希望の灯火
空禍狐が去った城壁前は、嘘のように静まり返っていた。
ついさっきまで空を裂くような咆哮が響いていたのに、
今は風の音しか聞こえない。
だが――その静けさとは裏腹に、
城壁の上には凄惨な光景が広がっていた。
倒れた兵士。
壁にもたれたまま動かない者。
仲間の名を呼びながら必死に傷を押さえる兵士もいる。
さらに城壁の向こう――街の中でも騒ぎが起きていた。
崩れた屋根。
砕けた石壁。
巻き込まれた一般人たちが、あちこちで怪我をしている。
泣き声。
怒号。
助けを呼ぶ声。
そのすべてが、ルミエルの胸を強く締め付けた。
視線のやり場がなくなり、思わず目を伏せる。
「ルミエル! 大丈夫か!」
その声と同時に、ルベルが駆け寄ってきた。
次の瞬間、強く抱きしめられる。
鎧越しでも伝わる体温。
その腕は驚くほど暖かかった。
「大丈夫……」
ルミエルは小さく息を吐く。
「なんか……体が楽になった」
さっきまであった、身体を締め付けるような痛みが嘘のように消えている。
自分でも理由が分からない。
ルベルの後ろから、モミジ、エル、レヴァントも急いで近づいてきた。
「さっき、なにされたん? 怪我ないんか?」
モミジがルミエルの顔を覗き込む。
その瞳は――はっきりと揺れていた。
心配と、不安と、そして少しの恐れ。
エルはルミエルのそばまで歩み寄りながら、思考を巡らせていた。
視線は自然と、空禍狐が消えていった空へ向かう。
「不思議です……」
小さく呟く。
「魔石は、まだすべて破壊したわけではありません。
それなのに……どうして、空禍狐は退いたのでしょうか」
三神の一柱。
神の使徒とも伝えられる存在だ。
そのような存在が、理由もなく退くなど――
本来あり得ない。
だが、この場の誰も答えを持っていなかった。
ルミエルも静かに首を横に振る。
直接、あの空禍狐と向き合ったのは自分だ。
それでも――理由は分からない。
沈黙を破ったのは、レヴァントだった。
「悩むことないだろ!」
張り上げた声が城壁に響く。
「相手はあの巨大な存在だ。
魔石が数個残っていようが、気にもならなかっただけだろう!」
豪快に言い放つ。
その答えが、今この場では最も現実的にも思えた。
エルは小さく息を吐く。
完全に納得したわけではない。
だが今は、原因を考え続けるよりも優先すべきことがある。
視線を城壁の惨状へ向けた。
「おい! 早く治癒術師を呼べ!」
ルベルの怒号が響く。
その声に、兵士たちが慌ただしく動き始めた。
次の瞬間――
空間が歪み、数人の男が転移魔法で現れる。
元老たちだ。
城壁の空気が一瞬で張り詰めた。
そして少し遅れて、階段を上がってくる足音が響く。
現れたのは――イオラン。
こうして、この場に主要な者たちがすべて揃った。
ルミエルは、元老の一人の姿を見つけた瞬間――思わず駆け出した。
エルヴィアン・タリウス。
屋敷でも何かとルミエルを気にかけてくれる人物だ。
「エルヴィアンさん!」
声をかけられたタリウスは、一歩前に出る。
そして静かに腕を広げた。
次の瞬間、ルミエルはその胸へ飛び込んでいた。
タリウスは優しく抱きしめる。
まるで祖父が孫を迎えるような、温かな光景だった。
「お嬢様……」
タリウスは安堵したように息を吐く。
「屋敷から見ておりましたが……あんな危険なことをしてはいけませんよ」
そう言いながらも、その腕は安心させるように優しい。
だが次の瞬間――
タリウスの視線が横へ向いた。
その先にはレヴァントが立っている。
「あなたもです!」
ぴしりと声が響いた。
「どうして、いつもいつも身勝手なのです!」
ルミエルを危険な目に合わせたレヴァントを、タリウスは容赦なく叱責する。
だが――
当のレヴァントは、まったく動じない。
腕を組み、堂々と立っているだけだった
「俺が守ってるのだ。心配することなんてないだろ!」
どこから来るのか分からない自信に満ちた言葉だった。
タリウスは思わず額に手を当てる。
「……本当にあなたは」
小さく息を吐いた。
