空禍狐の祝福
ルミエルはレヴァントの腕を蹴って飛び降りた。
その足はまっすぐルベルたちに向かう。
ルベルは反射的に手を伸ばす。
自分に向かって走ってくると思ったのだ。
しかしルミエルは横をすり抜け、エルへ一直線。
「エル!」
エルは微かに笑みを浮かべ、ルベルに見せつけるように背中を向ける。
腰を落としたその姿勢が、勝ち誇りを隠せない。
ルミエルの視線は、まだエルの手にあった石を探していた。
「さっきの石、どこ……?」
エルはポケットから石を取り出し、ルミエルに向けて差し出した。
ルミエルの瞳がその石を捉える。
迷わず手を伸ばし、石を奪い取ると、低く震える声で呟いた。
「これ……エル、ごめんなさい」
手のひらから穢魔が静かに広がり、薄く青白く光る影のように魔石を包み込む。
ルミエルはそのまま石を飲み込むと、城壁の上に立つ三人を包む空気が、ひんやりと震えた。
石垣の隙間を吹き抜ける風が、魔石の力に反応するかのようにざわめく。
エルの声が緊張で震える。
「ルミエル様、何を……!」
ルミエルは視線を隣に立つ巨大な空禍狐へ向ける。
その体躯は城壁の高さに匹敵するほどで、壁の裂け目から覗く鋭い目が、低く唸るたびに城壁の石を微かに震わせる。
吐息が吐く霧は、冷たい風と交じり、淡く光る粒となって城壁の上を舞った。
ルミエルは必死にエルの腕にしがみつき、問いかける。
「さっきの石……まだある?」
焦り混じりの声に、エルはそっと頭を撫で、落ち着かせるように微笑む。
「ルミエル様、そんなに急いでどうしたのですか?説明がなければわかりませんよ」
背後で、ルベルも異変に気づき、手をルミエルの背中に置く。
城壁の上に立つ三人と空禍狐を包む張り詰めた空気。
高く乾いた風が、石の壁を滑るように抜け、微かな砂埃を舞わせている。
「一人でできることは限られている。こういう時は、みんなで協力した方が解決できるものだ」
ルベルの言葉に、ルミエルの肩の力がふっと抜ける。
落ち着きを取り戻したかのように、彼女はゆっくりと深呼吸をした。
レヴァントが口を開く。
「小娘、思っていることを口に出すのは、決して悪いことではない。連れて行った俺にくらい説明するのは、礼儀ってもんだ」
ルベルとエルは、互いに顔を見合わせる。
心の中で二人の意見が一致した――
「お前が言うな」
ルミエルは落ち着きなく瞳を泳がせる。
けれど、深く息を吸い、短く目を閉じた瞬間、ほんの少しだけ自分を取り戻したようだった。
「あのね……あの子、ずっとここを見ながら、探しものをしてたの」
ルベルは思い返す。
空禍狐は領地に入らず、ずっと城壁のあたりをぐるぐる回っていた。
まるで何かを探しているかのように、視線だけで世界を追いかけていた。
ルミエルは小さく息を吐き、胸元に手を当てる。
「……きっと……それがあるから、身体が痛いのかも」
その言葉は、確信ではなく、あくまで心の中の感覚だった。
城壁の上を舞う風と、空禍狐の目の奥に映る切実な光に、彼女のつぶやきはそっと溶けていく。
エルの頭の中で、一つの仮説が立った。
「これは……魔物寄せの魔石です。
これがあると、魔物は興奮する。
今、この街には大量に設置されている……。
もしかすると……三神も、魔物なのかもしれません」
言葉の一つひとつに、まだ確信はない。
けれどその可能性を考えた瞬間、胸の奥がひんやりとざわついた。
ただ、今まで神の使徒として崇められていた存在が――
もし魔物と同じだと知られれば。
世間の混乱は計り知れない。
「もし魔物なら……討伐も考えなければならないのかもしれんな」
ルベルは低く呟いた。
目の前で暴れるその力は、ただ見ているだけでも分かる。
圧倒的な差だ。
正面からぶつかれば、兵など一瞬で消し飛ぶだろう。
「でも魔物でも……今は苦しんでるだけ」
ルミエルは強く言う。
「早く全部壊さないと」
金色の瞳が、強く光った。
ルベルはその瞳を見つめ、ゆっくり頷く。
そしてルミエルの頭に手を置いた。
「――今すぐ集めた魔石を壊せ!」
ルベルの声が城壁に響く。
「どれだけあるか分からん。隅から隅まで探せ!」
命令が走る。
その直後――
パリン。
遠くで、ガラスの割れるような音が響いた。
パリン、パリン。
次々と、あちこちから魔石が砕ける音が重なっていく。
切なげな声で吠えていた空禍狐に、ふいに異変が起きた。
空を旋回していた巨体が――
ピタリと止まる。
風だけが、その白い羽毛を揺らしていた。
さっきまで険しく歪んでいた顔から、
怒りがゆっくりと消えていく。
代わりに浮かんだのは、どこか穏やかな表情だった。
やがて空禍狐は静かに降下を始める。
大きな翼を広げたまま、
城壁の上――ルミエルたちの目の前へ。
まるで導かれるように、
ルミエルの足が自然と前に出た。
気づけば、目の前にその顔がある。
近くで見る空禍狐は――
息を呑むほど美しかった。
透き通るような羽根。
神秘的な金の瞳。
『お前か。
さっきから、声を聞いていたのは』
突然――
ルミエルの頭の中に、低く響く声が流れ込んだ。
驚いたルミエルは、思わず周囲を見回す。
だが城壁の上の誰も、反応していない。
ルベルも兵士たちも、ただ空禍狐を警戒しているだけだった。
……聞こえてない?
