初めての安息
ルミエル一行は、数日かけてゆっくりとルベルの別荘へと向かっていた。
道中には小さなトラブルもあったが、順調に進む。夏の強い日差しが馬車の屋根を照らし、揺れる車輪が砂埃を巻き上げる。周囲の木々は濃い緑の葉を揺らし、蝉の声が途切れなく響いていた。
やがて別荘の門が視界に入ると、ルベルは馬車を止め、ルミエルをそっと抱き上げて降りた。
馬車を操っていたエルも、他の者に任せて馬車を移すよう指示を出す。
夏の陽光に包まれた静かな別荘の空気が、一行を迎え入れた。
馬車を降り、ゆっくりと屋敷に入ると、広いエントランスには使用人たちが両脇に整列し、礼をして一行を迎えていた。
ルミエルは、かつて自分が囚われていた牢獄とは比べ物にならない広さに、思わずキョロキョロと目を動かす。
その様子を気に留めず、ルベルは堂々と中央を歩こうとした――そのとき、使用人の脇から無理やり押し入る老婆が現れた。
背は老婆にしては高く、少しふっくらした体格。顔には柔らかな笑みが浮かんでおり、優しげな雰囲気を漂わせていた。
「ルベル様!こんな、年寄りをこんな遠いところまで足を運ばせて!」
老婆の声は見た目以上に力強く、元気いっぱいだった。
ルベルはその勢いに少し驚き、どこか新鮮な気持ちを覚える。
横でクスクスと笑うエルの声も加わり、その場の空気はほんのり和む。
ルベルは思わずエルを睨みつけるが、老婆はそんなことには全く気を留めず、ルベルの腕の中で小さく縮こまっているルミエルに目を向ける。
「まあまあ、随分小さいお客さんだね。この、傍若無人の男に何もされなかったかい?」
柔らかな声でそう尋ねる老婆に、ルミエルは言葉の意味すら完全には理解できず、ただ不安そうにルベルの腕に身を寄せて縮こまる。
ルベルはその小さな背中を守るように抱き締め、老婆の力強くも優しい視線を感じながら、微かに眉をひそめた。
押しの強い老婆の前では、ルベルの存在感もかすみ、話す機会を完全に奪われてしまった。
「あらあら、こんなに怪我して…」
老婆は長年の経験から、ルミエルの小さな体や表情だけで事情を察していた。
少女の様子をじっと見つめ、ようやく落ち着きを取り戻すと、老婆は言葉を止めた。
「後で説明する。とりあえずルミエルには、最小限の人間だけで世話をして。心を開くまでは私が対応する。ばぁやはこの為に呼び寄せたの。」
ルベルは小さく眉をひそめ、老婆に押されつつも声を潜めて答える。
「相変わらずですね…ばぁやはもう若くないのですよ」
老婆は肩をすくめて軽く笑う。
「分かってる。でも、信頼できない者には任せられないんだ。」
ばぁやは軽く「はいはい」と返事をすると、柔らかい笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「その足では歩かせられないのはわかります。女の子の部屋を急いで用意したので、そちらに行きましょう」
ばぁやが先頭に立ち、しっかりとした足取りで歩き出す。
後ろではルベルが小さなルミエルを抱き、エルが少し肩を揺らしながらついていく。
広い廊下を抜け、やがて大きな両開きの扉の前に立つ。
ルミエルは緊張で小さく身をすくめ、ルベルの腕にしがみついたままだ。
ルベルは無言で少女を守るように抱き、エルはそっと笑みを浮かべてその後ろに控えた。
部屋に入ると、ルベルはルミエルをソファに下ろして座らせた。
宿のソファよりも柔らかく、座り心地は格段に良い。
固い床で過ごしてきたルミエルには、まるで別世界の感触のようで、思わず体を小さく預けた。
ばぁやは紅茶を注ぎながら、ルミエルの様子を見つつ静かに話を切り出す。
「こんなに酷い怪我で。いったいどこから連れて来たんだい?」
ルベルは落ち着いた口調で答えた。
「奴隷市にいた。商人によると、赤子の時からいたらしく、感情らしい感情もほとんどなく、言葉も話せない状態だった。」
ばぁやは頷きながらも微笑む。
「それはそれは。その割には随分懐かれたものだね」
「こんな短い期間でここまで懐くのは、奇跡としか言えないな。」
ルベルの視線は、腕の中の小さなルミエルに向けられていた。
移動中に分かったことは、ルベルとエル以外の人間には酷く怯え、近づく者には警戒心を露わにすること。そして、二人が離れようとすると、ルミエルは混乱し、戻って来るまで隅で小さく縮こまってしまうことだった。
エルが続けて説明する。
「だからばぁやには、いち早く慣れてもらわないと。お風呂に入れるのも毎回一苦労で…」
その言葉に、ばぁやの鋭い声がルベルとエルに刺さった。
「あんたら、無理やり風呂に入れてたのかい!腕の一本や二本切り落とされても平気そうにしてるあんたらと一緒にするんじゃない!こんな傷だらけで入ったら誰でも痛がって入りたくないよ!それもこんな小さな子が耐えられるわけないだろ!」
ばぁやは勢いよくルベルとエルの頭をバシバシ叩く。
その光景を見たルミエルは、ソファで体を丸め、もし自分も叩かれるのではないかと身構えた。
