主人であるということ
晴れた朝。
早朝だというのに、まとわりつくような熱気が残っている。
じっとしているだけで、体が少し重かった。
ルミエルはすでに支度を終え、ソファーに座っている。
一番に姿を見せたのはエルだった。
「ルミエル様、もう少しゆっくりしてはどうです?」
窓のカーテンはすでに開けられ、部屋には朝の光が差し込んでいる。
本来メイドが行うはずの仕事も、ルミエルが先に済ませてしまっていた。
「……二人、来るの楽しみで」
少しだけ照れたように呟く。
エルは頬を赤くし、肩を落とした。
「そうだとしても……メイドの仕事を取ってはいけませんよ」
「どうして?」
ルミエルは首を傾げる。
エルは少し考えてから、ゆっくり口を開いた。
「ルミエル様より偉い方が、ルミエル様の仕事を取っていたら……どう思いますか?」
ルミエルは視線を床に落とし、眉を寄せる。
「……困る」
「では、その方が休まず働いていたら?」
エルは続ける。
「ルミエル様は、その隣で休めますか?」
ルミエルは小さく首を振った。
「きっと……一緒に働く」
エルはふっと笑う。
「分かっていただけましたか?
ルミエル様がメイドの仕事を取るのは、そういうことなのです」
ルミエルは考えを改める。
エルと二人で朝食を済ませると、自然な流れで髪を結んでもらった。
「ルミエル様、今日はこんな感じでよろしいですか?」
エルは手際よく三つ編みを作り、黄色いリボンも一緒に編み込む。柔らかく肩に髪が落ちる感触に、ルミエルは思わず微笑んだ。
「……エル、器用だね。」
「似合ってますよ。」
その言葉に、ルミエルの胸が少し温かくなる。
コンコン、と控えめな音が二度響いた。
「どうぞ」
ルミエルが答えると、扉が開く。
ばあやに連れられて入ってきたのは、カリナとオニキスだった。
二人は揃って軽く頭を下げる。
「「おはようございます。」」
声が綺麗に重なる。
それを見たエルが、一歩前に出た。
「二人とも、来たようですね。」
その瞬間、カリナの表情がわずかに引きつる。
「カリナ。私がいては、何か問題でも?」
エルの穏やかな声に、カリナは言葉を詰まらせる。
横でオニキスが視線を送り、無言で促した。
——隠しなさい。
「エルおじさんがいるって、聞いてなかったのでぇ〜。」
取り繕うように笑うカリナ。
エルは何も言わず、窓の外へと視線を向けたあと、ゆっくりと時計を見る。
「……今は七時ですね。」
一拍置いて、淡々と続ける。
「初日ですから、この時間でも大目に見ましょう。」
その言い方に、わずかな圧が滲む。
七時に来ること自体は、決して遅くはない。
だが——それが問題ではないのだ。
「何がいけなかったのでしょうか。」
オニキスがはっきりとした声で問う。
エルは額に手を当て、小さく息をついた。
「問題です。」
視線だけで二人を射抜く。
「君たちは、ルミエル様のスケジュールを確認していないのですか?」
エルは静かに、二人を見据えた。
「私は事前に、ルミエル様のスケジュールを渡していましたね。」
カリナとオニキスは一瞬だけ顔を見合わせる。
言葉はない。だが視線で何かをやり取りし、すぐにエルへ向き直った。
「……見ました。」
オニキスがはっきりと言い切る。
その答えに、エルは小さく息をついた。
「では、なぜこの時間なのか——説明できますか?」
間が落ちる。
「本来、主人が起きる前に準備を整えるのが役目です。」
エルはわずかに視線を動かし、ルミエルへ向けた。
「ルミエル様をご覧なさい。」
すでに身支度は整っている。
衣服はきちんと着替えられ、髪も丁寧に三つ編みにされていた。
——本来、それを整えるのは誰なのか。
「今日は、私が支度をしました。」
淡々とした声。だが、逃げ場はない。
「本来であれば——あなたたちの仕事です。」
カリナは露骨に不満げな顔で、エルを見た。
「ルミエル様が早すぎるのですぅ〜。」
その一言で、空気が変わる。
エルの視線が、鋭く細められた。
「……主人の前で、その言い方は減点です。」
静かな声。だが、確実に冷えていた。
エルに妥協する気はない。
ここで理解させなければ、同じことを繰り返す——それが分かっているからだ。
その空気を、オニキスは即座に悟った。
迷いなくカリナの頭を掴み、自分と一緒に押し下げる。
「ルミエル様。私たちが至らず、申し訳ございません。」
綺麗に揃った謝罪。
だがカリナは、納得していない顔のまま無理やり頭を下げさせられていた。
顔だけを上げ、オニキスを睨む。
「オニキス、どうしてですかぁ〜」
「カリナ。黙って。」
低く、短い声だった。
エルは、そのままカリナへと言葉を重ねた。
「カリナ。反省していないようですね。」
一歩、距離を詰める。
「もしかして——自分たちより年下で、出生が……」
「エル!」
ルミエルの声が、鋭く割り込んだ。
空気が揺れる。
「……もう、大丈夫。だから……その……私が、悪いから……」
言い切れないまま、言葉が途切れる。
部屋の温度が、一気に下がったようだった。
エルははっと息を呑む。
——言い過ぎた。
自覚した瞬間、下唇を強く噛み、視線を落とした。
沈黙が落ちる。
誰も、次の言葉を出せない。
凍りついたような空気だけが、そこにあった。
それまで黙って見ていたばあやが、静かに口を開いた。
「……本当に、みんな若いね。」
柔らかな声だった。
ばあやはいつも通り、ルミエルの隣へと歩み寄る。
今にも泣き出しそうなその顔を見て、そっと抱きしめた。
「ルミエル様が謝ることではありませんよ。」
背を撫でながら、穏やかに続ける。
「仕事を理解していないあの子たちも悪いですし……エルも、少し言い過ぎましたね。」
責めるでもなく、ただ事実を置くような言い方だった。
「ですが——」
ばあやは少しだけ身体を離し、ルミエルの顔を覗き込む。
「ルミエル様も、堂々としていなければなりません。」
優しい声のまま、芯だけが強くなる。
「あなたは守られるだけの方ではありませんよ。」
一拍置いて、ふっと微笑む。
「ルベル様を、少し見習ってみるのもよろしいかもしれませんね。」
ばあやが言葉を挟んだだけで、張り詰めていた空気がふっと緩む。
「私が……ちゃんと寝れてないから……」
ルミエルの小さな言い訳に、ばあやはくすりと笑った。
「早起きは良いことですよ。」
柔らかな声のまま、軽く続ける。
「そこは、ルベル様にも見習っていただきたいところですね。」
場に、わずかな和やかさが戻る。
ばあやはそっとルミエルから離れた。
そして——背を向ける。
その瞬間。
三人の表情が、目に見えて強張った。
空気は変わらない。
穏やかなまま。
それなのに——逃げ場がない。
「三人とも。」
静かに呼ぶ。
「少し、廊下に行きましょうか。」
「「「……はい」」」
揃った返事は、先ほどまでとは比べものにならないほど沈んでいた。
ばあやは振り返らずに、そのまま扉へ向かう。
「ルミエル様、少しお部屋を外しますが、よろしいでしょうか?」
「……うん。」
短い返事を背に受け、扉が静かに閉まった。
扉が閉まったあと——
部屋には、先ほどまでの熱気がまだ残っていた。
それなのに、ルミエルの胸の奥だけが、
少しだけ冷たくなっていた。




