神の使い
暗く沈んだ森を、冷たい夜風が切り裂く。
頬に当たる風は痛いほど鋭く、呼吸さえ白く滲む。
枝葉がざわめき、遠くの梢からは微かな樹液の匂いが漂う。夜の森は、静寂と生命の気配が入り混じる、不思議な緊張感に満ちていた。
ルミエルは、今まで感じたことのない速さに目を閉じた。
指先に力を込め、モミジの服をぎゅっと掴む。
胸元越しに伝わる鼓動。
その温もりだけが、凍てつく森の中で唯一、現実だった。
背中越しに震えを感じ取ったモミジは、わずかに速度を落とす。
「大丈夫か?今からそんな調子やと、気ぃ滅入るで」
振り向きざまに笑う。
その横顔を見た瞬間、ルミエルは違和感を覚えた。
月明かりに照らされた彼は――どこか、遠い。
木々の影が揺れるたび、彼の輪郭も揺れ、まるで森全体がモミジの存在を包み込むかのようだった。
「モミジ……変わった? なんか……あった?」
問いかけは、風に溶けるほど小さい。
モミジは答えず、軽やかに地を蹴った。
枝を踏み、影を縫うように進む。
足元の小枝や落ち葉が、柔らかくも乾いた音を立てる。
「せやな……色々、思い出してん」
一瞬だけ月を見上げる。
金の瞳に映る、白い光。
「嬢ちゃんになら……そのうち話したってもええ」
そして、不意に笑った。
「行く前に、ええもん見せたる」
腰から小刀を抜き放つ。
シュッ、と夜を裂く音。
投げられた刃は木の枝に絡みつき、ワイヤーが月光を反射する。
森の奥からは、フクロウの低い鳴き声が響き、風に揺れる葉のざわめきがその間を埋める。
モミジは軽く引き、体を宙へ預ける。
風を切る音と共に、一気に枝上へ。
夜空に浮かぶ月と森の闇が、二人を包み込む。
静まり返った森の上で、彼は振り返った。
「ほら、嬢ちゃん。上の景色は別格やで」
月明かりに照らされた森の海。枝葉が波打つように揺れ、遠くの山並みは銀色の稜線を描く。
風はさらに鋭く、二人の髪を揺らした。冷たくも清らかな空気が、夜の深さを強調する
モミジは枝先まで駆け上がると、躊躇なく空へ身を投げた。
夜風が二人を包み込む。枝葉がざわめき、森の深い匂いが鼻をくすぐる。遠くで木の葉が重なる音がする。
頂点に達した、その瞬間。
世界が、静止する。
風も、音も、重力さえも――ほんの一瞬だけ、消えた。
木々の間に差し込む月光は、銀色の絨毯のように森を覆い、枝の影を揺らす。
眼下に広がる森は黒い海のようで、月は白く大きく、夜の空に浮かぶ王冠のようだった。
時折、遠くの山の稜線が銀色に光り、夜の静寂に奥行きを与える。
ルミエルの金の瞳が、月光を映して輝く。
その瞳は森の闇の深さを映し、まるで空間全体が彼女を中心に静止したかのようだった。
「……すごく、綺麗……」
吐息混じりの声が夜に溶ける。風に乗り、木の葉を震わせながら森の奥深くまで届いた。
モミジは横目で彼女を見る。
「せやろ。ルベルの旦那には内緒やで」
口元だけで笑う。
「俺、これでもイエローカード二枚目なんや」
ルミエルは小さく首を傾げた。
「イエローカード?」
「あと一回なんかやらかしたら……追い出される、っちゅうことや」
軽い調子。でも本気か冗談かは分からない。
ルミエルは少しだけ考え、そして――
ふわりと笑った。
初めて悪戯を覚えた子供のように。
「でも、これは数に入らない…」
月明かりの下、金の瞳が細くなる。
「だって……モミジは、私に逆らえない…」
その微笑みは、可憐で。
けれど、どこか絶対だった。
森の闇も、月光も、二人だけの世界に溶けていくようだった。
「ここの領地は広いから、少しはようするぞ。」
ルミエルはモミジの背中を強く掴む。
伝わってくるのは、モミジの鼓動と温もり。そして、静かな夜の音だけだった。
森を抜け、街が視界に入る。
真夜中の街は普段より明かりが少なく、何かの襲撃を待つかのように騒然としていた。
城壁の奥から爆発音と地鳴りが響いて来る。
街からまだ距離があり、城壁はさらに奥にあるというのに――その音は目の前に迫っているかのように感じられた。
瓦礫が崩れる匂いが風に混じり、夜の静寂を切り裂く。
ルミエルは身体を震わせた。
小さな肩の揺れだけでも、恐怖が全身に伝わってくる。
「嬢ちゃん、恐らくルベルの旦那は城壁の上や。嫌なら帰るで」
モミジはルミエルの震える身体を感じ取り、声をかけた。
状況の深刻さは、彼から見ても一目瞭然だった。
自分がルミエルを守りつつ、あの防衛戦に加わるほど強くはない――そう冷静に理解していた。
「大丈夫…モミジ、行って」
モミジはつま先に力を込め、覚悟を決める。
