空に響く
イオランは空禍狐を見上げながら、三神について話し始めた。
「空禍狐、禍海月、森禍鹿。この三体は、神に遣わされた使徒とされているんだよ」
ルミエルとモミジは、空禍狐のしなやかな白い毛並みと、透き通る羽根を見つめる。
その神秘的な姿に、二人は自然と納得していた。
「使徒と呼ばれているのは、彼らが自然そのものを操る存在だからさ」
モミジの頭に疑問がよぎる。
「それなら、魔法使える奴らも操れるやん」
イオランは小さく首を横に振ると、指先に氷を生み出した。
「モミジくんの言っている“操る”っていうのは――こういうことかい?」
モミジは、イオランの指先に浮かぶ氷を見て小さく頷いた。
腕を組みながら、もう一度空禍狐を眺める。
イオランは言葉を続けた。
「これは魔法だ。あくまでもマナから作られた物質にすぎない。
だが――あそこに浮かんでいる狐は違う。本当に自然を操れるんだ」
ルミエルはいまいちピンと来ていなかった。
だが、隣に立つモミジは違った。
その意味を、はっきりと理解していた。
身体がぶるりと震える。
「せやな……それは、怖いな」
さっき見た光景が頭に浮かぶ。
夜空が、まるで本のページのように折られた。
空禍狐はその折れた空を軽々と扱い、雲を掴んで自在に動かしていた。
――あれは魔法なんかじゃない。
モミジは、そう理解した。
「自然を操る神の使徒として、三神と名付けられた存在さ。
その三神を目にすれば幸福になる――そう言われるほど珍しいんだよ。
人の前に姿を現すことも、被害を与えることもなかったからね」
モミジ、ルミエル、イオラン、レヴァントは改めて空を見上げた。
そこに浮かぶ空禍狐は、とても人を襲うような存在には見えない。
イオランもずっと観察していたが――
なぜこんな場所に現れたのか、見当もつかなかった。
「カリオスは虫の居所が悪いだけだと言っていたが……お嬢ちゃんはどう思う?」
イオランは、空禍狐を見つめるルミエルに問いかけた。
ルミエルは、瞳に映る空禍狐の姿をそのまま言葉にする。
「間違ってないと思う……」
横でレヴァントが、誇らしげに胸を張った。
「小娘も同じ意見だ!」
イオランはすぐに指でレヴァントの口を押さえた。
「……なんでそう思ったんだい?」
ルミエルは空を見上げたまま、小さく答える。
「苦しんでる……あと、何か探してるみたい」
その言葉に、イオランは静かに空禍狐を見つめ直した。
――確かに。
どこか、そんな気がした。
空禍狐は空中を旋回し続けているだけだった。
最初に城壁を壊した攻撃こそあったが、その後は違う。
こちらが攻撃した時だけ、反応するように応戦している。
それ以外に攻撃はない。
まるで――何かを探しているようにも見えた。
「探すとして、何を探している?
この領地に特別な物なんてないはずだが」
イオランが空を見上げながら呟く。
その時だった。
空禍狐が苦しそうに、時折雄叫びを上げる。
ルミエルの身体が小さく反応した。
「さっきから……苦しいって言ってる」
その場にいた大人たちは、一斉に目を見開いた。
イオランはすぐにルミエルの肩に手を置く。
「言葉が……分かるのかい?」
ルミエルは空禍狐を見つめたまま答える。
「頭に響いてくるの……
苦しい……助けて……早く見つけて……って」
その会話の最中だった。
城壁に立つ兵士たちが、次の攻撃を放つ。
空禍狐は応戦するように、近くに浮かぶ雲を引き寄せた。
雲はゆっくりと形を変え――
飛んできた攻撃を、すべて包み込んだ。
放たれた魔法は雲に包まれた。
次の瞬間――雲は雨へと姿を変える。
無数の雫となった魔法が、城壁へと打ち返された。
雫は石を容易く穿ち、次々と穴を開けていく。
中には城壁を貫通するものもあり、兵士たちは次々と倒れていった。
その光景を見たルミエルは、城壁へ向かって走り出す。
だが――
モミジが腕を掴み、強引に引き止めた。
「どこ行く気や。これ以上はあかん」
「ルベル達が……止めないと……」
イオランはその言葉を聞き、静かに口を開く。
「君に止められるのかい?
