価値観の違い
三人がいなくなり、部屋は静まり返った。
さっきまでの気配が嘘みたいに消えて、
空気だけが、少し冷たく残っている。
胸の奥が、じんわりと痛んだ。
——大丈夫。
そう思ったはずなのに、
息がうまく吸えない。
その時――
ノックもなく、扉が開いた。
黒髪に赤い目。
ルベルだ。
「ルミエル、おはよう」
いつもと変わらない、柔らかい声。
その瞬間、
張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。
溢れそうになる涙を、慌てて手で拭う。
隠さなきゃいけないのに、
うまく、できない。
ソファーから立ち上がる。
そのまま、ルベルの胸に飛びついた。
ルミエルが自分から、ルベルの胸に飛び込むのは珍しい。
本来なら、喜んでいい場面ではない。
分かっている。分かっているはずなのに――
ルベルの頬は、抑えきれずにわずかに緩んでいた。
「……そんな顔をして、どうした?」
廊下では、ばあやが三人を叱りつけている。事情はすでに聞いていた。
それでも、あえて問いかける。
ルミエルは胸元に顔を押し付けたまま、か細く言葉をこぼした。
「私のせいで……カリナさんと、オニキスさんが……」
ルベルは急かさず、最後まで言わせる。
「早く起きてたから……エルに怒られて。それで、みんな嫌な気持ちに……」
普段は年齢に似合わず、しっかりしている。
けれど――
自分のことで誰かが傷つくことだけは、どうしても耐えられないらしい。
「ルミエルは、悪いことをしたのか?」
ルミエルは小さく首を横に振る。
「……してない」
早起きをしただけだ。そこに罪などない。
「なら、落ち込む理由もない」
ルベルは静かに言い切った。
だが――それでもルミエルの表情は晴れない。
「お前がこの屋敷に来てから、ばあやもエルも……朝、目を覚ました時には必ずお前がいた」
ルミエルはこくりと頷く。
「本来は、それが当たり前だ」
淡々とした声のまま、続ける。
「あの……野良猫ですら出来ていたことを、あの二人は出来ていなかっただけの話だ」
ルミエルの瞳がわずかに揺れる。
「野良猫って……モミジのこと?」
「そうだ。あいつは……ルミエルの従者として、俺はまだ認めてはいないが――やるべきことは出来ていた」
生まれが特殊なだけあって、自然と身についていたのだろう。
ルミエルは、これまでの朝を思い返す。
目を覚ませば、いつも誰かがいた。
「……してくれてた」
ぽつりと零れた言葉に、ルベルは静かに頭を撫でる。
「それでも、どうにかしたいなら――」
少しだけ間を置いて、口元を歪めた。
「今夜は、俺と夜遊びでもするか?」
その表情は、公爵とは思えないほど無邪気で――まるで悪戯を企む子供のようだった。
ルミエルの目がぱっと輝く。
小さく、けれど力強く頷いた。
「それと――あの二人に“さん”は付けるな」
声音が少しだけ低くなる。
「見くびられる」
ルミエルがこくりと頷く。
――その瞬間を見計らったかのように、扉が開いた。
「ルミエル様。もう大丈夫そうですね」
ばあやが静かに一礼する。
「いいお話はできましたか?」
ルミエルは顔を上げ、ばあやを見ると、少しだけ安心したように笑った。
「できたよ……その……三人は?」
ばあやは小さく肩をすくめ、呆れたように息をつく。
そして、ゆっくりと後ろを振り向いた。
そこには――
顔色を悪くし、肩を落とした三人の姿があった。
その様子を見て、ルベルが鼻で笑う。
「いい面構えだ」
低く、短く言い放つ。
「少しは反省したようだな」
視線が鋭く細まる。
「オニキス、カリナ――後で俺のところに来い」
その一言で、空気が張り詰めた。
二人はびくりと肩を揺らし、
「……はい」
力のない声で、返事をした。
ルベルは、ルミエルに向き直る。
先ほどまでの柔らかな空気が、すっと消えた。
その表情は、静かに引き締まっている。
「ルミエルに、伝えておきたいことがある」
ルミエルの眉が、わずかに下がる。
ルベルはその様子を見てから、静かに口を開いた。
「家庭教師を付けようと思っている」
「……嫌なら、断っても構わない」
その言葉に、ルミエルの目がぱっと輝いた。
勉強は嫌いじゃない。
読み書きも、知らないことを知るのも――好きだった。
「だ、誰になるの?」
弾む声で問いかける。
ルベルは、ほんのわずかだけ視線を逸らし――
「グラヴェル・ヴァーミリオンだ」
その瞬間、空気が変わった。
声が、低く落ちる。
ルミエルの表情から、さっきまでの光が少しだけ消えた。
ルミエルは、彼の立ち姿を思い浮かべた。
あの威圧的な態度。
それだけで、体が小さく震える。
その様子を見て、ルベルが静かに問いかけた。
「……断るか?」
ルミエルはすぐには答えなかった。
震えを押さえるように、ぎゅっと自分の手を握る。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……一度、グラヴェルさんと……二人で話がしたい……」
予想外の答えだった。
ルベルはわずかに目を細める。
そして、廊下へと視線を向け――小さく息を吐いた。
「……だそうだ」
一拍。
「先生」
廊下の奥から、杖の音がゆっくりと近づいてくる。
――コツ、コツ。
やがて姿を現したグラヴェルは、ただ歩いているだけなのに、場の空気を押し下げるような威厳を纏っていた。