夜風が顔を切る中、視界の端で城壁の上に立つルベルの姿がわずかに光った。
二人だけの緊張と決意が、夜の空気をさらに重くする。
◇◇◇
地鳴りが大きくなり、森の向こうに姿が現れる。
百を越えるだろう、レッドボアの大群が押し寄せてきた。
ルベルは意外にも、ほっと息をついた。
この数のレッドボアでは、正直なところ脅威にはなりえなかったからだ。
兵士たちには何もさせず、自信を持って状況を見守る。
岩石のように大きな火の塊を、十個ほど作り出す。
ルベルはゆっくり手を下げると、火の塊がレッドボアに向かって静かに、しかし確実に動き出した。
「コレが終わったら、明日はレッドボアの祭りだな」
ルベルがエルに声をかける。
火の塊が先頭のレッドボアにぶつかると、衝撃と爆発音が城壁の外から轟いた。
その爆撃の中でも、エルは平然と声を続ける。
「お肉もいっぱい残るでしょうし、備蓄用に干し肉にもしたいですね」
冷たい爆風と破壊の音に囲まれながらも、エルの口調には揺るがぬ実務的な冷静さがあった。
ルベルは次の準備に入った。
火の塊が一つ、また一つと増えていく横で、エルは回収した魔石を手に取り眺めている。
「そうだな。腐らすのも勿体ない。素材を売れば良い金にもなるだろう。減税してもいいな」
冗談を交わし、二人の間に軽やかな笑いが広がる。
戦場の熱気を忘れさせるようなひとときだった。
しかし、レッドボアの大群があらかた落ち着きを見せた頃、空に何かが現れ始める。
黒い影がゆっくりと舞い上がり、羽音が夜風を切る。
地上の戦いとは別の脅威――空を飛ぶ魔物の登場だった。
「アレはちょっとやばいかもな」
「そうですね……ワイバーンでしょうか。数的にも厄介です」
ルベルは遠くを飛ぶ魔獣の群れに視線を走らせる。
その動きに、いつもと違う違和感があった。
「何かから逃げている……か?」
群れは規則的ではなく、まるで何かに追われるように空を舞っていた。
その異常な動きが、戦場の空に新たな脅威を知らせていた。
ワイバーンが一斉に逃げ出す。
本能が、何かを察知した。
空気が歪む。
空が、鳴いた。
ルベル達が瞬きをする。
その一瞬で、世界の法則が裏返った。
空が折れる。
水平に。
青は裂け、空間が紙のように重なる。
逃げ遅れたワイバーンは、その隙間に呑まれ――
音もなく、圧し潰された。
重なった空が開くと、そこから零れ落ちるのは、原形を失った肉塊。
静寂だけが残った。
その現象を前に、ルベルとエルの警戒は一瞬で極限に達した。
空が、何事もなかったかのように元へ戻る。
静寂。
次の瞬間――
空間の裂け目から、本の頁をめくるようにして、それは現れた。
白く透き通る羽根を持つ、狐。
いや――狐の貌を持ちながら、胴はしなやかな竜のそれ。
純白の毛並みは光を帯び、胸元だけが淡い桃色に揺れている。
神聖とも、禍々しいともつかない存在感。
エルは城壁から身を乗り出し、石を握り潰さんばかりに力を込めた。
「主君……あれは、やばいです……」
ルベルの額を、冷たい汗が伝う。
視線を逸らさず、低く呟く。
「俺も初めて見る……もし、あれが――空禍狐ならな。」
二人は息を呑んだ。
それは空高く舞い上がり、ゆっくりと円を描く。
そして――
吠えた。
グォォォォオオオオオ――――
次の瞬間。
空が、きらめいた。
瞬いていたはずの星々が、軌道を外れる。
夜空から、引き剥がされる。
星が、落ちた。
光の粒ではない。
遠くで輝いていた“本物の星”が、軌跡を引きながら飛び散る。
いくつもの流星が四方へ弾け、
昼の空に、夜が裂け目のように現れる。
ルベルの喉が鳴る。
「……空禍狐」
それは、空を操る存在ではない。
空そのものを、掴み、毟るものだった。
空を手足のように掴み、自在に折り曲げる巨大な狐。
それを見上げるしかない人々。
呆然と立ち尽くす者。
叫びながら逃げる者。
その場に膝をつき、祈りを捧げる者。
恐怖と畏敬が入り混じる中、誰もが理解していた。
あれは、抗う存在ではない。
空禍狐。
天を自在に操る神の使い。
エルは静かに頭を垂れる。
「……間違いありません。あれが空禍狐です。」
その声には、確信と僅かな緊張。
隣で、ルベルは空を睨み続けていた。
赤い瞳が、月光を受けて妖しく光る。
「ああ……」
低い声が落ちる。
「だが――何に怒っている。」
星が、また一つ空から外れた。
夜の配置が崩れる。
欠けた星座の隙間から、黒い空虚が覗く。
空禍狐の金の瞳が、ゆっくりと地上へ向く。
街を。
城壁を。
そして――
ルベルを、見た。
赤と金。
夜空の下で、視線が交錯する。
その瞬間。
空が、軋んだ。