……話ができるのか?」
ルミエルの視線は、瓦礫の散らばる石床へ落ちた。
手が震えている。
出来る、と断言できないからだ。
だが――出来ないと言えば、きっとあそこには行けない。
それだけは理解していた。
「で……できる」
かすれた声だった。
イオランはそんなルミエルをじっと見つめる。
まるで、その心の奥まで見透かすように。
「本当に?」
そして静かに続けた。
「君のその返事で、戦局が変わる。
……それを理解して言っているのかい?」
その言葉は、逃げ道のない問いだった。
ルミエルには、この領地すべての責任を背負うほどの覚悟はなかった。
視線が揺れる。
その瞬間だった。
横からレヴァントが、ひょいとルミエルを抱き上げた。
突然高くなった視界に、ルミエルは驚き、思わずレヴァントの胸にしがみつく。
背中には、彼の背丈ほどもある大剣が揺れていた。
「責任なら俺が取る」
レヴァントは空を見上げ、口元を歪める。
「この小娘、面白いことを言いやがる」
イオランは右手で額を押さえ、深くため息をついた。
「……そういう問題じゃないよ、カリオス」
静かに首を振る。
「俺はお嬢ちゃんの覚悟を聞いているんだ」
レヴァントは鼻で笑った。
「だから言ってるだろ」
ルミエルを軽く持ち上げる。
「責任は俺が取る」
そして堂々と言い放つ。
「この小娘が嫌がろうが、若様に止められようが関係ねぇ」
空禍狐を睨み上げた。
「俺が連れて行く」
イオランは面倒くさくなったのか、小さく息をついた。
そして再び瓦礫の上に腰を下ろし、二人の前をあっさりと空ける。
「カリオスは言い出したら聞かないだろ」
肩をすくめた。
「今回は何かあれば、僕も責任を取るよ」
そう言うと、右側の塔を指さす。
「あっちの城壁に若様がいる」
レヴァントはニヤリと笑った。
「そうか」
ルミエルを抱えたまま、モミジを見下ろす。
「小僧。俺のスピードについてこれるか?」
モミジは眉をひそめた。
「追いつけるに決まってるやろ」
レヴァントとモミジは同時に走り出した。
空禍狐は何もせず、相変わらず空を旋回している。
「声が……近づいてる」
ルミエルは小さく呟いた。
空禍狐の声が、さっきよりもはっきり頭に響いてくる。
「話しかけられるのか?」
レヴァントが走りながら聞く。
「まだ……遠すぎて……ダメ……」
レヴァントはそのまま城壁の階段を駆け上がった。
空禍狐の攻撃で、城壁の壁には大きな穴が開いている。
階段を上りきると――
城壁の上が見えた。
そこには、倒れた兵士たちの姿があった。
城壁の上は、想像以上に凄惨な光景だった。
砕けた石壁。
散乱した武器。
そして――倒れた兵士たち。
その奥で、ルベルとエルが兵士たちに戦闘指示を飛ばしていた。
ルミエルはルベルの姿を見つけ、思わず声をかけようとする。
だが、その前に――
「若様!」
レヴァントの声が城壁に響いた。
「小娘を連れてきたぞ!」
ルベルが振り向く。
こちらを確認すると、険しい表情のまま駆け寄ってきた。
その足取りは速く、怒りと焦りが混ざった空気をまとっている。
ルベルの視線が、レヴァントに抱えられたルミエルへと落ちた。
「……ルミエル?」
低く、抑えた声。
その背後では――
夜空を巨大な影が旋回していた。
苦しげな咆哮が、再び空を震わせる。
ルミエルはぎゅっと拳を握る。
頭の奥に、あの声がまた響いた。
――苦しい。
――早く、見つけて。
ルミエルは空を見上げた。
そして、小さく息を吸う。
これから、自分が言わなければならない言葉の重さを感じながら。