「お嬢様。ここはまだ危険です。私と屋敷に戻りましょう」
そう言ってルミエルに向き直る。
だが――
その瞬間。
タリウスの肩に、重い手が置かれた。
振り向くまでもない。
ヴァーミリオンだ。
「待て」
低い声が落ちる。
「お前は……私より弱いだろう」
ヴァーミリオンの視線は、そのままルミエルへ向けられる。
ルミエルは少し困ったように首を傾げた。
「でも、帰るだけですし……私一人でも大丈夫ですよ?」
「いや、そういう問題ではない」
ヴァーミリオンは静かに言う。
「小娘には状況説明もしてもらわねばならん」
その言葉に、タリウスはわずかに眉を動かした。
いつものヴァーミリオンなら、もっと威圧的に命じるはずだ。
だが今は――どこか違う。
タリウスは小さな違和感を覚えた。
その空気を、後ろからあっさり壊したのはイオランだった。
「お嬢ちゃん!」
元気な声が飛ぶ。
「会話できたのかい?」
身を乗り出す。
「俺はそっちの方が気になるんだが!」
イオランはまるで子供のように目を輝かせていた。
「出来た」
ルミエルがそう言った瞬間――
元老たちがざわめいた。
「本当かい?」
イオランが身を乗り出す。
「あの空禍狐と話せたのかい?」
その問いに、ルミエルは小さく頷いた。
だが次の瞬間。
「あり得ない!」
鋭い声が空気を裂いた。
アラステア・ヴェルディアンだ。
「嘘だ!」
ヴェルディアンは強く首を振る。
「三神の一柱だぞ!
神の使徒とも伝えられる存在だ!」
怒りというより――動揺だった。
「これまで誰一人として、言葉を交わせた者などいない!」
その言葉に、元老たちの間に重い沈黙が落ちる。
だが――
「やめろ」
低い声が響いた。
ルベルだった。
「今はそんな議論をしている場合ではない」
ルベルの視線が城壁の上へ向く。
そこには、まだ多くの負傷者が倒れている。
「直ちに治療を行え」
静かな声だった。
だがその一言で、兵士たちは一斉に動き出す。
「手遅れになれば、死ぬ者も出る」
その声は――
その場の空気を完全に支配していた。
ルミエルはタリウスの腕からそっと離れた。
空禍狐に触れられてから――
胸の奥が、ほんのりと温かい。
まるで小さな火が灯っているようだった。
ルミエルは城壁の上を見渡す。
倒れている兵士。
苦しそうにうめく人たち。
そして小さく口を開いた。
「少し……試したいことある」
皆の視線が集まる。
「もしかしたら……みんな治せるかも」
その言葉に、すぐさま声が飛んだ。
「ふざけるな!」
アラステア・ヴェルディアンだった。
「魔力もまともに扱えない小娘が、治せるだと?」
吐き捨てるような言葉。
だが――
「やめろ」
低い声が落ちた。
ヴァーミリオンだ。
その場の空気が一瞬で変わる。
「みっともない真似はするな」
静かな声だった。
だがそれだけで、ヴェルディアンは言葉を失う。
今までルミエルを冷たく見ていたヴァーミリオンが――
まさか庇ったのだ。
元老たちは驚き、互いに顔を見合わせる。
その中で。
ルミエルだけは、まっすぐヴァーミリオンを見た。
「グラヴェルさん……ありがとう」
にこっと笑う。
その無邪気な笑顔に、誰も言葉を返せなかった。
ヴァーミリオンの視線が、自分から逸れたのを感じた。
ルミエルはそっと目を閉じ、胸の奥に広がる温かさに意識を集中する。
――これが、私の力…?
空禍狐がくれた、まだぎこちないこの力。身体の内側で、光が静かに巡り、指先まで届く。
冷たく痛む穢魔の力じゃない。これは、守られているときに感じる、安心の温度。誰かを抱きしめるような、包み込まれるようなぬくもり。
その暖かさは、頭からつま先まで、全身を優しく満たす。胸の奥にぽっと灯がともるように、心まで温かくなる。
ゆっくり目を開けると、瞳の奥で炎が揺れた。
淡いオレンジを中心に、黄色の光がふわりと踊る――
まるで私自身の中で聖火が灯ったみたいに。
身体も心も、静かに、でも確かに力を受け入れていた。
「私、守れる…」そう、まだ小さな声で、自分に囁いた。