呆然としたまま、ルミエルは空禍狐を見上げる。
「……あなたの声、聞こえてるの。わたしだけ?」
その瞬間。
空禍狐がゆっくりと顔を近づけ、
大きな鼻先がルミエルの前まで降りてきた。
ふっと吐いた息が、ルミエルの身体を包む。
『面白い娘だ』
金色の瞳が細められる。
『闇と光を併せ持つ娘など……初めて見た』
ルミエルは戸惑いながらも、
そっと空禍狐の鼻先に手を触れた。
温かい。
「どうして……分かるの?」
その問いに、空禍狐は静かに答える。
金色の瞳が、ルミエルの奥を見透かすように光った。
『我らはな』
『魔力を――色として見ることができる』
ルミエルには、前からずっと気になっていたことがあった。
目の前にいる空禍狐なら、
答えを知っているかもしれない。
ルミエルは小さく息を吸い、問いかける。
「どうして……悪魔でもないのに、私に穢魔が使えるの?」
少しだけ言葉を詰まらせながら続ける。
「それに……光属性だって」
その言葉を聞いた空禍狐は、ゆっくりと目を細めた。
金色の瞳が、ルミエルの奥――
魂そのものを覗き込むように見据える。
『ほう……』
低い声が頭の中に響く。
『娘の魂からは……あやつの魔力が漂っておる』
『だが、それとは別に――もう一つの魂の気配がある』
空禍狐は興味深そうに、ルミエルを見つめた。
『それなのに、器は一つ』
『くく……これは実に面白い』
『娘……お前は随分とチグハグな存在だな』
ルミエルは思わず顔をしかめた。
意味が分からない。
「チグハグ……?」
戸惑った声が漏れる。
「どういうこと……?」
空禍狐はしばらく黙ったままルミエルを見つめ、
やがて静かに答えた。
『言葉のままだ』
『今、お前の中では魂の力が強く出ている』
『本来この身体に宿る娘の力は――それに抑え込まれておる』
金色の瞳がわずかに光る。
『だが……』
『私が少し整えてやろう』
空禍狐がゆっくりと口を開く。
次の瞬間――
淡く輝く光の息が吐き出された。
きらめく粒子のような光は、
ふわりとルミエルの身体へと流れ込む。
光は糸のようにほどけながら、
ゆっくりとルミエルに絡みついた。
そのまま身体を包み込み、
淡い輝きが全身を覆っていく。
城壁の後ろで見ていたルベルが思わず駆け出した。
「ルミエル!」
だが――
エルが腕を伸ばし、その肩を掴む。
「主君。今はもう少し…」
ルベルは歯を食いしばりながら足を止めた。
その間にも、光は少しずつルミエルの身体へと吸い込まれていく。
やがて――
ルミエルの胸の奥から、
柔らかな光がじわりと溢れ出した。
まるで、身体の内側に灯がともったようだった。
ルミエルは自分の手を見つめる。
「これって……光?」
頭の中に、空禍狐の声が響く。
『そうだ』
『娘の本来の魔力を引き出してやった』
少し間を置いて続けた。
『これは、私を苦しめていた魔石を壊してくれた礼だ』
そう言うと、空禍狐はゆっくりと翼を広げた。
巨大な身体がふわりと宙に浮く。
「待って……!」
ルミエルが思わず声を上げた。
「まだ聞きたいことが――」
だが、空禍狐は振り返らない。
まるで最初からそれ以上語るつもりなどなかったかのように、
静かに空を舞い上がる。
そのまま山の方へ向かい、
ゆっくりと遠ざかっていく。
やがてその姿は、
深い山の奥へと消えていった。




