなぁ」
その一言で、
男の顔が、みるみる赤く染まった。
「お前……殺されたいのか?」
低く、押し殺した声。
その言葉に、モミジはわずかに目を細めた。
「……なんや」
思い出すように、ゆっくりと口を開く。
「親子揃って、すぐ“殺す”言うんやな」
前足を舐め、毛繕いを始める。
――完全に、相手にしていない。
「それじゃあ」
視線だけを上げる。
「俺が殺しても、文句言わんでくれるんやな?」
空気が凍る。
「……猫如きが」
カインの声が、低く歪んだ。
「俺を殺せると?」
その手に、冷気が集まる。
瞬く間に、鋭い氷塊が形成され――
放たれた。
一直線の殺意。
だが。
当たらない。
モミジの姿は、すでにそこにはなかった。
「簡単や」
背後から、声。
「魔法の生成が遅い。――無駄が多すぎる」
さらに一歩、距離が詰まる。
「それに、遅い」
淡々とした評価。
「身体も軽いな。鍛えてへん」
視線が、冷たく相手をなぞる。
「才能もない。努力もない」
わずかに、口元が歪んだ。
「……俺なら」
一拍。
「数秒で、終わらせるで」
モミジの瞳が、怪しく光った。
次の瞬間――
姿が消える。
瞬きをした、その刹那。
気づけば、カインの肩の上にいた。
小さな牙が、首筋――動脈へと触れる。
「……ここ、噛み千切ったら」
低く、囁く。
「死ぬで」
空気が、凍りついた。
誰も動けない。
見ていた大人たちも、言葉を失う。
その時――
「そこまでだ」
群衆を割って、一人の男が現れる。
ルベルだった。
迷いなく手を伸ばし、モミジの首根っこを掴む。
そのまま、持ち上げ――
無造作に地面へと投げた。
「ルベル様! これは問題です!」
解放されたカインが叫ぶ。
「獣如きが、私を殺そうとしたのです!」
ルベルの視線が、ゆっくりとカインを捉える。
その一瞥だけで――
場の空気が変わった。
小さく、ため息。
「ええ。見ていました」
静かな声。
「ですが――先に殺そうとしたのは、あなたと、あなたのご子息ですよね」
カインの顔が歪む。
「だからなんです! 駒使いが、貴族に刃向かったのですよ!」
一瞬の沈黙。
ルベルの瞳が、細くなる。
「……我が家では」
低く、冷たい声。
「弱い者から死にます」
その言葉が、静かに落ちる。
「駒使いより弱い主人など――」
わずかに間を置いて。
「主人ですらありません」
「……では、その娘は」
カインが、ルミエルを睨む。
「この猫より、強いとでも?」
その問いに――
ルベルは、わずかに笑った。
嘲るように。
「当たり前のことを聞くな」
静かな声。
だが、その一言で空気が軋む。
ルベルの視線が、ゆっくりとルミエルへ向けられる。
「ルミエルが“本気”になれば――」
一瞬、間を置く。
「この屋敷の者の大半は、穢魔の力に耐えきれずに死ぬ」
誰も、息をしなかった。
静まり返った庭に、慌ただしい足音が響いた。
「ルベル様……!」
現れたのは、一人の老人だった。
息を切らしながらも、すぐに頭を下げる。
「この度は、愚息と愚孫がご迷惑をおかけしました」
深く、深く頭を垂れる。
その姿に、先ほどまでの喧騒が嘘のように消えていく。
ルベルは、その老人へと視線を向けた。
「……お久しぶりです」
穏やかな声。
だが、その奥には一切の緩みがない。
「少し、教育をし直した方がいいかもしれませんね」
老人の肩が、わずかに震えた。
「承知しております」
迷いのない返答。
「半年……いえ、一年。屋敷から出さぬよう、徹底いたします」
一瞬の沈黙。
ルベルは、わずかに思案する素振りを見せた。
「……そうですね」
ゆっくりと、言葉を落とす。
「ヴェルファレイン当主として、そう判断いたします」
その一言で、すべてが決まった。
「今回は――これで」
静かに告げられた終わり。
誰も、逆らうことはできなかった。
張り詰めていた空気が、ようやく緩む。
だが――
その場にいた者たちは、忘れなかった。
小さな少女と、ただの猫が。
この場の“常識”を、踏み越えた瞬間を。