ルミエルも、オニキスも、カリナも――言葉を失う。
「ルミエル様。賢明なご判断です」
低く、よく通る声。
その鋭い視線が、まっすぐルミエルを射抜く。
びくりと肩が揺れ――
けれど。
「……あれ?」
ルミエルの表情が、わずかに緩んだ。
以前に向けられた冷たさが、ない。
敵意も、拒絶も――感じられなかった。
それどころか。
「グラヴェルさん……こんにちは……」
恐る恐る、けれど確かめるように言葉をかける。
ルミエルは周囲の大人たちを見回した。
そして――
少しだけ、声が大きくなる。
「みんな……部屋から出てもらっていい?」
小さな声だった。
けれど――はっきりとした意思があった。
誰も、すぐには動かなかった。
空気が、わずかに張り詰める。
「……グラヴェルさんと、二人で話したいの」
その言葉で、ようやく意味が伝わる。
ルベルは一度だけルミエルを見て――小さく頷いた。
「……行くぞ」
低く言い、背を向ける。
そのまま部屋を出ようとした時。
「主君、本当によろしいのですか」
エルが足を止め、ヴァーミリオンへと視線を向けた。
明らかな警戒。
ルベルは振り返らない。
「ルミエルが望んだ」
短く言い切る。
「問題はない」
それ以上の言葉は、不要だった。
皆が部屋を出ていくのを、ルミエルは静かに見送った。
扉が閉まる。
――二人きりになった。
ルミエルは、小さく息を整えてから、ヴァーミリオンの方へ向き直る。
「……ソファーに、座ってください……」
控えめな声。
けれど、逃げる様子はない。
ヴァーミリオンは一瞬だけ視線を落とし、勧められたソファーへと歩み寄る。
ゆっくりと腰を下ろした。
わずかな沈黙。
やがて、咳払いを一つ。
「……ルミエル様は」
低く、静かな声。
「私のことが、怖くはないのですか?」
当然の問いだった。
あれほど露骨に牽制していた相手だ。
普通の子供なら、顔を見るだけで怯えるだろう。
ルミエルは、少しだけ考えるように目を伏せる。
そして――
「……怖くない」
小さく、はっきりと答えた。
視線を上げる。
「だって、今のグラヴェルさんからは……敵意を感じないから……」
その言葉に、
ヴァーミリオンの目が、わずかに見開かれた。
「……ルミエル様は、聡い」
わずかに顰めていた表情が、静かに緩む。
そのまま、視線を逸らさずに続けた。
「私は、この家に長く仕えてきました」
淡々とした声。
だが、その奥には揺るがないものがある。
「だからこそ――」
一瞬、言葉を切る。
「貴族でもない。ましてや……平民以下の奴隷が、この家の養子になることが――許せなかった」
隠すことなく、言い切った。
逃げも、誤魔化しもない。
ただ、それが事実だった。
ルミエルは、その言葉を受け止め――
静かに目を伏せる。
驚きは、ない。
……分かっていたことだ。
「……分かってた」
小さな声だった。
けれど、はっきりとした響きがあった。
「初めて来た日から……みんなに、受け入れられてないって」
少しだけ視線を落とす。
それでも、言葉は止まらない。
「グラヴェルさんも……私を見る時、ずっと警戒してた」
ゆっくりと顔を上げる。
まっすぐに、その目を見た。
「……でも」
一拍。
「今は、違うよね」
確かめるような声。
けれど――逃げはなかった。
ヴァーミリオンは、わずかに目を伏せた。
そして――小さく息を吐く。
「……ええ」
顔を上げる。
その瞳には、先ほどまでの硬さはない。
「今は、ルミエル様を支持するために、ここにおります」
はっきりとした声音。
誤魔化しも、揺らぎもなかった。
ルミエルは、その言葉に背筋を伸ばす。
「……断言していいの?」
小さく問いかける。
それがどれほどの意味を持つのか、分かっていた。
グラヴェルの言葉一つで――
この屋敷の、ルミエルを見る目が変わる。
断言いたします」
迷いはない。
その瞳には、一切の揺らぎもなかった。
ルミエルは、すぐには答えなかった。
ただ、その視線を受け止めたまま、黙っている。
「……迷われるのも当然です」
ヴァーミリオンは静かに言う。
「私は、それだけのことをしてきました」
言い訳はしない。
ただ事実として、受け入れている。
一拍。
「ですので――」
わずかに頭を下げた。
「ルミエル様が、私を試してはいただけないでしょうか」
ルミエルは、きょとんと首を傾げる。
「……試すって?」
「一週間で――私の価値を、ルミエル様に証明いたしましょう」
ヴァーミリオンは、まっすぐに告げる。
かつてルミエルに“価値を示せ”と突きつけた時と、同じ声音で。
今度は、自分自身に向けて。
ルミエルは、その言葉を静かに受け止めた。
けれど――
「……私には、価値とか……よく分からない」
小さく、首を振る。
少しだけ考えてから、顔を上げた。
「だから――」
まっすぐに見つめる。
「私と、仲良くなってほしい」
ヴァーミリオンは、わずかに言葉を失った。
目の前にいる少女は――自分の知る価値観の外にいる。
「……それは、命令でしょうか?」
静かに問う。
ルミエルはすぐに首を横に振った。
「違うよ」
少しだけ身を乗り出して、
「お願い」
そう言って、ふわりと笑う。
その笑顔に――
ヴァーミリオンは、一瞬だけ目を細めた。
やがて。
「……そうですか」
ぽつりと呟き、
肩の力を抜くように、小さく息を吐く。
そして――
まるで、どこにでもいる老人のように。
静かに、笑った。