ルベルは仕方なく肩をすくめ、ルミエルの小さな背中をそっと守るように腕を回す。
「腕切られたら、俺らでも痛いは!」
エルが思わずばぁやに向かってツッコミを入れる。
その声に、ルミエルは小さくソファで身をすくめながらも、ふと顔を上げてばぁやを見た。
叩かれているのに、ばぁやの行為には悪意が全く感じられない。
それどころか、ルベルやエルがルミエルに向けるのと同じ、優しさや穏やかさが伴っているのを、ルミエルは不思議そうに感じた。
小さな頭の中に疑問が浮かび、目をぱちぱちと瞬かせる。
「それは置いておきなさい。あなたたち二人は今すぐ仕事に行きなさい。後はばぁやが見ますので」
ルベルとエルはやむなく部屋を後にし、ドアの向こうへ消えた。
不安になったルミエルは、体を小さく丸めると、壁の隅へと逃げるように走り出す。
それを見たばぁやは、無理に追いかけようとはせず、静かにルミエルのための用意を始めた。
テーブルの上におやつやジュースを並べながら、柔らかい声で囁く。
「あらあら。ここに美味しいおやつがあるけど…一人じゃ食べきれないね」
部屋には、ばぁや独特の、優しく柔らかな空気が漂い始めた。
その空気に敏感に反応したルミエルは、少しずつ体を起こし、壁の隅から遠くに立つばぁやの姿をじっと見つめる。
恐る恐る、しかしどこか安心したように目を向ける小さな瞳には、ばぁやの温かさを確かめようとする慎重な光が宿っていた。
ばぁやは、もう少しで距離を縮められると確信すると、ソファに腰を下ろし、用意したおやつをひとかじりした。
美味しそうに口元をほころばせて食べるばぁやの姿を見て、ルミエルの小さな興味がじわりと引き寄せられる。
ルミエルは恐る恐る立ち上がり、ゆっくりと一歩一歩ばぁやに近づく。
横目でばぁやを見ると、ばぁやは微笑みながらもう一口おやつを口に運ぶ。
先ほどの押しの強い勢いは影を潜め、ルミエルの動きに合わせるかのように、ばぁやの動きも柔らかくゆったりとしたものになっていた。
ルミエルは足を止め、少し首をかしげる。
手にした指先が無意識に袖を触れ、ばぁやの存在を確かめるようにそっと近づける。
彼女の目は小さく瞬きながらも、ばぁやの柔らかな笑顔を追い、恐怖心と好奇心が入り混じった微かな緊張を抱えていた。
やがてルミエルはソファの前にたどり着き、勇気を振り絞ってばぁやの袖を軽く掴む。
食べかけのおやつに指を伸ばし、おねだりするように見上げる小さな瞳は、じっとばぁやを見つめ、信頼できるかどうかを測っていた。
ばぁやは優しく微笑み、ゆっくりと手を差し伸べた。
「食べたいかい?ここに座って食べてください。」
ルミエルは躊躇いながらも、そっとソファに腰を下ろす。
小さな体を丸め、まだ少し緊張したままばぁやを見上げる。
ばぁやは手元から新しいおやつを差し出し、さらに冷たいジュースもそっと置いた。
ルミエルは手を伸ばし、ぎこちなくおやつを受け取る。
指先がばぁやの手に触れるたび、ほんのわずかに温かさを感じ、少しずつ警戒が和らいでいく。
目の前に置かれたジュースの冷たさも、手にしたおやつの柔らかさも、固い床での生活では味わえなかった感覚だった。
勇気を出して小さくかじると、甘い味が口の中に広がる。
ルミエルは思わず目を丸くし、慎重に次の一口を探る。
ばぁやは黙って微笑み、見守るように座り続ける。
ルミエルの動きに合わせ、決して急かさない。
その柔らかい空気に触れ、ルミエルの肩の力は少しずつ抜け、心の中に安心感が広がっていく。
やがてジュースに手を伸ばし、一口含む。
冷たさが体に伝わり、緊張していた体がふっと緩む。
ばぁやの笑顔と穏やかな空気の中で、ルミエルは初めて「ここは安全な場所だ」と本能的に理解したようだった。
ルミエルは、おやつとジュースをほんの少し口にしただけで、満腹感に満たされたようだった。
移動中の緊張や疲れを黙って耐えてきたせいか、体は急速に重くなり、まぶたがゆっくりと閉じ始める。
ソファの上で小さく体を丸め、指先をばぁやの袖にそっと触れたまま、眠気に身を任せた。
ばぁやはその姿を静かに見守り、柔らかく微笑む。
「疲れたんですね。」
そう呟きながら、そっと手を差し伸べ、ルミエルを優しく抱き上げる。
温かい腕の中で、ルミエルはほとんど力を抜き、まるで守られていることを本能的に感じ取るように静かに身を委ねた。
ベッドに横たえられたルミエルの寝顔を確認すると、ばぁやはそっと毛布を掛ける。
部屋には柔らかな光が差し込み、外の夏の日差しは窓越しに穏やかに入り込み、木々の葉が揺れる微かな音だけが響く。
ジュースの残りや小さなおやつも、手元に置かれたまま、空間全体が静かで落ち着いた時間に包まれた。
ルミエルが眠りに落ちた後も、ばぁやはそっと椅子に腰を下ろし、手元の片付けや小さな準備をしながら静かに見守る。
外では仕事に出ていたルベルも、何かの都合で戻ってくるまで、部屋には微かに息づく平穏な時間だけが流れた。




